最終話 水曜日、雨がやむ。

文字数 2,414文字

 ほとんど、彼の独壇場だった。
 インテリでプライドの高いあの男が、ほとんど反論することもできず、最後には逃げるようにして去っていったのは驚いた。

「盗聴器って、ほんとう?」
「ああ、委員長の部屋に入ったときに気がついて、すぐにぜんぶ探して外した」
「そんなにすぐにわかるものなの」
「いや、ふつうは気づかない。おれは慣れてるから」
「慣れてるって」
 どうやったら慣れるものなのか。
 彼は笑っただけで答えなかった。
 それより。
「なんで、あの男のこと、知っていたの?」
「そんなのネットを使えばすぐにわかる。ああいう自己顕示欲が強いタイプはSNSで自慢話ばかりしてるし。結婚の経緯も、おそらくそんなかんじだろうなと予想がつく。そのとおりだったみたいだな」

 そう。彼のいったとおりで。結婚することになったから別れてくれ、と一方的に告げられて、そのまま音信不通になった。
 自分の見る目がなかったのだと、相手に対する未練などはなかったけれど、向き合うことから目を背けて、部屋にあった男のものはそのまま放置していたのだ。
 それがまさか、向こうがわたしに未練があったなんて。いや、未練というより、所有欲のようなものだろう。わたしなんて、いつでも自分の意のままにできると思われていたということか。
「おれが勝手にでしゃばったけど、委員長、あいつのこと訴えたかった?」
「え」
 いつのまにか、呼び方が「委員長」に戻っている。
「さんざんいやな思いをさせられただろうから、慰謝料くらい取れるよ。証拠は揃ってるし。ただ、あまり関わりたくないかなと思って、二度と接触しないことを条件に目をつぶることにしたけど」
「二度と現れないなら、それでいい。関わりたくない」
「そうか。それならいいけど」
「そういえば、お礼を送ったっていっていたけど」
「ああ、あれ」
「なに?」
「ウイルスみたいなものだよ」
「えっ」
「せいぜいパソコン一台ダメになるくらいのレベルだから、たいしたものじゃない。ご挨拶程度だから問題ないさ」
 なにやらおそろしいことを平然という。

 あまりの急展開に、まだ実感がわかなかったけれど、(うれ)いは去った。それだけはたしかだ。
 そのまま、帰り道に料理をテイクアウトして、部屋に戻ってふたりで食べた。外で食べて帰ってもよかったのだが、どうやら彼はあまり外を出歩きたくないらしく、テイクアウトを提案されたのだ。そういわれてみると、彼はわたしの部屋に来てから一度も外に出ていない。買いものはすべてネット注文だったし、たいていパソコンのまえに陣取っていた。
 傷を負った獣をかくまうようだ、とはじめに感じたことは、あながち的外(まとはず)れではなかったのかもしれない。

 余計なことは聞かない。当たり障りのない会話でいい。
 わたしには手の届かない相手だ。いまはそれがわかる。

 食事を終えて、まずわたしがしたことは、もちろん、あの男の置き土産一式をごみ袋に詰め込んでいく作業だった。ぜんぶ袋に放り込んで、次のごみ収集日に捨てるのだ。
 彼は壁にもたれて、そんなわたしをただ眺めていた。
 儀式のようなそれを終えて、ふたりで入れ替わりにシャワーを浴びる。熱いお湯を浴びながら、ひとりですこし泣いた。なにに対する涙なのかは自分でもわからない。

「今日はパソコン触らないの?」
「ああ。もう終わったから」
「あの、もしかして、いままでずっとなにかしていたの、わたしのため、だったりする?」
「委員長のためというか、おれが勝手にやっただけ」
 男前すぎる。やめてほしい。()れてしまったらどうするんだ。
 もう、遅い。

「香坂くん」
「どうした」
「あの、いっしょに寝てもいい?」
 珍しく、彼は驚いた顔をする。
「どういう意味?」
「言葉どおりの意味」
「添い寝ってこと?」
「うん。あ、寝るときにそばにだれかいるの、やっぱりダメかな?」
 だれかの気配が近づくだけで、あんなふうに飛び起きるくらいだから、いっしょに寝るのは難しいのかもしれない。
 彼は長いため息をついてわたしを見た。
「そういう問題じゃない。セキュリティが甘いっていっただろ。委員長の体調が万全だったら、とっくに手ぇ出してるからな」
「そうなの?」
「そうだよ」
 彼ははじめてベッドにあがってきた。照明を消す。
 冷房の効いた部屋で、触れるほど近く、すぐそばで、一枚の軽い羽毛布団にくるまって寝る。ふと聞いてみた。
「もうすこし近寄ったら暑い?」
「暑くはない」
 ならばと近づく。すると背中に彼の腕がまわされ抱き寄せられる。
「けっこう拷問なんだけど」
「なにか、したほうがいい?」
「……いや、そっちのほうがヤバい」
「離れたほうがいい?」
「いや、このままで」
 彼の手がゆっくりと髪を撫でる。どきどきはするけど、不思議と落ち着くような、妙なかんじだった。
 なにもしないで男のひととただ眠るのは、はじめてのことだ。
 きっと、いい思い出になる。
 たとえ明日には彼がいなくなるとしても。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

 明け方、ふと目が覚めた。隣に彼の気配はない。まだ暗い部屋のなかをなにかが動く。近づいてくる。目を閉じた。
 髪を撫でられ、唇になにかが触れる。
 それはほんのわずかな時間。
 気配が遠ざかり、玄関のドアが開く音がする。
 外から鍵をかける音。
 郵便受けに鍵が落ちる音。
 足音は聞こえない。
 そう、彼ははじめから足音を立てないで部屋を移動していた。

 彼は、いったいどんな人生を送ってきたのだろう。

 ***

 後日、銀行口座に送金があった。どこまで個人情報を把握されているのだろう、と思ったが、たぶん、悪いようにはならない、はず。
 そして、たしかに、代金は振り込むといっていたけれど、どう見ても(けた)がひとつ多い。間違いではないかと思ったが、もしまたどこかで出会うことがあれば、そのときに返せばいいだろうと、預かっておくことにする。

 雨がやむと、季節が進んだように一気に涼しくなった。

 夏が、終わる。
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