第1話

文字数 1,401文字


名前をなくしたあの子は
カーテンのすき間から
夜空を見上げていました。

『明日は満月だ』

そういって、両手で月を捕らえると
彼女の細い指からひかりが溢れ
小さな氾濫が起きました。

それから
砂のようにスルスルと落ちながら
ひとつの束になったのです。

ため息のようにゆるやかに、
部屋の中央へ向かって
暗い絨毯の草原をゆっくりとかき分けながら
流れ込んでいきました。

ひかりの川を目で追っていると
ある人の笑った声が耳元で聴こえて
彼女のこころは途端に白く染まりました。

ひかりは時々、
見る人の時間を狂わします。

忘却の彼方へ追いやったり、
または、とおい未来へ送り込んだり。
それは思い出や未来が
まぶしく見えるからでしょうか。

たとえそれが悲しくても
たとえそれがうれしくても
今、ここにないものに
人の目は眩んでしまうのかもしれません。


彼女は白くなった心を
呆然とした眼差しで見つめました。
その声の主はきっと大切な人でした。
よく思い出せないけれど、
バラバラになった
仲間の声じゃないかと。
甦る記憶の断片は
消えかけの花火のように点滅しながら
脳裏に信号を送りました。

それから彼女は
真っ白な紙に自分の願いを刻むように
ひとつの願いを掲げました。
床につたう小川に、
虹の橋をかけてほしいと。
彼女はその向こう岸に
知らない街の存在を感じていたのです。

目をひらくと
彼女の身体はとても小さくなっていて、
橋の前に佇んでいました。
そして、夜の静寂(しじま)
虹の橋を渡って
旅に出ることを決意したのです。


彼女が月の明るさを奪ったからか、
さっきよりも夜が深くなった気がしました。
でも寂しくはありませんでした。
ひとりで歩いているようで、
彼女の心は誰かといるようでした。

そのたしかな歩みを
綿飴みたいな羽をもつ白蛾や
夜空を映す湖面のような瞳をもつ夜鳥たちが
見つめていました。

彼女は歩きながら、
ふと、その街で無くした名前を
見つけ出せるかもしれないと思いました。
そしてそこには、
仲間たちがいるような気もしました。
それは直感のようなものです。

彼女が大きくなるごとに、
期待すること、夢を抱くことを
嘲笑う人たちが居ました。
彼らの空気は、
知的で分別のある人間だと語っていました。
その人たちは十分に素敵な人たちでした。
そして、程よくさまざまなものを
持っているように見えました。

でも、名前を無くした彼女は、
決して期待することをやめませんでした。
なぜなら自分の真実を信じているからです。

たとえ自分の名前がわからなくなっても
誰も自分のことを探せなくても
彼女はそれを見つけ出せると
信じているのです。

そんな彼女を応援するように、
月の川は
彼女の背後を照らし続けました。

真夜中にひとりで歩く人は、
道に迷っても
誰にもたずねることができません。
自分の歩いている道は、
行きたいところにたどり着くのか − と。

でも彼女の足取りは、
地図なんてなくたって大丈夫と
言っているようでした。
たとえお日様の下で地図を広げていても
道なんて簡単に間違えてしまうものだから。

たとえ、誰もが行き先に向かって
順序よく目印をつけても、
それはときどき砂糖菓子のように溶けて、
気まぐれに
歩くもののこころを揺さぶります。
自分の足でさえも
決めたルートから
外れたくなったりするのです。


でも、
こころの奥が指し示す標を信じている人は、
すべてを正解にしていく強さがあります。

何にも狂わせられない羅針盤は、
彼女のように誰もが持っていて、
それは、ひとりひとりの秘密なのです。 
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