恋遍路8.ある男女の話

文字数 1,360文字

 彼女は、恋人と一緒に暮らしていた。でも、彼は寝たきりだ。去年の夏、彼は突然そうなった。
 医者に連れて行こうとしたけれど、彼はひどく首を振った。「病院は、病気をつくるから」「医者なんて大キライだよ」と言って。
 彼女は布団を敷いて、彼をやすませた。それ以来、彼はいっさいの自主活動を止めた。ものをしゃべれない。自分で、ものも食べれない。トイレにも行けない。彼女がぜんぶ、世話をしていた。
 だが彼女は笑って言った、「私たち、幸せなのよ。彼に、生きていてくれて、ありがとう、としか思えない。毎日、一緒に暮らせてる。これが幸せでなくて、何なんだって思うわよ」
 スプーンを口に当てると、彼は口を開く。彼女はそっと口に入れる。彼は美味しいとも不味いとも言わず、咀嚼する。
 だが、彼女には、「これはしょっぱいな、とか、これは美味しい、って、彼が言ってるのが分かる」という。
 そして「彼が今、私とどんな話をしたいか、私には分かるんだ」という。そのたびに、彼に合わせてプロ野球の話をしたり、昔の思い出話をする。

 ふたりは、大学の舞踏サークルで出会った。「その日、初めて一緒に踊った時、すぐ分かったの。あ、同じリズムで呼吸してる、って。彼も、アッ、って感じてたわ。愛してるとか好きだとか、言葉も要らなかった。一緒に暮らし始めたのは、自然すぎるほど自然だった」
「たぶん、脳の病気だと思う。医者に診せてないから、分かんないけど。でも、何の病気だっていいじゃない。どこも痛がっていないし、苦しがってもいない。そして、こうして生きていられるんだから」
「彼は健康保険を払ってなかったし、国に頼りたくない、ってずっと言ってた。年金も、国にお金の面倒をみられたくないと言って、払っていなかった。ぼくら、ひとりひとりが自律して、自分で自分の一生の面倒をみて行かないとダメなんだ、って。悪いことばかりする政治屋がはびこるのも、ぼくらが自律した生き方をしないからだ、って。医者に頼るのも、同じようなもんだよ、って。そう言ってたのよ」

「私の親は、『なんで医者に診せない』ってうるさいから、ここに引っ越したことも知らせていない。政治は自民党、医者は『お医者様』信仰の人たちなの。電話も変えたし、もう10年、声も聞いてない。友達も、みんないなくなった。でも私たち、ふたりでチャンと生きてるのよ」
 ── わたしも、「いなくなった友達」のひとりだ。
 わたしは彼女の、彼を介護する姿を見て、恋の本質を見た気がしていた。
 つまり彼女は、彼の完全な(あるじ)になっていたのだ。彼を我が物とし、嬉々として彼の面倒を見、

の生活は完全に幸福に営まれていたのだ。
 彼女は、彼の過去の言葉を

に、彼を

し、彼の意思を尊重し、彼をほんとうに愛していたのだ。

「将来、どうするの?」わたしは、おそるおそる聞いたものだ。
「彼の親の遺産で、私は今四六時中、彼の介護ができてる。貯金がなくなったら、私たち、飢え死ぬしかないわ。彼もきっと本望よ。その最期の時は、私、泣くだろうけど。彼に、『お腹すいたねえ、でも、もうお金ないの』って、何度も言うと思う。『でも私たち、全然悔いなんか無いわね』って言えると思う。彼も、きっとうなずいてくれると思う。私には、分かるのよ」
 彼女は笑って、そう言っていた。
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