物理学の運動について

文字数 2,844文字

 次の日、砂川は旧校舎の屋上に現れなかった。白い輪郭が背後に立ったとき、僕はそれを屋上の影へと引っ張っていった。白い輪郭が形を作ると朝永になった。僕は朝永の表情の一つひとつを見逃さないために、影の中に留まった。
「絹と喧嘩をしたのかい?」
 朝永の表情に怒ったところはなく、むしろ諭すような微笑が浮かんでいた。
「喧嘩というほどでもないよ。ただ、あの女とは馬が合わないところがある」
「絹とはもう二度と会いたくないか?」
「そこまでは言わない。砂川を拒絶するつもりはない。けれども人と人がコミュニケーションを取るには、多くの障害があることを改めて実感した。僕たちは勤勉にならなくてはならない。相手を理解するために、その人が信奉しているものを知らなければならない。砂川だったら宗教。朝永だったら物理学。そのようなものに精通することによって、コミュニケーションの障害は取り除かれる。人と人の経路を通じることが人倫だ」
「なるほど。だったら、きみの信奉しているものは何だ?」
「滑空機だ。どうも砂川は僕と滑空機の関係性を今一つ理解していないらしい。ところで少しばかり物理学の講義をしてくれないか? 基礎的なことだけでいい」
「それは私ときみのあいだに経路を通じたいということかな?」
「そうかもしれない。けれども同時に砂川を理解するきっかけになるかもしれない。物理学において、力の根源は何だ? 力とはどこから来る?」
「それが絹の信奉しているものを知ることになるのかい? まあ、いい。しかしきみは基礎的なことと言ったが、その質問は非常に難しい問題だね。物理学者によって、力について一人ひとり違う表現を用いるんだよ。そのすべての表現はただ一つの意味を示しているのだけれど。方程式で示すことが最も正確な表記だが、言葉で表現するとなると、多種多様な言い回しがある」
「それなら、朝永自身の表現で教えてくれ」
「いいだろう。力の根源は時間と空間だ。万物は流転する、とはヘラクレイトスの言葉だ。ある物体は次の瞬間には別の位置に移動している。空間において、物体は位置の移動、すなわち変位を持つ。単位時間あたりの変位を物理学では何と呼ぶかわかるか? 速度だ。変位を時間で微分したものが速度。厳密にはこの定義による速度は瞬間速度と呼ぶのだけれど、そこまで詳しく説明する必要はない。それで、質量と速度の積を運動量と呼ぶ。ここで導入された質量は慣性質量であり、運動量はすなわち、止まっている物体をどれほど動かしやすいか、動いている物体をどれほど静止させやすいかの度合いの示すと言い変えることができる。そして力とは運動量の単位時間あたりの変化率だ。このことはニュートンが運動の第2法則で明記している。ただ、これは古典力学による定義で、古典電磁気学や相対性理論、量子力学ではこの方程式にそれぞれ修正を加えている」
「なるほど。力の根源は時間と空間であることはわかった。悪いが、さらに質問をさせてくれ。力は方向性を持っている。物理学の用語ではベクトルか。ビリヤードを思い浮かべてくれ。ボールとボールが衝突したとき、それぞれのボールはただ一つの方向を決定して弾き飛ぶ。ボールの衝突が起こる前、ボールに与えられる力のベクトル量の可能性は放射状に広がっている。それにも関わらず、衝突したあとのボールはただ一つの方向を決定する。しかもボールの衝突の条件が同じならば、必ず同じ方向を選ぶ。何が力の方向性をただ一つに決定している?」
「今日のきみはどうしたんだい? 随分と人生に対して真摯じゃないか。いつもは滑空機を弄り回しているだけなのに。それにしてもまた難しい質問だね。きみは三四日前に、私が変分法の話をしたことを覚えているかい? 数学や解析学において、汎函数を最大、もしくは最小とする函数を求めるってやつさ。実はこの変分法は物理学にも適応できる。その場合は最小作用の原理と呼ばれる。物理学には作用という概念があるから名称が変わるんだ。ここでいう作用とは、物体に及ぼす力のことではない。ラグランジアンの積分、別名、作用積分のことだ。一般化座標、その微分である一般化速度、時間の三つの変数を持つ関数のことをラグランジアンと呼ぶ。このラグランジアンの時間積分が作用積分だ。物理学のすべての分野において、あらゆる運動はこの作用積分が最小となる軌道を通る」
「つまり、その作用積分が最小となるように、すべての運動、言い換えれば力の方向は運命づけられているということか?」
「その解釈も間違いではない。しかし正確でもない。量子力学の話をしよう。無論、量子力学にも最小作用の原理を適応することができる。このことはファインマンの経路積分によって示唆されている。経路積分を簡単に言えば、作用積分を指数関数の変数として、ある経路の線分で積分することによって、すべての経路の確率分布を算出するものだ。量子力学の前提として、重ね合わせがあることは知っているな? 重ね合わせを数式で記せば、シュレディンガー方程式の解である波動関数の線形結合となる。このとき、それぞれの波動関数の係数は複素数だ。すなわち量子力学において、あらゆる事象は確率として表現される。確率分布が絶対連続であるとき、必ず確率密度関数が存在する。この確率密度関数を区間で積分したものを確率密度と呼ぶ。量子力学において、最小作用の原理を満たす経路は確率密度が最大となる経路に等しい」
「整理しよう。最小作用の原理によってあらゆる運動は作用積分が最小となるような経路を取る。量子力学においては、確率密度が最も高くなる経路を取るとも表現される。すなわち、あらゆる運動は確率として最も起こり得る軌道を取ることを数学的に証明したわけだ」
「コペンハーゲン解釈は知っているか? 量子力学の分野ではすべての事象が波動関数の線形結合として表現される。しかしそれは観測する前の話だ。観測するとある状態は波動関数の一点に決定する。このことを波動関数の収束と呼ぶ。このときの波の速度は光速を超えるため、人間にはその収束を観測することはできない。ある事象は観測前には確率上あり得るすべての状態の重ね合わせで存在し、観測するとその状態が決定するという考えがコペンハーゲン解釈だ」
「これまでの話を考慮した上で、ビリヤードの話に戻ろう。ボールは衝突が起きる前、すべての力の方向を選ぶ権利を持っている。しかしボールが衝突すると、力はただ一つの方向に決定される。衝突前のボールには確かに放射する方向の中から経路を選ぶ自由意志があった。ところが衝突後のボールはただ一つの経路を取るしかない。条件が同じならば、結果もすべて同じだ。これは運命ではない。衝突の前に、その経路を取る事実は決定していなかったのだから。それは運命ではなく、力の方向性を決定する別の何かがある。それは物理学のどこにも記述されていない未知の変数だ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み