第4話 ハエトリグモはサザンカに恋をした

文字数 1,966文字

 チズは必死だった。狩りをすることも忘れ、ひたすらカタシの花びらを縫い留め続けた。チズの体は更に細くなり、糸も弱弱しくなって、花びらをもって一輪挿しをはい上がることが段々と辛くなっていった。
 初めてカタシの花びらが落ちてから一週間が経った日の朝、とうとうチズは花びらを運ぶことができなくなった。それでも無理に運ぼうとするチズにカタシは悲しげに訴えた。
「お願いだからもう止めて。もう十分よ。十分すぎる程尽くしてもらったわ。今のあたしは散ることよりも、チズさんがぼろぼろになることの方が辛いの。止められないことを止めようとする、あなたを見るのが辛いのよ」
「止められる!」
 チズはぐっと力を込めて言った。
「今日の今日まで花びらは、一枚だって元に戻らないことはなかった! 君は出会った頃のまま、こんなに綺麗に咲いている! この花びらさえ元に戻せば、もう完璧に元通りだ!」
「いいえ、チズさん。あたしは昔のままではないわ。たしかにあたしの花びらは、あなたのおかげで変わらずここにある。けれどもあたしの命の欠片は、ひとつたりともここにはないの。あなたもあたしも知りっこない、どこかに行ってしまった。誰であろうと命は決して昔のままではいられないのよ」
 カタシにあやすように諭されても、チズは諦めきれなかった。止めるカタシの声も聞かずに花びらを運ぼうと8本の足を踏ん張った。だが岩のように花びらが重く、やがてふうふう息をしながらチズは座卓にへたり込んでしまった。
 チズは静かに泣いた。自分の何もかもが情けなく、うらめしく、どうしようもなく泣けた。
「君はどうして花なんだ」
 チズは顔を座卓へ伏せたままカタシに問う。
「もしも君がハエトリグモだったなら、もっと長く生きられた。きっと君は狩りの名手になって、仲間から尊敬されてた。気の向くままに旅をして、世界の全てを知ることだって出来た。いい男と知り合って、子供を持てたかもしれない。だのに花の君は、ここで散るしかないなんて、そんなことは不公平だ!」
 チズの言いたいことは尽きない。だが異常な疲れがチズの口を閉じさせた。代わりに涙だけがチズの目から流れ続けた。黙って聞いていたカタシはそっと口を開いた。
「それでもあたしは幸せよ」
 チズが見上げると、カタシは穏やかに微笑んでいた。
「あたしはチズさんと出会って、お話をして、ほかの花より賢くなれたわ。庭の花は長生きだけど、あたし程ものは知らないはずよ。あなたの糸の綺麗さもね。みんなみんな、あなたがあたしにくれたのよ。あなたと出会っていなければ、あたしはそれこそ一人ぼっちで、ただ散るだけの花だった。チズさん、あなたがあたしを、特別な花にしてくれたのよ。だからあたしは、幸せだわ。もうすぐ消える命だけど、それでもそんなに怖くはないわ。あたしは特別な花になったんですもの」
 カタシは「だから」と言葉を接ぐ。
「チズさんだって、きっとそうよ。いつもあなたは自分を否定してばかりだったけど、あたしを特別な花にできるくらい、あなたには素敵なものがいくつもある。あなたが他のクモより劣ることなんて決してないわ。あなたもきっと特別なクモなのよ」
 不意にビインと音がしてカタシの花びらがひとひら落ちた。チズがあっと思う間もなくもうひとひら、またひとひらと舞い落ちてきて、チズは甘くやわらかなカタシの香りに埋もれていった。
「もうお別れね。チズさん、今までありがとう。あなたに会えて本当によかった。チズさん――」
 最後の言葉は意識とともにかき消えて、チズはそのまま眠りについた。



 チズが目を覚ますと、あたりはすっかり暗くなっていた。カタシが咲いていた場所は空っぽで、漆の座卓の上はチズだけになっていた。あれだけ降り注いだ花びらも、満ち満ちていた香りさえ、欠片も残っていなかった。チズは体の節々に力を入れ、ふらつく足で立ち上がった。よくあたりを探してみても、カタシのいた証はどこにも見つかりはしなかった。
「でも、僕は覚えている」
 チズはつぶやいた。
「カタシさんがどんなに美しかったか。優しかったか。明るかったか。僕は知っている。彼女と話したこと、彼女に教わったことも、みんな僕は覚えているんだ」
 不意に窓から光が差し込んで、チズはそちらを向いた。厚い雲の切れ間から、丁度満月が出てきたところだった。すると、視界の端にキラキラと光るものがある。それは満月の光を受けて輝く、チズの垂らしたしおり糸だった。チズの糸はとても柔らかな輝きを放っていた。
「たしかに君の言う通りだ」
 チズは満月が再び雲に隠れてしまうまでの間、輝く糸を眺めていた。そして月が雲に隠れると、糸を辿って巣に帰って行った。



 チズは今も老婦人の家で暮らしている。相変わらず狩りは下手だが、もうチズはそのことを気にしていない。
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