ハッピーなエンド

文字数 1,917文字

「ねぇ、知ってる? 夜明け前が一番暗いのよ」

 そう言った彼女の、朝日を待つ笑顔を覚えている。



 特に慌てているわけでもないけれど、だからってゆっくりもしていられない心境。

 最近の僕は荷造りに忙しい。

 もう此処には居られないから。

 沢山の思い出の抜け殻の数々に名前を付けて箱に詰めている。

 どちらが悪いって(たぐい)の離婚じゃない。ただ僕らは疲れてしまって、心が鉛のように鈍くなってしまったから、お互いのために別れようという話。

 まぁ、よくある話だと思う。

 区切りというのは新しい何かを始めるために必要な儀式のようなものだから、彼女のためにこの部屋から僕の痕跡を一切合切(いっさいがっさい)消して出ていくのだ。

「良い部屋ね。私達、今日から此処に住むのね」

「僕たちの新しい出発の記念日だから、今日は外に食事でも行こうか」

「それよりも私が腕を振るうわ。(しばら)く贅沢は我慢しなきゃ」

「じゃあ、一番安いワインでも買って来るよ」

「うふふ。それにね……私、貴方(あなた)が私の作った料理を食べているときの笑顔が好きなの」

 あの頃は本当にお互いの心が繋がっていて、相手の気持ちが僕の中に自然に流れ込んでくる気がしたんだ。

 でも、そうじゃない。

 愛は鉢植えの中に埋めれば勝手に芽吹くものじゃない。水と肥料をやって、手間をかけなければ育たない。

 そんな簡単なことが僕には分かっていなかったのだ。

 なんてことを考えていたら、ついウッカリと、本当に些細なミスで、彼女とお揃いで買ったカップを落としてしまった。

 割れたのが僕のだけで安心した。

 破片を数えながら、愛というものについて考えてみた。もしくは男女というものに。

 三分で飽きてしまい、大好きなボブ・ディランをかけた。

 答えの出ない疑問の大半はディランが教えてくれる。答えはすべて、風の中ならぬディランの中だ。

「ねぇ、二人一緒に同じ(とし)を重ねられたら素敵じゃない?」

「君がビーチ・ボーイズを好きだったなんて意外だな」

「そうじゃなくて、アレよ。貴方がかけたレコードの中にそんな曲があったわ」

「ペットサウンズ?」

「ペットサウンズ」

 近所にあるコーヒーショップの一番安い豆を挽いて、大きめのカップの中に揺れるコーヒーが無くなってしまうまで、いろいろなことを話した。

 真面目な話から他愛無い冗談まで。体の中からカフェインが抜けてしまうまでの、束の間の笑顔が消えてしまうまでの時間。

 『あの頃は楽しかった』を箱の中に仕舞って、僕の荷造りは終わった。

 玄関のドアの重い音が、彼女の帰宅を告げる。

 部屋中に流れているボブ・ディランに顔を(しか)めるのが分かった。

 彼女は黙ってコーヒーを淹れて、自分のカップへと注ぐ。さっきカップを割ってしまったから、僕は飲むことが出来ない。

 僕のかける音楽が彼女の中で雑音に変わってしまったのは、一体いつ頃からだったのだろうか。

 そして僕が彼女の淹れるコーヒーの香りに(むせ)るようになったのは。

 壊れかけたシャボン玉のような思い出を覗いても、何も見えてこない。

 レコードの針を上げると、部屋には無音が拡がって、会話が無いぶん生活音がハッキリとした輪郭を持って耳に届いた。

 蛇口の先のポトポト。

 コーヒーポットのトポトポ。

 グリンピースが苦手な君の、写真の中の笑顔のピースサイン。

「ねぇ、やっぱり撮り直してよ」

「どうしてだい?」

「だって、女子高生でもないのにピースサインだなんて」

「ダメダメ。もう撮っちゃったし、僕は君の子供じみたところが気に入っているんだ」

「貴方はいつもそうやって私をからかうのだから」

 春服が似合う君は、だから笑顔も(あつら)えたように似合っていたんだ。

 その笑顔を守ることが出来れば、心には春がいっぱいになると信じていたんだね。

 子供っぽい僕の戯言(たわごと)なんだけど。

 本、レコード、写真の中の僕の視線。日用品はトランクに詰め込んで、独り言で結んだ。

 僕が居た残像の、跡形(あとかた)もない後片付け。

 ふと頭を抱える君を見て、僕は罪悪感を抱える。

 花に興味の無い僕がいなくなれば、この部屋にも花瓶が増えるだろう。

 春が過ぎれば夏がくる。そして秋、冬、また春へと……当たり前のように季節は変わり廻っていくんだ。

 玄関のノブに手を掛けると、最後に一度だけ後ろを振り返った。

「これから僕ら、一緒に暮らしていく中で辛い時もあると思う。でも――」

「でも互いが互いを思いやる心を忘れなければ、きっとどんな困難にだって打ち勝てるわ。幸せは何処にだってある。タメ息の中にも、二人が選ぶ過ちの中にだってさえ」

「そうだね。思いやる心を忘れなければ、僕らの未来はきっと繋がってゆく」

 若かった僕らの、ありえなかった夢に『さよなら』の言葉を添えて。

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