第3話 ― I’m watching ―

文字数 27,469文字

 ゴーン、ゴーンという音がする。時計塔としての役割を兼ねたこの建物では、正午を迎えると帝都中に届く時報の鐘を鳴らすのだ。

 そんな高層建築に本部を置く戦死通知課では、まるで体の芯に響くような体験をすることとなる。トリル課長はどうにもこれが苦手らしく、三十分前には休憩の合図を送ると屋外に出て行ってしまう。――もっとも彼はその事実を頑なに認めていないらしく、僕もジリアさんから聞いただけであるが。戦死通知課は全二十階ある層の内、十二階から十四階を利用している。そのためエレベーターが必須で、トリル課長は万が一にも昼時の混み合いに巻き込まれたくなのだと予想できる。

 さて、それだけの高さを有していると言っても、戦死通知課の使用している三つの階層にはガラス窓が存在しないため、中にいる間はそんな高所にいるという感覚は伴わない。強いて言うならば、エレベーターの昇降時に何とも言えない三半規管への刺激を感じ取れるくらいだ。内側のレイアウトは一戸建ての事務所などと特段変わりはない。それぞれにデスクが設けられ、仕切りも存在しないため、軍の事業とは思えないほどアットホームな職場である。これにはこの場を取り仕切るトリル課長の人柄も関係していると思う。

 僕――ケイン・ウィットナーの机は、一月前から十三階にあるジリアさんの席の隣に存在する。元々は彼女の以前のパートナーが座っていた場所らしく、辞職とともに空いた席をそのまま割り当てたらしい。僕が彼女の部下という立場である以上、妥当な判断だと言えた。この一月の間、ジリアさんのもとで戦死通知課の業務を手伝い、その実状を知った。ただ遺言を伝えるだけではない、人員が抱える葛藤も。僕はまだ答えが見つからないでいるが、ひとまずこの仕事を手放すことは考えていない。辛いことも多いが、今はそれ以上にやり甲斐を感じられているのである。

「ウィットナーくん」

 隣で書類をめくっていたジリアさんに呼びかけられた。一月前から変わらない端正な表情は、ふとしたときに僕に緊張を与えてくる。それを悟られないように少しだけ意識して口角を上げて返事をした。

「どうしましたか?」

「この案件に君を起用しようと思う。確認してくれ」

「わかりました」

 僕は数枚の紙束を受け取ると、その中身を確認した。どうやら帝都の近郊に位置する『カテナ市』という場所に赴くらしい。内容は『戦死通知』。しかし、その紙の『遺書の有無』の欄の『無』のほうが丸で囲まれていた。それを見て僕は少しだけ息を詰まらせる。これは本人の遺志が無い――つまり、必要であればその偽造をする、ということだ。一番初めの時にはこの説明すらされずに任へと就き、戦死通知課における洗礼を受けさせられたのだと、今では思う。

「すぐに向かいますか?」

「いや、今日は事務作業に追われそうだ。明日の朝から出発する方が良いだろう」

 トントン、と机を使って紙を整えながら、ジリアさんはスケジュールを概算しているようだ。帝都の中心に位置するここからなら、彼女は相棒のバギーをかっ飛ばすだろう。朝からは嫌だなぁとしみじみ思うが、その思いが伝わらないこともこの一月で学んだ現実だ。

「りょ、うかいです。僕はまた、聞き込みの手伝いをすれば良いですか?」

 僕は思わず引きつりそうになる表情筋にぐっと力を込めて、多分さっきより良い笑顔で返事をした。しかしジリアさんは一瞬キョトンとした顔になると、次に続けた言葉は思いも寄らないことだった。

「いや。君を『起用』するんだ。つまり、今回はウィットナー君一人で行ってもらう」

「えっ、えぇっ⁉」

 僕はオフィス中に伝わるような大声で叫んでしまった。



 結果から言うと、ジリアさんは僕に同行することになった。移動手段にバギーが必要ということが建前だが、その気遣いは、僕がまだ未熟であるとか、責任が取れないだとかで慌ただしく騒いだことを、課の他の人間が見かねたことは想像に難くない。ジリアさんは若干不本意そうではあったが、トリル課長との話し合いの末、ようやく同行を了承してくれた。後から苦笑いのトリル課長が、彼女は鬼畜なんだ、と耳打ちしていったのが印象的である。

「ただし、今回の任務ではウィットナー君が主体となって行動することを許可してください。ついてくるだけでは、いつまでも仕事に慣れることはできません」

 ジリアさんの妥協点はここだった。簡単に言えば、今までの彼女と僕の役割を変えてしまうということだ。慣れさせるためとはいえ、かなりの荒療治である。しかし彼女の意思が変わることはなかった。――ともあれ、僕はたった一人による任務の遂行という重圧からはどうにか逃れることができた。僕は緊張のせいで良質とは程遠い睡眠の後、今は爆速のバギーに揺られている。

「戦死通知課には、慣れてきたか?」

「いえ、全く!」

 帝都内を交通規範ギリギリの速度で走るジリアさんは『足』としての任務をきっかり果たし、本部から三十分ほどで目的の場所へと着いてしまった。ゴーグルを外し、すり減らした精神のぶんだけ深呼吸をすると、じっとこちらを見るジリアさんと目が合う。ヘーゼルの瞳の視線は僕を捉えて離さず、なぜだか恥ずかしくなってくる。

「あ、あの、なにか付いてますか?」

 健康的で美しい女性からの視線を浴び続けて、僕はいたたまれなくなった。するとジリアさんは不思議そうな表情を浮かべると、その本意を口にする。

「なにを言っている。君が主体の任務なのだから、私は指示を待っているんだ。まずどこに向かうのか、どんな情報が欲しいのか、自分で考えて動いてくれ」

「え⁉ あっ、はい!」

 気を抜いている場合ではなかった。今回の仕事は僕が方針を決め、『戦死通知課』としての役割を果たさなければならない。いつもの助手役だけでは終われないのだ。僕は揺れる三半規管を叩き直し、鞄から今回の任務についての書類を取り出した。

「で、ではまず、今回の任務について確認します。殉職者の名前は『トマス・レルボス』。二十五歳。徴集兵としてカテナ市を出て、先のヌーリット海戦にて殉職なさったと報告が入っています」

「ヌーリット海戦……一年以上前、敵国領地であるヌーリット海岸で発生した戦争だな。帝国軍が砲弾夜襲を仕掛け、敵軍の軍地主要地の一つを破壊したと聞く」

 さらりと過去の戦争の概要を述べるジリアさんは、思い返せば元兵士だと言っていた。僕は不敬を承知ながら少々気になったことを尋ねてみる。

「失礼だと思うんですけど……ジリアさんはいつから戦死通知課にいるんですか?」

「三年くらい前だな。だが戦地を離れてからも、なるべく戦争についての情報は仕入れるようにしている」

 う、と息を詰まらせる。つまり今回の戦争について知識が薄いのは僕の勉強不足を指摘されているようなものだ。一年前と言えばちょうど士官学校で忙しかった時期だった、などという言い訳はとても目の前の上司にはできず、僕は自分の怠慢を反省するばかりだった。

「き、気をつけます」

「事務員のカルエさんを知っているか? 彼女は軍の上層にコネクションがあるようだから、気になることがあれば尋ねてみると良い。かなり正確な情報を教えてくれる」

 それにかなりお喋りだ、と付け足すジリアさんは、普段からその事務員の方にお世話になっているのだろう。僕は一応その情報を頭の片隅に仕舞っておきながら、任務の確認を始めた。

「えっと、トマス・レルボス氏はレルボス家の長男。両親と七つ離れた妹とともに育ったようです。また、父親のトム・レルボスはカテナ市の市長を務めているとのことです」

「と言うことは、家柄は悪くないだろうな。字の読み書き等の教養はあっただろう。――遺書を偽造する際には、文官による代筆ということにしておいたほうが懸命だ」

 冷静なジリアさんの判断だが、僕は胃がきりりと締められるような気がした。彼女が僕に最初に見せたあの光景が、どうしてもフラッシュバックしてしまう。愛する夫を失い、狂乱する女性を、僕はただ見ているしかなかった。

「実際に戦場にいる場合、遺書を書いて送るための設備や人員は用意されていたんですか?」

「なかった、とは言わない。ただし、自分で文字の読み書きができる人間はともかく、できない人間は文官に依頼するか、文字を書ける知人を頼る他なかった。私も同じ戦場に立った人間から、何度か代筆を頼まれた覚えがある」

 こう聞けば、帝国軍は実に兵士を酷使している。肉体ではなく、精神や信憑性といった部分で、だ。兵士徴集の強制力は薄いものの、志願に応じる大きな見返りである『知的教育』は疎かという他ない。

「今は一般市民に、兵士に対しての実態は伝わっていないから良いですが……果たしてこれから、ちゃんと上手くいくんですかね」

 漠然とした疑問を漏らしてみたが、僕のような軍事業務の末端にいる人間では、殆ど軍人などとは言えない。知らぬ存ぜぬで通せる立場ではないが、そんな上層の考えに一石を投じることなんて夢のまた夢だ。するとジリアさんは僕の懸念に答えるように軍の事情を話してくれる。

「そういった疎かな対応は、実は貴族や上流階級の人間には殆ど該当しないのだ。彼らは軍の作った『正しい規則』を教え込まれて、そして勝利間近の名ばかりの戦場に送られる。安全地帯で数日間質素な暮らしをして、帰る」

「え……? そうすることになんの意味があるんですか? 完全に無駄足じゃないですか」

「貴族家などの帝都内の裕福層は、その家の男児一人に兵役義務が課されているからだ」

 ジリアさんは運転席の脇から肩掛けの鞄を取り出すと、僕にもバギーから降りるように手で促した。駐車した場所はどうやらカテナ市の駐屯地であるらしく、バギーはここに預けて行くらしい。兵士に手続きを取った後、彼女は途中になっていた話の続きを語っていく。それは士官生時代に学んだ貴族位の義務について復習だったが、実態は大きく異なっていた。

「さっきの決まりは、無条件に徴集されることもある下流階級の人間から不平不満が出ないようにする処置でもある。彼らばかりに負担が圧し掛かっていると思わせないためにな。しかし、実際に貴族のお坊ちゃんたちに戦場を生き抜くことなどできはしない。だから、上辺だけ決まりを守ったという口実を作るために戦地に赴く」

「……随分と格差のある対応ですね」

「そういうものだ。実際、幼い頃から英才教育を受けた人間を白兵として失うよりも、文官として上層部に置いた方が勝率は上がる」

 つまり影響力の強い上流階級には厚い待遇と安全確保を条件に口止めをしつつ、下流以下には嘘を塗り固めて納得させているのだ。

「軍の印象がそれほど悪くないのは、そういう処置や待遇の結果なんですね」

「事情に明るい者の中には異論を唱える者も多い。それが一概に良いとは、言えないよ」

 ジリアさんは何か思う顔でそう言ったが、僕達がしようとしていることは軍の意向そのものである。僕は彼女に頭を下げると、もう一度死者の過去を見つめ直した。今回の殉職者であるトマス・レルボスもこの制度の下徴兵に応じ、運悪く亡くなってしまったというわけだ。元々死ぬ気もなかったのなら、こんなことはさぞ不本意だっただろう。

「せめて僕らができるのは……彼の遺志をでき得る限り汲み取ってあげること、なんでしょうね」

 その言葉に、ジリアさんはそうかもしれないな、と返事を濁した。彼女の中では、やはり残された遺族の命が第一優先なのだ。

「まず僕らがするべきは情報収集……トマス・レルボス氏がどういった人物かを把握するところから始めましょう」

 彼は父親が市の自治体の代表である。となれば、その子息の噂や人物像は近しい人間でなくても読み取れる可能性が高い。無闇に戦死通知課であることを明かせば、意図せず彼の死が露見しかねないため、当たるべき人間を絞る。

「……そうなると、やはり大衆食堂なんかは有効なんですね。個人情報を明かす義務も無いし、話好きな人が見つかれば情報を聞ける可能性も高いですし」

 てっきりジリアさんがただ食い意地の張った人だと思っていたのは大きな勘違いだった。おそらく彼女なりの思考と経験則から最も効率的な手段を模索した結果なのだろう。家々をしらみ潰しに訪ねても良いが、あまり一人一人に時間をかけてもいられない。ここは上司を参考にさせてもらおうと口を開いた。

「ジリアさん、じゃあとりあえず――」

「ウィットナーくん」

 近場の店に入りましょう、と提案する前にジリアさんに呼び止められた。何だろうと思い彼女を見ると、同じくらいの高さの瞳が少しだけ輝いている。

「あの曲がり角の先に、以前カルエさんが言っていたと思わしき店がある。店主が噂好きで、情報収集にはうってつけだったと」

 指で方角を示し、心なしか早口で言われたその情報は、何だか用意されていたような胡散臭さを感じた。僕が反応に困っていると、彼女はさらに言う。

「また昼時になれば近くの役所で働く人間も良く訪れるようだ。情報収集には、良いんじゃないか?」

「……」

「もしかしたら主婦の方々が集まりにも使っているかもしれない。井戸端会議が好きな彼女らがいれば情報収集には――」

「ジリアさん」

 僕はこの上司を信じている。『戦死通知課』に配属され、業務や厳しさを教えてくれた。この一か月間、彼女の下で働き僕も様々なことを学んできた。ミステリアスな彼女のことも少しずつ、ほんの少しずつわかってきたつもりだ。だからこそ、彼女が純粋なアドバイスを目的にしていると、そう信じて。

「その店一押しの料理は何ですか?」

「……ステーキが大変美味だ――と、聞いた」

 安心した。僕はアリトワ・ジリアという人間をそこそこ理解できてきたらしい。


 そして僕らは二人揃ってステーキを頼んだ。黒コショウの香ばしい匂いは店内に入った時から広がっていて、さっきまで爆速に揺られていた僕の胃袋にさえ食欲を湧かせる。注文からステーキが出てくるまでの間は少々時間があるということで、僕らは早速近くでステーキを頬張っていた若い男性にトマス・レルボスについて知っていることはないか聞いてみた。すると彼は顔をものすごく不快そうに歪めてこう言ったのだった。

「トマスだって? あんな奴の話はしないでくれ! 飯がまずくなるだろう!」



 男性の凄まじい剣幕を浴びてからも、僕らはめげずに他のお客さんに聞き込みを続けた。しかし他の人たちも大体似たような反応で、トマス・レルボスの調査は最初で行き詰まってしまった。

「どういうことなんでしょうか?」

 僕は正面でステーキを小分けに刻むジリアさんに尋ねてみた。分厚い肉からはナイフが入る度肉汁が鉄板に広がり出し、じゅうじゅう、という聞き心地の良いを立てる。中から覗く赤いミディアムレアの柔らかさを、まだ食べてもいないのに口の中で想像してしまう。

「どういうことなんだろうな」

 食べやすい大きさにカットし終えた彼女は、特に僕の疑問に答えるでもなく、いただきます、と言って食事を始めてしまった。これはもちろんジリアさんが、無言の圧力で僕に考えろと促しているわけではない。ただこの人は純粋に、食事の優先度が高いだけなのだ。

 僕も彼女に倣ってステーキをいくつかに切り分けて食べ始める。熱々の牛肉に歯を突き立てれば、さっきまで溢れていた肉汁が嘘のように口の中でもこぼれ出した。思っていた通り肉質は柔らかく、肉汁と合わさってまるで溶けるみたいに消えていく。おいしい! と僕とジリアさんが口を揃えて言うのに、時間はかからなかった。

「トマス・レルボスは随分と嫌われ者のようだな」

 僕より先にステーキを食べ終えたジリアさんが不意に語り出した。それは先程の男性やその他の人の反応のおさらいだった。

「そうですね。無作為に聞いているのに、ここまで『嫌い』で意見が一致している人も珍しいです」

害悪、生き恥晒し、史上最悪のごみ野郎。中には大声に出して言えないような罵詈雑言の嵐だけが『トマス・レルボス』という人間に下されている評価だった。名前を出すだけで殆どの人が不快になるので、調査は全くと言って良いほど進んでいない。

「人は多かれ少なかれ、誰かに好かれ、誰かに嫌われるものだ。その比率がどちらに傾くかは、その人の行い次第ということだ」

 ジリアさんのその言葉はある意味一つの心理だろう。どんなに好かれやすい人でさえ、どこかで妬まれたり疎まれたりしているのだ。その天秤を動かすのは、いつだって当人が周囲に与える影響でしかない。しかしジリアさんとともに行った任務で、ここまで極端な嫌悪を示される人間はいなかった。

「……と言うことは、トマス・レルボス氏は相当な悪行を重ねていたのかもしれませんね」

「それか、私たちの会う人間が尽く嫌っているか、だな。まぁここまで満場一致ならば、おそらく間違いもないと思うが……ところでウィットナー君」

「何ですか?」

 僕がどうにも今までとは勝手の違うケースに戸惑っているとジリアさんに呼びかけられた。彼女は少し迷う様子を見せながら、やがて決心したかのように大きく頷いてから言った。

「今回はできる限り君に考えてもらおうと思っていたんだが、このままでは埒が明かない。そこで一つ提案だ」

「提案、ですか?」

「あぁ――スラム街に行ってみる気はあるか?」


 妙にガラクタの多い路地裏。時折バリケードのごとく敷き詰められたような廃車や粗大ごみが不気味な道をさらに険しくしている。日陰と落書きの多い道を抜けて見えた先には、殆ど廃墟と化したアパートのような建築物。普段では絶対に立ち寄ることのないアウトローな雰囲気溢れるスラム街に、僕とジリアさんは足を踏み絵入れていた。

「な、何か怖いですね……僕、こんなところに入ったの初めてですよ」

「階級身分によっては一生縁のない場所だろうな。身なりの良い人間は、むしろそれだけで獲物にされる可能性がある」

「え、えぇっ⁉ それじゃあ僕たち危なくないですか⁉」

 ジリアさんいわく、嫌われている者ほど裏社会において名が知れ渡っている可能性が高いらしい。その言葉を信じてこんなところまでやって来てしまったが、彼女の先の言い分だと、小綺麗な恰好をした僕らは随分と危ない橋を渡っていることになる。もちろん危険は先刻承知だが、何も実地に来てから不安を煽る必要はなかったのではないだろうか。しかしジリアさんは顔色一つ変えずに飄々と言う。

「そこまで警戒しなくても良い。私たちは軍人だ。私たちを襲えば、武力によって自分たちの住処が追われてしまうことくらい連中にも想像がつくだろう」

「そ、そんなものですかね……」

「だが警戒することに越したことはない。せいぜい後ろから襲われて、どこかに埋められないように気をつけよう」

 彼女の言葉に最悪の想像をしてしまって、ひぃ、と情けない声を上げる僕。どうしてこの人はこんなにも余裕なのだろう。確かに僕らは厳密に言えば『兵士』だが、役回りは事務員のそれに近い。もしも襲われたりすれば、僕は全くと言って良いほど抵抗できない自信がある。元々戦場に居たというジリアさんの実力がどのようなものかわからないが、現状がとても油断をしていられる環境ではないことは確かだった。

 そんな中でもジリアさんはずかずかと歩を進めて行く。時折すれ違う浮浪者と思しき人々と視線が合う度、心臓がバクバクと鳴っていた。

「おい、アンタら」

「ひぃぃっ」

 突如後ろからドスの効いた声に呼び止められ僕は一段と情けない悲鳴を上げた。飛び上がるように体を翻すと、そこにはお世辞にも綺麗とは言えないボロボロの服を着た中年の男が居た。瞳がどこが澱んでいるように見えるのは、日が当たらない場所だからだろうか。ジリアさんは長い金髪を殆ど揺らすことなく冷静に振り向くと、なんだ、と僕と話す時のような、それよりも少し強い口調で返した。

「アンタら軍人だろ。こんなところに居ると、ろくな目に合わねぇぞ」

「忠告感謝する。しかし心配には及ばない。用件を済ませ次第帰らせてもらうよ」

 ジリアさんがはっきりと言い切ったのを聞いて、男の眉間に深い皺が寄った。そしておもむろに路地の壁にもたれると、そこにあった――否、置いてあったのであろう鉄パイプを片手で引っ掴んだ。

「今すぐ出てけって……そう言ってんだよ!」

 男の気合とともに凶器が振り上げられた。僕は急な事態に一歩も動けず、声も上げられないまま頭の上に両手を交差させることしかできなかった。

「ふっ」

 そんな聞きなれない気合が放たれたのは気のせいだったのだろうか。いつの間にか僕の前に出ていたジリアさんが男に肉薄し、鉄パイプを持つ腕が下がる前に両手でがっしりと掴んでいた。

「なっ」

 男はよもや受け止められるとは思っていなかったようで、両目を大きく開いた。すぐにもう一方の手で目の前のジリアさんに拳を振るおうとしたが、彼女はその拳が届くより早く、男の鉄パイプを持つ手はそのままに、長い足を回して男の踵を後ろ足で蹴り上げた。

「はぁっ!」

 今度こそ、彼女の本気の声が聞こえた。片足の地面を失った男がバランスを崩すのを見るや、ジリアさんは拘束していた腕を思い切り放り、男を背中から叩き落とした。どっ、という鈍い音がスラム街に響いた。

「かっ……は……」

 男の背中全体に自身の体重と遠心力を上乗せした衝撃が襲う。呼吸器官はもろにその影響を受け、体を丸めてむせる彼に向かってジリアさんは冷ややかに言った。

「苦しいだろうが大丈夫だ。死にはしない。それよりも、聞きたいことがある」

 彼女は近くに落ちた鉄パイプを持ち上げると、その先端を呻く男の顔に突き付けた。

「トマス・レルボスを知っているか? もし知っているのなら、知っていることを全て話せ。話さないようなら……お前は私が軍で面倒を見てやろう」

 この時の彼女はどんな上官よりも頼もしく、そしてどんな人よりも恐ろしく思えた。



「失礼する。帝国軍の者だ」

 ジリアさんのはっきりとした宣言が、その部屋に居た全員を立ち上がらせた。無論、職務的な命令や礼儀の類ではない。全員が決して上等ではない服装をした無法者。社会を嫌う者が集う一軒の廃屋に、堂々と入って行く彼女の後ろを及び腰で歩く。こちらを睨みつけるのべ二十の瞳が、沈黙を貫いたまま警戒していた。

「ドルーク・オルフェルという男を探している」

 その言葉を聞いた瞬間、その場に居た全員が部屋の隅や懐から各々の得物を取り出した。中には包丁やサバイバルナイフなどもあり、その名前が間違いなく彼らの琴線に触れたのだとわかった。多勢に無勢。いくらジリアさんが強かろうと、これだけの人数をまとめて相手にして無事で済むことはあるまい。僕はやはりくるべきではなかったと判断し、すぐにジリアさんに撤退を告げようとした――その時だ。

「待てお前ら」

 風穴だらけのおんぼろ家屋でもよく響く低い声だった。その一言にまるで神の意向でも混ざっているかのように、一斉に武器を取り出した連中が臨戦態勢を解く。声の主は奥の一際豪華なソファに座る若い男だった。紫の短髪を粗くセットしているその男は、このスラム街では珍しい高級感ある皮のジャケットを着ている。同素材のパンツに包んだ足を組んで、ソファにふんぞり返ったまま続けた。

「軍の連中を何の考えも無しに殺るんじゃねぇ。足がついたらしょっ引かれるぞ」

 冷静な男の判断に全員が納得した様子で無造作に座り直す。僕は少しだけ胸を撫で下ろした。

「――で、軍の人間が俺に何の用だ」

「君がドルーク・オルフェルか。私はアリトワ・ジリア。君に話があって来た」

「みてぇだな……んで、そっちは」

 ドルークという男が僕をじろりと見やる。僕はその迫力ある視線にどうにか物怖じすることなく、自らの名前を言い切る。

「け、ケイン・ウィットナー」

 彼はしばらく僕たちを物色するように見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「スラムの連中には、帝国様の人間はもれなく『追い返せ』と伝えたはずなんだがな」

「あぁ。確かに『追い返されそう』になった。だから私たちもそれなりの『対応』をして、そいつに君の情報を得た」

「へぇ……どんな奴だった?」

「言えないな。言えば君はあの者をこのスラムから『追い出す』だろう? それは、あの者との約束が違うのでな」

「……ははっ。こりゃあ良いな。軍はお堅い奴らの集まりだと思っていたが、案外あんたみたいのもいるみたいだな」

 二人の会話は互いに探りを入れ合っているようだった。おそらく二人とも言葉数が多いタイプの人間ではないからこそ、一言一句に込める意味を察している。どんな言葉で地雷を踏むかもわからない今の状況では、僕なんかより余程目の前のジリアさんの方が頼りになるのだった。

「別に俺らを逮捕しようってわけじゃねぇみてぇだな。何の用だ?」

「トマス・レルボスという人間についての情報を探していて、君ならよく知っているかもしれないと言われた」

 その名前が出た瞬間、またこの廃屋の空気が変わるのがわかった。それは果たして動揺か、期待か、切望か。各々があらゆる感情を抱いているようで、この空間がぐちゃぐちゃに満たされていく。そしてそれはまた、ドルーク・オルフェルも例外ではなかった。

「その反応は何か知っているな? ならば彼について聞かせてくれ」

 ジリアさんがその間隙を見逃すはずもなく問い詰める。ドルークはより怪訝な顔になって目の前の女軍人へと駆け引きを続けようとする。

「それを話したとして、俺たちに何のメリットがある?」

「無いだろうな。しかし、私たちの心象は良くなるかもしれんぞ」

殆ど脅迫とも取れる彼女の台詞は、明らかに周囲の人間を動揺させた。おそらく彼らの中では、いかに証拠を残さず僕らを始末するか考えているはずだ。僕はいよいよ涙目になりながら、リーダー格であるドルークの次の言葉を待つ他なかった。すると彼はソファから立ち上がり、後ろにあるドアノブに手をかけた。

「奥で話をさせろ。ついてこい……俺も、あんたらには聞きたいことがある」

 意味深なことを言い残し、ドルークは奥の部屋に消えてしまった。ジリアさんは僕の方を一瞥すると、大丈夫だ、という一言をかけて先へと進んだ。幸い無法者たちに横から襲われることはなく、僕らは誘導された部屋へと入って行く。その部屋は風穴一つなく、家具に年季が入り過ぎていること以外には、広く清潔で快適な場所だった。彼は一人ベッドに腰かけると、僕らを立たせたまま話を始めた。

「……それで、あんたらはトマスに何の用だ?」

「用事があるわけではない。ただ私たちは、彼自身について知りたいだけだ」

 淡々と答えるジリアさんに、ドルークは大いに呆れたような顔を作る。

「なんだぁ、そりゃ。そんなことのためにわざわざこんな場所まで入って来たのか?」

「誰に彼のことを尋ねても、皆嫌々と首を振るだけでな。どうしようもなくなって、慣れない土地に踏み入る他なかったんだ」

「あんたはこういう場所には随分慣れてるように見えるがな……まぁ良い。あいつに危害を加えるつもりがねぇんなら、俺もあんたらを殺す理由は無い」

 ――殺す気だったのか!

 僕は心の中で至って冷静な彼に向かって叫んだ。最悪の想像をする場所がまさか戦場でもなく、帝都近郊のスラムだとは夢にも思っていなかった。案外とこの国は内部事情に難があるらしい。しかしそのような事実にも一切動じないジリアさんはヘーゼルの目を彼から離すことなく問い返す。

「君も私たちに聞きたいことがあると言っていたな? 先にその話から進めてもらって構わない」

「……良いのか? 俺の用件が済んだら、俺はあんたらを殺すかもしれないぞ」

「あいにく、そう簡単に壊れるほど柔ではなくてな。それに、こういった取り引きは『信頼』が大切だろう?」

「はぐれ者の俺相手に信頼、ねぇ……あんた、やっぱおもしれぇよ」

 波長が合ったのか、ジリアさんの毅然な態度を気に入ったのかはわからないが、なぜか彼女はドルークに認められたらしい。彼は、ならお言葉に甘えるぜ、と言って僕らを真っ直ぐに見据え、言った。

「トマスは今どこにいる?」

 え、と声を漏らしかけた。この質問にはさしものジリアさんも眉をひそめる。トマス・レルボスがこの世に居ないことはまだ軍の人間の一部しか把握していないはずだ――そう考えた直後、彼の質問の意図が僕らの認識よりもっと以前のことを指すものだと推測できた。きっとジリアさんも僕と同じ推論に行き着いていただろうが、彼女は情報を聞き出すべくあえて、どういうことだ? と話を促した。

「トマスは二年前、このスラム街からぱったり姿を消しちまいやがった。それ以来、俺たちがどれだけ探しても見つからねぇ」

 二年前――トマス・レルボスが亡くなったのは一年以上前のヌーリット海戦だ。つまり、彼が兵士として軍役に就く前から、彼らはトマスの存在を見失ったということである。

「あいつは札付きの悪だったからな。この一帯じゃあいつの名前を知らない方が珍しい。盗み、薬、殺し……ぱっと思いつく悪行は、軒並みやってた。いつ軍に捕まってもおかしかなかったが……あいつは今、軍に居るのか?」

「……いや、聞いている限りトマス・レルボスに逮捕歴は存在しない」

「……そうか。またアテが外れちまったな」

 ドルークは言いながら天井を見上げた。僕は初めて彼の人間らしさを垣間見た気がする。心底悲しそうな表情は、誰の目にも明らかだった。

「友人、だったのか?」

「友人なんかじゃねぇ……親友だ。俺とトマスは、間違いなく親友だった」

 ドルークは自信満々に言い切っているのに、その顔は暗く沈んだままだ。彼の存在がどれほどドルークに影響を与えていたかは言うべくもない。僕らは初めてトマス・レルボスを否定しない人間と出会った。

「先程トマスに何の用かと聞いてきたのは、ブラフだったんだな」

「当たり前だ……俺はダチを絶対に売らねぇ。お前らがあいつを今からでもしょっ引くつもりだったなら、間違いなくスラムのごみ山にバラバラにして埋めてただろうな」

 二人分のバラバラ死体が出来上がる未来もあったらしい。返答一つでも命取りの状況がさっきから胃に悪い。今日の帰りだけは、懇願してでもジリアさんに安全運転を心がけてもらおうと思った。

「あんたらがトマスの居場所を知らねぇなら、俺から聞くことはもうねぇよ。好きに質問しな」

 潔いというか男らしいというか、ドルークという男は義理や筋を重んずるタイプの人間らしかった。見た目にもリーダーとわかる彼は、このスラムを統制するのにそのカリスマを使っているのだろう。

「感謝する。では、今から彼のする質問に答えてやってくれ」

「ふえっ?」

 あまりの急な事態に僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。僕があの気難しそうな男に聞けと言うのですか? そんな心の言葉が通じるように信じられないような顔をしてみたが、ジリアさんは何ら気にすることなく淡々と言った。

「今回は君の任務だと言っただろう。いつまでも私に頼り切ってどうする」

 ――何か間違ったら二人ともバラバラですよ⁉

 さすがに声には出せなかったが、まさかこんな場所で二人分の命運を託すとは何と肝の据わった人なのだろう。彼女は鬼畜なんだ、と耳打ちしてきたトリル課長のことを思い出した。僕は意を決すると、せめてもと男の顔から視線を逸らすことだけはしないようにと腹を括った。

「良いだろう。それで何だ、聞きたいことってのは」

「こ、今回僕らが聞きたいのは、トマス・レルボスがこの街でどういった暮らしをしていたかだ。彼と関係が深かった人、親交があった人が居れば教えて欲しい」

「……そんなこと聞いてどうするつもりだ。あんたらがあいつを捕まえねぇってのは信じてやったが、他の奴には手を出すってんなら話は別だぞ」

「ち、父親がこの街の市長だと聞いた。公務の話だから全ては話せないが、彼の家全員に関係がある。それで、彼を探しに来た」

 ――嘘は言っていない。

 トマス・レルボスの親友ならば、彼にだって全てを知る権利はあるだろう。しかし僕は無法者を束ねるドルーク・オルフェルという男自体にはまだ信頼を置けはしない。もしここで現実を知った彼が激昂すれば、僕らだってどうなるかわからないのだ。ジリアさんが彼のことを知らない体で話したならば、僕もそれに合わせて会話を作るのが道理だろう。果たして、数秒考えたドルークは一応納得し、なるほど、と短く呟いた。

「知りたいのは彼がここでどんなことをしていたのか、どんな人間だったかということ。略歴や人となりだ」

「なぜそんなことを聞く? 軍ってのは一個人の情報まで詳細に扱うのか?」

「し、信用問題なんだ。今回の一件、レルボス家の評判は特に悪い。その原因である息子について裏付けを取りたい」

 少し苦しい言い訳の自覚はあった。しかしベッドに座る男はまた少しの間を作ると、もう一度なるほどと頷いた。

「……とりあえず納得してやる。トマスについて俺が知ってることを言えば良いんだな?」

「あ、あぁ。頼む」

 そしてドルークはゆっくりと語り出した。



 あいつと俺が会ったのはもう五年以上前だ。その頃の俺はこのスラム街を掌握しようと躍起になってた。他の有力な奴らを力でねじ伏せて、この実力社会をのし上がろうとした。どうせ親も兄弟ももう居なかったからな。ここで強さを証明し続けることだけが俺が唯一『人間らしく』生きることができる道だった。でも、そんなアブねぇ奴についてこようとする馬鹿はいねぇ。だから俺は一匹狼としてこの街を彷徨っていた。そしていよいよ天辺までもうちょっとってとこで現れたのが――トマスの野郎だ。

 あいつは俺と違って、誰かを下につけることで頂点に立とうとしていた……正直、ぬるいと思ったよ。それと同時に、あり得ないくらいにムカついた。自分の生まれ育ちを恨みやしねぇが、同じ土俵に居るのに、なんであいつは何一つ取り溢してねぇんだってな。さらにムカついたのは、あいつ自身は全くと言って良いほど天辺の立場に興味がなかったことだ。

 俺はそんな中途半端な野郎は敵じゃねぇと思った。そしてサシの勝負を挑み――負けた。どっちも同じだけ殴り合ったはずなのに、拳一本で生きてきた俺が負けたんだ。鍛え方が足りなかったのかと思った。経験がこれでも足りねぇのかとも思った。だが答えは違った。あいつは――トマスは、周りで誰かが期待していてくれたから、倒れるわけにはいかなかった。そう、言ったんだ。

 俺は俺に足りねぇものを見つけるために、あいつに協力すると言った。あいつはそれを二つ返事で了承しやがった。そしてあいつと話していく度にわかったよ。何であいつにスラムの連中が惚れ込むのか。どうしてあいつの周りに人が集まるのか。

――ただ周りの奴が求めるから、必要だからやる。あいつの行動原理が常にそこだったからだ。スラムを手中に収めたのだって、ただ誰かに頼まれただけ。あいつは絶対に自分の勝手では動かない。誰かのためになるから動くんだ。あいつの近くに居た人間は、殆どの奴があいつに何らか救われた人間だった。

 いつだか、俺はあいつと飲んだ時に聞いた。聞いた話じゃトマスはそもそも良いところのお坊ちゃんだったそうじゃないか。だから、なぜそんなお前がスラムなんて腐った土地に居るんだってな。そうしたら、あいつはこう言った。

『これは俺なりの罪滅ぼしなんだ。迷惑かけた家族のために、俺が見つけた唯一できる贖罪なんだ』ってな。驚いたよ。スラムからちょっと出りゃ、あいつの評判は最悪。名家の長男に生まれながら極悪非道の限りを尽くして、家の評判をガタ落ちさせている本人が、家族のためだなんて殊勝なことを言うんだからな。これはあくまで俺の推測だが、多分、当時収集がつかなくなりそうだったスラム街を自分が取り締まることで、カテナ市に迷惑がかからないようにしていたんだと思うぜ。そんな理由の方が、あいつらしいからな。

 そしてこのスラムを統一してから数年後、あいつは突然俺に言った。この場所と、家族のことを頼む、と。理由を聞いても何にも答えやしねぇ。諦めの悪い俺に向かってあいつは、明日改めて話すと言った。そして翌日、俺はトマスを問い詰めようとして――もう、あいつが現れることはなかった。



 ドルークは話し終えると、深い息を吐いて天井を見上げていた。彼の中でトマス・レルボスという男が与えた影響がいかに非常に大きいか。それを実感するように。

僕はトマス・レルボスという人間への見方がわからなくなっていくのを感じた。市民に聞けば誹謗だけの評価。しかしスラムの人間からすれば誰よりも信頼の置けるリーダーだった。人は多かれ少なかれ、誰かに好かれ、誰かに嫌われる――そんなジリアさんの言葉が身に染みるようだった。

「大体こんなもんだ。満足したか?」

「あ、あぁ。協力、感謝する」

 何にせよ、トマス・レルボスがどういった人間だったかはおおよそ検討がついた。これで住民に詳しい話が聞けなくても、彼の家族に宛てる遺書は書くことができるだろう。僕はさっきから黙っているジリアさんをちらりと見やったが、彼女は何を言うでもなく、ただ彼女なりに何かを考えているだけだった。

「言っておくが、この話は誰にも言うんじゃねぇぞ。俺はあくまでお前ら軍が動かねぇ条件として正直に話してやったんだ。これでスラムの連中に何かあるようなことがありゃ……」

「わ、わかってる! これは機密事項だ。誰にも他言しない!」

 その先に飛び出そうな物騒な言葉を封じるために僕はぶんぶんと首を振った。その様子を見たドルークが、呆れたような口調で僕に向かって言う。

「……俺が言うのも変な話だが、あんた、もうちょっと堂々としてた方が良いぜ」

「ぜ、善処する……」

 まさか無法者から塩を送られることになろうとは。まだまだ不甲斐ない自分に反省しつつ、僕らは出て行くことを告げる。そしてその直前、ずっと黙っていたジリアさんがドルークに向かってこんな意味深な一言を残していた。

「トマス・レルボスの家族のことをよく見ていろ」

「あん? んだそりゃあ……言われなくても、あいつとの約束を無下にするわけねぇだろ」

「そうか……なら良い」

「……?」

 僕とドルークは揃って首を傾げていた。ジリアさんの言葉の意味を、僕はいつまでも知ることはなかった。



 その後、珍しく僕の要望を聞き入れてくれたジリアさんはゆっくりとした、実に快適な走行を心がけて夕刻の帰路についてくれた。おかげでトマス・レルボスの家族に書く遺書の内容を頭の中で整理し、細かな想像をすることができる。彼はあくまで誰かのために動く人物。彼自身は善良な市民に嫌われていようとも、家族だってその優しさを垣間見たことくらいはあるだろう。だからこそ、書くことは公の仕事をする父への謝罪や、感謝の言葉。そして迷惑をかけたであろう母と妹のことにも触れつつ、彼らを見守っていることを告げる。大丈夫、取り溢していることは何も無いはずだ。

 その後、帝都にある戦死通知課に帰還すると、僕は必死にトマス・レルボスの『想い』を考えた。都合の良いことばかりしか書けない。それでも、少しだけでも殉職した彼が報われるように。例え傲慢だとしても、僕ができるのは想像し、彼の大切な人たちを守ることだけだから。震える手で何度も書き直し、初めての遺書の『偽造』が完成したのはもうすぐ深夜になろうかという時間だった。

「できた!」

 僕はどうにか書き上げた遺書を見て両手を挙げる、そして詳しい時間を知ろうと周囲を見ると、そこには隣のデスクでこちらを見つめるジリアさんが居た。綺麗なヘーゼルの瞳と視線がぶつかり、僕は驚く。

「じ、ジリアさん⁉ まだ帰ってなかったんですか?」

「私が居ることにも気づかないほど集中していたのだな。差し入れにも気づかないわけだ」

「差し入れ?」

 僕は自分のデスクを確認すると、その端に紅茶の入ったカップがあることに気づいた。すっかり冷え切ってあるそれは、いつかに僕の上司が置いておいてくれたものなのだろう。

「す、すみません! 全然気づかなくって……」

「いや、良いんだ。何なら新しいものを注いでこようか?」

「いえ、大丈夫です! いただきます!」

 言うなり、冷えた紅茶を一気に飲み干す。飲み慣れない芳醇な味わいに少しむせそうになったが、どうにか堪え、行儀悪くぷはっと声を上げる。

「トリル課長から君の遺書を確認して欲しいと頼まれている。一度目を通しても良いかな?」

「は、はい! お願いします!」

 僕はジリアさんに二枚の紙を手渡す。言い振りからするに、彼女は僕の仕事が終わるまで待たせてしまっていたのだろう。申し訳ないと感じながらも、生真面目な彼女の性格に感謝する。彼女はゆっくりゆっくり、一字一字を見落とすことなく僕の書いた遺書を読み込んでいく。そして十分は経った頃、ジリアさんは微動だにしなかった金髪を上げた。

「……良くできている。これならば『任務』は果たすことができるだろう」

「ありがとうございます!」

 日頃厳しい人から褒められるのは嬉しいものだ。無論彼女が優しい人だとは思っているが、彼女は一プロとしてこの仕事にとても真摯に向き合っている。その人からのお墨付きならば、僕は自信を持ってこれをトマス・レルボスの家族に渡すことができる。

「じゃあ、これから封を作りますね」

「私も手伝おう。いつだかみたいに、見落としがあっては困るからな」

 ジリアさんはやや自嘲気味にそんなことを言った。僕はその点も考慮しながら、二人で外に出てわざと汚れを付けていく。暗がりで見落としが無いようにと気にかけ、粗い傷や砂ぼこりを作っていく。そしてジリアさんの確認を終えると、僕の任務はいよいよ明日これを渡すだけとなった。

「ウィットナー君」

 不意に呼びかけられ、僕は声の方を向く。明かりの薄いこの場所では彼女の表情は上手く読めないが、その透き通るような声はしっかりと僕の耳に届いた。

「しっかりと見定めてくれ。私たちがしていることの意味。彼らを騙すことの重圧。何より、死者を愚弄するやり方が、君の中で本当に正しいのかを」

 その言葉は一月前にトリル課長に言われたこととよく似ていた。『戦死通知課』に正解はおそらく無いのだと思う。正しさや正義を掲げられない彼らだからこそ、その答えを探し続けている。そして僕もその一員だということを、絶対に忘れてはならない。

「はい」

 だから僕は、しっかりと言い切った。答えは見つからなくても、その過程だけは本気で歩まなくてはならない。その義務を胸に刻みながら、夜は更けていくのだった。



 翌日、昼。僕らは再びカテナ市へと訪れ、とうとうレルボス家の門を叩いた。レルボス家は富裕層であり、かなり豪華な邸宅だ。呼び出し用のベルを鳴らすと、従者らしき人が鉄製の門を開けてくれる。そして手入れされた庭を抜けると、玄関の扉の前には息を切らしている五十代くらいの男女が居た。

「こ、これはこれは帝国軍の方々。この度は、我がカテナ市にようこそいらっしゃいました」

 肩を上下させながら話すのは白髪の混ざった男性――おそらく彼が父親であるトム・レルボスだろう。となると、彼と同じ指輪を左手の薬指にしている隣の女性は、トマス・レルボスの母親だ。彼女もまた急いで表に出てきたようで、ぜぇぜぇと激しい呼吸を繰り返している。しかしそれ以上に気になったのは、彼らが明らかに疲労の類で顔色を悪くしているのではなく、僕以上に緊張した様子で蒼白になっていることだ。僕は違和感を覚えながらも、彼らに向かって用件を伝えようとした。

「え、っと。今日はレルボスさんにご用件があって参りました。その……息子さん、トマスさんのことで」

「息子が何かしたんですか⁉」

 突如父親が叫ぶように聞いてきた。顔の血色がさっきよりも悪い。僕は彼の剣幕に圧倒されながら身を一歩引く。

「あ、あの……」

「大変申し訳ございません! 息子の不出来さは私たちの不徳の致すところであります! スラムの悪い空気にあてられて、とうとう軍の方々にまで迷惑をかけてしまうことになるとは……!」

 動揺する僕を差し置いて、夫婦は揃って頭を深く下げてきた。訳がわからない状況に二の句が継げなくなっていると、隣に居たジリアさんが少し前に出てくれた。

「顔をお上げください。息子さんは何も悪いことはしていません。我々はもっと大切な……大切なことを伝えに来ただけなのです」

 彼女のその言葉を聞き、夫婦は過剰に折っていた体を遠慮がちに起こした。

「ほ、本当ですか……? あの愚息……トマスは、しょっちゅう市民の皆さんに迷惑をかけてばかりでした。今回こそ、軍の方に何か許されない失礼を働いたのではないかと妻と相談していたのです」

 父親の言葉によってようやく僕も平静を取り戻す。つまり彼らは問題児であるトマス・レルボスが徴兵されてからも何かやらかしたのではないかと危惧していたわけだ。

 ――少し妙だ。街の聞き込みの結果だけで今の言葉を聞いていたら、きっと僕は何も思わなかっただろう。しかしトマス・レルボスの親友を名乗るドルークの話では、彼は家族のことをとても思いやっていた人間だ。彼が嘘をついた? いや、彼がトマスを守ろうとする信念は本物だった。ならばこの思考にある異物感は、一体何なのか。その答えには至らないまま、しかし僕は立ち止まっているわけにはいかなかった。ジリアさんにアイコンタクトを送ると、彼女から『切り出せ』と言われたような気がした。

「レルボスさん……落ち着いて聞いてください」

「……はい、何でしょうか?」

 僕は小さく、だけど少しでも多く酸素を取り入れて、伝えるべき事実を彼らに告げる。

「息子さん――トマス・レルボス氏は一年前の戦争にて亡くなりました」


 この瞬間は、いつも時間が止まる。遠すぎる現実は、誰もがその瞬間に理解できないことを僕は子どもの頃から知っている。かつて母や、他に大切な人の戦死通知をされた者のように。風景は動き続けるのに、風の音は聞こえない。それが僕の鼓動がいつもよりやかましく聞こえたからなのか、本当に世界が凍りついたのかはわからない。全てがこの一瞬に飲み込まれてしまう前に、僕は目の前の彼らの時間を動かさねば――

「――やはり、そうでしたか」

 不意に聞こえたその言葉に、僕は唖然とした。父親はさも当然のように、少しだけ目を細めてこう続けた。

「息子がしばらく帰ってこないから、もしや、とは思っていました……そうですか。息子は、立派に殉職したのですね」

 至って冷静な反応に、僕は少し拍子抜けする。今まで出会ってきた遺族の中に、彼のように家族の殉職を悟っていた者ももちろん居た。しかし、それでも彼らはその人との大切な時間を思い出し、少なからず悔しさや無念の感情を見せていた。だけど目の前の彼は、否、彼らは、感情の変化を殆ど見せることなく淡々と現実を受け入れている。どうして――そんなことは、口が裂けても聞けなかった。

「我々は戦死通知課として、戦場に残されていた遺書をお届けに参りました。ウィットナー君」

「あ、はい!」

 僕が呆然としていると、ジリアさんが次にするべきことを促した。急いで制服に備え付けられているポーチから薄汚れた手紙を取り出すと、両手で持って父親に差し出す。

「戦地に居た文官が代筆したものと思われます。彼自身の字ではありませんが、どうぞお受け取りください」

 怪しまれないよう、ジリアさんのアドバイス通りの言い訳を立てて渡す。もしもこのことについてさらに追及されたなら、『重要戦地につき軍の機密事項が漏れないように全員が直筆の文書を残せないようになっている』と言えと指示を受けていた。彼女いわく実際にあり得る状況らしく、話に少しでも現実味を持たせることが重要だと言っていた。僕らは疑いをかけられても嘯かなければならない。心はどうにも落ち着かないが、なぜか堂々としていた方が良いという昨日の男の言葉を思い出していた。

「遺書……ですか。愚息がそんな気の利いたことを……わかりました。後で娘とともに拝見させていただきます」

 父親は言いながら、何かを疑うこともなく丁重にそれを受け取った。あまりにあっさりとした様子に、『おかしい』というフレーズが頭の中で彷徨い続ける。本当は彼らは心の底から悲しんでいて、でも市長という立場がそれを許さないのではないか。本気でそう考えた。しかし父親も母親も全くそんな素振りを微塵も見せず、ふぅ、と一つ溜息を吐きながら言った。

「これでようやく……肩の荷が下りましたね。あなた」

「あぁ……本当に、助かるよ」

「助かる……?」

 僕は思いがけない一言に対して思わず聞き返していた。何を言っているのだ。いかに評判の悪い息子だからといって、そんな台詞はあまりにも薄情ではないのか。聞き間違えの可能性を考え――それは他でもないトム・レルボスによって否定された。

「はい。軍の方にこんなことを言うのもお恥ずかしい限りなのですが……息子は昔から悪さばかりしていました。スラム街の連中としょっちゅう悪事を働いては、市長である私の、ひいては由緒ある我がレルボス家の面汚しだったのです。そんな彼が最後に国のために忠義を尽くせたというならば。我々も誇らしい」

 僕は目を見張った。あろうことかこの父親――だけではない。母親共々にこやかに微笑んでいるのだ。まるで、死んでくれてありがとう、そう言わんばかりに。

「そう、ですか。我々の任務は以上です。息子さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます」

 僕は定型のような文章を空気中に放った。目の前の彼らに対して、どうしようもないくらい嫌悪感が溢れ出す。一秒でも長くここに居たくなかった。彼らのことを少しでも心配した自分が馬鹿馬鹿しい――そう、思ってしまった。


 カテナ市の駐屯所に向かうまでの間、僕は無言だった。隣を歩くジリアさんも同様で、でも変に話しかけられるよりは全然良かった。彼らの晴れやかな笑顔が頭の中から離れない。なぜ、彼らはあんなにも、心から笑えていたのだろうか。僕はどこかで、何かを取り溢していたのだろうか。そんな迷いを抱きながらジリアさんに言われるがままバギーに乗り込み、エンジンがかけられた瞬間。

「待ってください!」

 遠くから、女性の声が聞こえた。僕とジリアさんが座席から後方を確認すると、走ってこちらにやってくる二十歳くらいに見える女性の姿が見えた。見覚えのない人だったので一瞬人違いかと思ったが、彼女はバギーの隣で足を止める。長袖の服装にも関わらずはぁはぁと息を切らし、汗をかいている様子を見るに、相当急いで来たに違いない。

「あなたは?」

 ジリアさんは付けかけていたゴーグルを下ろして女性に尋ねた。辛そうに肩で息をする女性は、深呼吸をする間もなく僕らに身元を明かす。

「わ、私はレリス・レルボスと申します。トマス・レルボスの妹……と言えば伝わるでしょうか?」

 あ、と僕は口を開けた。トマス・レルボスには七つ下の妹が居るという話だった。ジリアさんとともにバギーを降り、レリスと名乗った女性の目の前に立つ。

「こんにちは、レリスさん。私は戦死通知課のアリトワ・ジリア。こちらはケイン・ウィットナー。この度はお兄様のご冥福、心よりお祈り申し上げます」

 秘書然とした礼儀正しい所作でジリアさんは僕らの紹介をしてくれる。彼女がお辞儀をするのと同時に僕も深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます……あの、こんなこと聞くのはおかしいと思うのですが……」

 両親とは違い、とても悲し気な表情を浮かべる女性は、少し迷う様子を見せた後、意を決したように僕らに尋ねてきた。

「兄の遺書は――本当に『あれだけ』なんでしょうか?」


 レリスさんの発言によって、一番に襲ってきたのは焦燥感だった。その言葉が意味することはつまり、あの遺書では何かが『不十分だった』ということだ。早くなる心音を匿いながら、僕は渇いた口を開く。

「そ、それはどういった意味でしょうか?」

「さっき頂いた遺書……兄からの手紙には、両親に対しての感謝や謝罪といった言葉が綴られていました。もちろん、それ自体はおかしなことではないのです。両親から兄のことをどう聞いたかはわかりませんが……兄は、とても優しい人だったので」

 彼女が抱く兄へのイメージは、随分と両親とはかけ離れたものだった。

「両親は『死ぬ間際に少しは改心したか』と言っていましたが、私はそうは思いませんでした。だってあそこに綴られていた言葉は、文官の方に書いてもらったというのに……まるで本当に兄が書いたのではないかと思うほど、兄らしい文章だったから」

「……レリスさん。もしよろしければ、トマス・レルボス氏と貴女方家族の関係性を詳しく教えていただけませんか?」

 的を得ないレリスさんの独白に、ジリアさんがその真意を問う。

「すみません。こんなこと、急に話しても訳がわからないですよね……でも、はい。少し、聞いていただけると嬉しいです」

 彼女はまだ微かに荒い呼吸を整える。風が吹き、僕とジリアさんは再び口を閉じた。そして彼女は僕らがじっと見つめる中で、おもむろに右腕の袖を摘まんだ。その捲った先には、かなりの大きさの、明らかに本来の肌の色と異なる赤い痣のようなものがある。おそらく火傷の跡だろう。

「これは私が七つの時に、兄によって付けられた火傷跡です」

「トマスさんに……?」

 僕の質問に、レリスさんはしっかりと頷いた。幼い頃の傷なだけあって生活に支障が出るようなものではないだろう。しかし、その痛ましさは蝶よ花よと愛でられ育つはずの上流階級の女性には、あまりにも似合わなかった。

「痛み自体は数週間の内に治まりました。しかしこの跡だけはどうしても消えず……私は周囲の子どもたちに呪われた子と噂され、悪質な嫌がらせを受けるようになりました。物を隠されるくらいならまだ良くて、好奇心から全身の衣服を脱がされそうになったことも、ありました」

 彼女の身に降りかかった不幸の日々。それは高潔な貴族女性、いや、一人の人間として、耐えがたい屈辱だっただろう。周囲の人間に恵まれてきた僕には想像もつかない苦しみ。レリスさんは一瞬だけ強く唇を結ぶと、話を再開した。

「私は兄を恨みました。事故だったとはいえ、あの日彼がふざけて暖炉の薪を使って遊んでさえいなければ……私はこんな辛い思いをすることはなかったのに、と。兄はそんな私に負い目を感じ、どうにかして嫌がらせを収めようとしました。しかし噂はあまりに多くの人に伝わっていて、私に直接嫌がらせをしてくる人を叱るだけでは事態は変わりませんでした。そこで兄が取った行動が――自分を誰よりも悪者に見せることだったのです」

「悪く……見せる?」

「私の兄が恐ろしいことがわかれば、報復を恐れる子どもたちは安易に嫌がらせをしてくることはない……兄はそう考えて、私よりも悪名を広めるために様々な悪事を働き始めたのです」

 それが、トマス・レルボスがスラム街を手中に収めるまでに至ったルーツだと言うのか。ならば彼はやはり、ドルーク・オルフェルの証言通り――

「名家であることも相まって、兄の噂はすぐに広まりました。それこそ、私が呪われた子、なんて言われていたことなんて、みんな無かったことのように。そして同時に兄は、もう……後戻りのできないところまで行ってしまいました。両親は彼の本当の目的を聞こうともせず、レルボス家の汚点として腫物のように扱うようになっていったのです」

「……そこで貴女は疑問に思ったのですね? 彼は両親に感謝の言葉を述べるよりも――貴女自身に何かを伝えることの方が相応しいと」

「そこまで自惚れてはいません……ただ、本当に、本当に兄が、最後に伝えたかった言葉は、あれだけだったのでしょうか? 優しかった兄は――私に対する言葉を、他に何も持っていなかったのでしょうか?」

 レリスさんの言葉に、僕は何を言い返すこともできなかった。この場においてどんな発言をすることが正しいのか。僕が彼女に残すべき言葉は、一体何が正解なのか。――いや、本当はわかっている。『戦死通知課』としてではない、ただのケイン・ウィットナーが言うべき言葉が、わからない。

 僕の迷いを見て取ったのか、隣に居たジリアさんが助け舟のように『戦死通知課』としての正解を告げる。彼女はさっきから一つの動揺も見せることもなく、部下の失策をフォローしてくれる。

「戦場で見つかった遺書はそれだけです。他にも発見されていない手紙はあるかもしれませんが、私たちがお届けできるものは、それだけです」

「そう、ですか――そう、ですよね」

 妹は視線を斜め下に向け、また悲し気な表情を作った。彼女の中での理解に、僕は寄り添うことができなかった。風の音だけがよく聞こえた。


 レリス・レルボスの小さな背中を見送ってから、僕らはバギーに乗り込んだ。ジリアさんが視界をゴーグルで覆った頃、僕は久しぶりに口を開いた。

「ジリアさんは……気づいていたんですか?」

 渇きと沈む気分が重なって、発された声は虫のようにか細かった。

「……なぜ、そんなことを聞く?」

 読み取れなくなった横顔を見て、僕は続ける。

「レリスさんの話にあまり驚いていなかった……そんな漠然とした理由もありますけど、何より、ジリアさんですから。ジリアさんなら、そこまでの考えに至っていたとしても、不思議ではないと、そう思ったんです」

 ジリアさんの洞察力は鋭い。僕では考えの及びつかない現実に、彼女の想像は追いついてきた。確かめることはできなくても、彼女の請け負った任務では、傷つく人間が一人も居ないことがその証拠だ。

「気づいていなかった、と言えば嘘になる。トマス・レルボスがもしも家族にすら嫌われていたとしたら、なぜ彼はドルーク・オルフェルに家族のことを頼むなんて言ったのだろうか、と。そこで一つの可能性に至った。彼は家族の中でも、好きな人間と嫌いな人間がいるのではないか――ただの、可能性だった」

「じゃあ……なんで昨日言ってくれなかったんですか! その可能性があったなら、妹さんが納得できる遺書が書けたかもしれなかったのに」

 僕は自制も効かないまま声を荒らげていた。頭ではどうしようもないほどわかっている。ジリアさんが悪いことなど一つも無く、落ち度があったのは僕の方だ。だが、ただの八つ当たりだと理解しているのに、どうしても問い詰められずにはいられなかった。

「……例えその結果であっても、あの手紙であれば問題ないと判断した。事実、任務自体は上手くいっただろう」

「――っ! でも、でもレリスさんは、トマス・レルボスが本当に守りたかった人は、ああやって一番悲しんでいるんですよ? それで全て上手くいったと言えるんですか?」

「なら逆に聞くが、トマス・レルボスの真実が家族に伝わったとして、彼は真にそれを望んでいたと思うか?」

「え……?」

 彼女は思いがけない質問を僕に投げかけてきた。トマス・レルボスの望み。それは、彼がかつて親友に語ったという家族――妹の幸せのことだろう。

「レリス・レルボスはどうして周囲の悪意から逃れることができた? それは間違いなく、兄の献身の賜物だった。真実を知らない両親が今さら現実を知れば、彼らを余計に悲しませてしまうだろう」

「だと、しても……! それじゃああの兄妹があまりにも報われないじゃないですか」

「それが私たちの……『戦死通知課』の仕事だ。私たちは夢や希望を届けるんじゃない。彼らが道を踏み外さないために影から支えること。私たちができるのは、所詮そこまででしか、ないんだよ」

 いつかに聞いたことのある言葉だったような気がした。ジリアさんはあくまで任務として人の心を割り切れる。それ自体はきっと正しいのだろう。幼いのは僕の方だ。『戦死通知課』という場所に、夢や希望を抱き過ぎている。そして何より、自分の力で誰かを救うことができると思い上がっていた。そんな単純じゃ、ないのだ。

「……行こう。もうこれ以上、私たちにできることはないだろう」

「……はい」

 僕は言われるがまま再びバギーに乗った。足取りが妙に重く、まるで泥濘を歩いているような気分だった。今度こそアクセルが踏まれ、ゆっくりと帰路を辿る。赤く染まり始めた空がちゃんと見える速度で走っているのは、多分僕に対するジリアさんの精一杯の配慮だったのだと思う。

「ジリアさん」

「何だ?」

「僕は……僕の考えは間違っているのでしょうか?」

「――それを確かめるのが、君がここに居ることの意味だ、と私は思う。君がかつて『戦死通知課』に希望を与えられた人間だからこそ、君の中で、君自身が正解を見つけるんだ」

「……難しい、ですね」

「そうだな。だがもしその答えが見つかった時は……私にも、聞かせてくれ」

 ジリアさんの言葉に僕はゆっくりと頷き返した。地平が妙に眩しい。ゴーグルはしっかりと風を防いでいるのに、僕の目はずっと痛いままだった。



 大きなバギーが去って行くのを遠目で見送ってから、私はとぼとぼと帰路に着いた。一人で居ることには慣れているはずなのに、今だけは、まるで自分の半身が欠けてしまったかのような孤独感に襲われていた。

 兄は――トマスは、もうこの世に居ない。何年も前から両親によって面と向かって話すことさえ許されなかったけれど、彼がずっと私を思ってくれていたことはわかっていた。昔こそ彼を恨んでいたものの、自らカテナ市民全員の汚れ役を買ってくれたことで、私の世界は確かに変わったのだ。兄が人を殺めてしまったのも、私を付け狙った輩が居たという真実を家族の中で私だけが知っている。当然、両親も事件のことは知っているのだ。知っていて、事件の経緯もまともに聞かずに、市長の権限で表沙汰を避けた。兄は結局両親に弁明の一つもせず、少ししてから軍に行ってしまった。出発のその時まで、私に何かを言うこともなく。それも全てレルボス家を守り、私を守るためだったのだろう。

「最後くらい……文句の一つも残してくれても良かったじゃない……!」

 せめて最期の言葉くらいは、取り繕った文章でなくても良かったではないか。私に向かって、恨み言の一つでも残しても良かったのに。彼は死ぬ間際まで、私への贖罪を果たしたのだ。

「……うぅ」

 涙がこぼれていた。兄に一生会うことができないという現実と、守られているだけで、永遠にありがとうすら言えなくなってしまった自分への悔しさのせいだった。

 周囲の人間は、道端で屈み込む私に奇怪な物を見るような視線をぶつけるだけだった。中には私が市長の娘だと気づく者も居て、まるで病原菌を見たみたいに私から遠ざかった。別に救いの手を求めているのではない。ただ私は、もう兄以上の理解者を得ることは叶わないのだろう。兄は紛れもなく、私にとってたった一人の英雄だったのだから。

「おい……こんな場所で大の女が泣いてるんじゃねぇよ」

 誰も居なくなった後で、不意に頭の上から低い、よく通る声がした。見上げると、そこに居たのは私より二回りは大きいであろう紫髪の大男だった。身なりは整っているが、彼から放たれる威圧感は直感的にアウトローな存在であることを告げていた。

「あ、あなたは?」

「名乗るほどのもんじゃねぇ」

 ぶっきらぼうに言った男はやはり警戒しなければならないタイプの人間だと感じた。しかしどこか落ち着かない様子を見せる彼は、神妙な顔で私に聞いてきた。

「なぁ、お前の兄貴……トマスは……死んだのか?」

「あ、兄のお知り合いですか?」

「うるせぇ。さっさと俺の質問に答えろ」

 高圧的な態度で私の質問を無視した男は、まるで苛立ちややるせなさをぶつけてきているみたいだった。あまりにも失礼な男に、私も思わず声を尖らせて答える。

「兄は国のために殉職しました。それが、何か?」

 その答えを聞いた瞬間、男は一瞬だけ驚いた表情を作ってから、すぐにそれを隠そうと努めた。しかしわかりやすいくらいに動揺していて、そんな努力は全く持って無駄だということに気づいていない。やがて蚊の鳴くような声でそうか、とだけ呟く。

「あなたは一体、誰なんですか?」

 都合三度目の質問に、ようやく男はまともに取り合う様子を見せた。

「俺は……ただのはぐれ者だ」

「スラムの方、ですか?」

「……」

 その無言は彼の肯定の意だろう。私はより一層警戒心を深めた。以前私のことを狙ったのも、身代金目当てのスラムの人間だったから。しかし彼は私に何の危害を加えるような素振りは見せず、やがてここには居ない誰かに向かって悪態を吐くだけだった。

「あのアマ……! はなっからわかってて俺にあんなことを……」

「あんなこと?」

「――なんでもねぇ。それより、女」

 紫髪の男は再び私に話しかけると、ジャケットの懐から得物――ではなく、一枚の紙切れを取り出して、私に無理矢理握らせた。それはまるで子どもがお遊戯で描いた宝の地図のようで、お世辞にもわかりやすいとは言えないものだった。

「文字は書けねぇから、地図にした。もしお前がどうにもならねぇ事態に陥ったとしたら……この場所にこい」

 男はそれだけ言うと、これ以上私の質問に答えることもせずそくささと去って行ってしまった。その背中はさっきより小さく見えたけれど、最後に聞こえたこんな言葉だけは、誰よりも確固たる力強さを感じた。

「お前なんざに言われなくてもわかってんだよ……見ててやるさ。それがあいつとの約束なんだからな」

 私にはやはり最後まで彼の真意はわからず、くしゃくしゃのメモを再び見遣った。あんな怪しい男に渡されたものが、きっと良いものであるはずがない。けれど必要以上を語らないあの男が、一瞬だけ兄と重なったのは何故だったのだろう。
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