chapter3

文字数 19,803文字

1
朝日が差し込んできて目が覚める。時計を見ると普段よりかなり早い時間だった。二度寝しようとして、昨日の真央の言葉を思い出す。そういえば朝一緒に行こうって言ってたな。
体を起こして、シャワーを浴びにお風呂場に向かう。
「ふう……」
制服に着替えて髪型を整える。伸びてきた前髪を留めるためにヘアピンもつけた。
ソファーに座って水を飲んでいると、チャイムが鳴る。真央が呼びに来たのだろう。
「わっ!?びっくりした」
「何が」
制服姿で外に出て来ただけでどうしてそんなに驚くんだ。
「てっきりまた寝てるかと」
まあ、いつもは確かにそうか。
「今から寝てこようか?」
「もう、そんなこと言って」
「冗談」
朝から真央をからかう余裕が自分にあるなんて、正直驚いている。
「テスト終わったと思ったら今度は文化祭かぁ、イベント盛りだくさんって感じだよね」
「イベントねえ……」
今からめんどくさい。去年はのらりくらりと準備や本番をサボってきたけれど、今年は同じクラスに見張りがいるようなものだし、どうしたものか。
電車に揺られて学校に向かう。頭がいつもより冴えているからか、いつもより長い時間乗っているような気がした。
しかし暑い、まだ朝なのに歩いているだけで汗が止まらない。これよりまだ気温が上がると考えただけで嫌になる。夏はやっぱり嫌いだ。
「桜井さんおはよー」
「ねえ昨日さー」
教室に入ると、真央の周りに何人かのクラスメイトが寄ってくる。相変わらず朝から大変そうだ。
自分の席に座って机に突っ伏す。別に眠くはないのだけれど、いつもそうしているからなのかしていないと落ち着かない。
「テスト死んだしヤバいんだけど〜」
「え〜別に卒業出来ればいいでしょ」
聞くつもりはないし、別に聞きたくもないクラス全体のざわついた雰囲気がいつもより気になって仕方がない。
本当はこのまま始業まで寝ているべきだけれど、今日はそんな気分になれない。体を起こして、椅子から立ち上がって伸びをする。
「ふぅ……」
教室を出て渡り廊下まで歩く。退屈なので外で部活をしている生徒達の様子をぼんやり眺めていた。
「あら、こんなところで何をしてるのですか?」
「別に何も」
話しかけてきたのは椿原だった。
「そうですか」
「生徒会長さんは朝からこんなところで何してるの」
「わたくしも特に何かあってこうしてるわけではないですわ。ただ、貴女を見かけたので声をかけた、それだけです」
「ふうん……」
てっきりこの前の返事を聞いてくるのかと思って身構えていたのに、それ以上椿原は何も言ってこなかった。
「……」
「……」
この前は迫って来たかと思えば、今日は黙って隣に来ているだけで少し気味が悪い。どういうつもりなんだろう。
「貴女は」
椿原はそこで一度言葉を切った。
「……貴女は、何を見つめているんですか?」
わたしに何を聞きたいのだろう。いまいち質問の真意が読めない。
「今は別に何も見てないけど」
「そう……ですか」
椿原はゆっくりと目を閉じて、そして開いた。
「ではわたくしはこれで」
椿原はそう言って教室の方に戻ってゆく。その後ろ姿を見送ってもなお、わたしは教室に戻る気分になれなかった。
「はあ……」
ため息をわたしがついたところでチャイムが鳴る。重い足取りでわたしは教室に戻った。
やっぱり寝ないと全然時間が過ぎない。暇だけどやることもないしどうしたものか。
数学の授業が始まってもわたしはずっと時間を持て余していた。
「よし、じゃあ解説終わったしテスト返すぞ、朝倉〜」
「……はぁ」
のろのろと立ち上がって黒板の前まで歩いて、答案を受け取る。
返却が始まると静かだった教室が急にざわつきだす。
「ねー何点だった?」
「げっ……やべえよこれ〜」
「お前赤点じゃねえの〜?」
テストの結果で盛り上がるクラスメイト達を横目に自分の答案を眺める。予想通りの点数で、驚きも安堵もなかった。
「百合、どうだった?」
「別にいつも通りだけど」
「えーじゃあまたわたしの負け?」
「実際に見てみれば」
真央と答案を交換する。
「今回こそは勝つ気でいたのに」
真央は心底悔しそうな顔でわたしの答案を見つめた。
「次のテストではわたしが負けそう、勉強の成果出てるんじゃない」
「もう、余裕ぶっちゃって、次は絶対勝つからね!」
そう言って真央は自分の席に戻ってゆく。
それにしても真央はここ最近になってから急激にテストの点数が伸びた。勉強に目覚めたのだろうか?
「よし全員に返したな、じゃあ回答と解説をするぞ〜」
間延びした教師の声を聞き流しながら窓の外に視線を移す。
今のわたしの席は窓際の一番後ろで、外を眺めるのにはとても都合がいい。
風に揺れる木々や、空に浮かぶ雲との色合いがこうやって見ると結構絵になる景色ではないだろうか。
「……」
眠気はないけれど、いつもと同じように机に突っ伏す。
授業が終わるまでこれでやり過ごそう、そう思って私は目を閉じた。
「百合〜起きて」
真央に頬をつつかれて目が覚める。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「どうかしたの」
「これ見て」
真央にケータイの画面を見せられる。
「……映画のホームページ?」
「そうそう、この映画前に見たいって言ったの覚えてる?」
「あーうん」
思い出した。この映画前に橘さんと見たやつだ。
「今日が上映最終日みたいだからさ、学校終わったら行かない?」
どう断ったものか、わざわざあのつまらない映画をもう一度見たくない。
「映画見るような気分じゃない」
「え〜一人で恋愛モノの映画なんて見に行くの恥ずかしいし」
「別に一人で行けばいいじゃん」
「む〜」
真央は不満げな顔をしてケータイを胸ポケットにしまった。
「……」
なんだろう、最近真央の胸元がやけに気になってしまう。いや、もともと興味があったというか羨望の眼差しを向けていたのは確かではあるのだけど。
「どこ見てるの?」
わたしの視線に気づいたのか、真央は怪訝そうな顔をする。
「ねえ、真央また育ったんじゃない?」
気がついたときにはわたしの手がすでに、真央の豊かなそれを揉んでいた。
「きゃあっ!?
「あっ、ごめん」
真央の悲鳴じみた声で我に返る。
「いや、そのつい」
「ついって」
呆れた、というような表情を真央は浮かべた。
「もう、そんなに揉みたいなら自分の揉めばいいじゃん」
「……分かってない」
真央の豊かなモノじゃなければ意味が無いのに。わざとらしくやれやれと肩をすくめてみる。
「もう、どうして私がそんな顔されないといけないの……えいっお返し!」
真央が頬を引っ張ってきた。
「いひゃい」
まあ、これで真央の気が済むのなら大人しく引っ張られておこう。抵抗をせずに大人しくしていると、一人の女子生徒がこっちに近づいて来た。
「あ、あの……ちょっといい」
「あっ、椎名(しいな)さん。どうかしたの?」
椎名さん、確か文芸部かなんかの部長をしてるって真央から聞いた記憶がある。
「えっと、文化祭のことで桜井さん。それと朝倉さんに相談したいことが……」
そういうと椎名さんは真央からわたしの方に視線を移した。
「?」
無言で視線を返す。
「あ、あの、その……」
黒縁メガネの奥の目がどうしてだろう、どこか怯えているように感じる。
「その……」
椎名さんは黙ったままその続きを言おうとしなかった。
「文化祭のことって言ってたよね、何かあった?」
真央が横から助けを出したおかげか、椎名さんはおもむろに口を開いた。
「文化祭の劇の脚本をうちのクラスの文芸部員で作ることになって、今作ってるの」
「うん、それで?」
「作ってる途中でね、実は登場人物を増やすことになって」
「ふむふむ」
「その……」
相槌を打つ真央を横目に、椎名さんは窺うようにわたしを見てきた。
「朝倉さんは大道具の担当だけで、劇には出ないって綾子から聞いたんだけど本当?」
「そうだけど、それがどうかしたの」
「え……えっと、朝倉さん!」
今までは聞き取ろうとしなければはっきり聞こえなかったのに、急にびっくりするような大きさの声を出してきた。
「げ、劇にも出てもらえないでしょうか!」
振り絞るようにこう言った椎名さんの顔は、わたしでも分かるぐらいに紅潮していた。
「嫌、面倒だし」
「ご……ごめんなさい」
やっぱりといった顔で椎名さんは俯く。
「別に謝らなくても」
「そ、その……ごめんなさい」
逃げるように椎名さんはわたしの机から離れていった。
「そんなに人足りてないの?」
「実際私もかけ持ちすることになったし、人手が足りてないってのはそうなんだろうね。だけど、わざわざ百合に声をかけたのはそれだけが理由じゃないと思うなあ」
「どういうこと?」
「自分の胸に手を当てて考えてみたらいいんじゃない?本当、百合はにぶいんだから」
なんだか非常にイラッとくる顔で真央はわたしにこう言ってきた。それに自分の胸に手を当てて考えてみろって、これは当てつけなんだろうか。
「また揉まれたい?」
冗談で再び真央の胸に手を伸ばそうとすると、真央はため息をついた。
「……私のこと何だと思ってるの?」
伸びかけていた手を思わず止める。
「えっと」
背筋が凍るような冷たいトーンの声に、言葉が出てこない。
「ちょっと来て」
まずい。
「ごめん、ちょっとやりすぎた」
偽らざる今の気持ちが、口をついて出る。真央がただ怒ってる素振りを見せているわけじゃないことが、わたしにはひしひしと伝わってきていた。
「いいから、ちょっと来て」
以前にも真央を本気で怒らせたときと同じような、有無を言わさない口調。こうなったらわたしにはどうすることも出来ない。素直に()()を受ける以外わたしにはどうすることもできない。
真央に手を引かれて、教室の外へと連れ出される。もうすぐ二時間目が始まるが今の真央に指摘しても無駄だろう。
階段を上っている途中でチャイムが鳴ったが、やはり真央は教室に戻ろうとはしなかった。普段あまり使われることのない最上階の教室の前に着く。どうしてかは分からないが、真央はその教室の鍵を持っていた。
無言で鍵と扉を開けて、真央は教室の中に入った。わたしもそれに続く。
椅子と机が後方に整理されていて、ダンボールやその他色んなものが雑然と置かれている。
「ちょっと空気淀んでるね。よっと」
窓が開けられると、風が一気に教室の中を吹き抜けた。
「うーん、風が気持ちいいね」
真央がわたしに笑顔を向けてくる。さっきまでと明らかに違って、どこか吹っ切れたような雰囲気で正直怖い。
「ごめん。さっきも言ったけど、やり過ぎた」
「……そんな顔しないで」
なぜか、真央の方が申し訳なさそうに目を伏せる。
「私にとって百合はね、一番大事な……友達で、お隣さんだけど、百合にとっての私はどうなのかなって思ったの」
だけどね、と真央はそこで言葉を切った。
「こんなこと聞かれてもどう答えたらいいか困っちゃうよねって、今やっと分かったんだ」
「……」
「だから、さっきのは忘れて」
「うん」
「付き合わせてごめんね、戻ろ」
真央と肩を並べて教室に戻る。何をしていたか尋ねられたのだけど、真央が上手く言い訳をしてくれたおかげで教師から説教されることはなかった。
「はぁ……」
ようやく授業が終わり、思わずため息が漏れる。
帰ろうと席を立ったところで、視界の端に真央が見えた。クラスの女子達と何か話しているようだったしちょうどいい。
そのまま気づかれないようすり抜けるようにして教室を出た。
「じゃあね〜」
「また明日〜」
生徒達の挨拶が飛び交う廊下を歩いて、靴を履き替えて校舎を出た。
駅に向かって一人で歩く。
「……あっつい」
クーラーが効いた教室から外に出たせいか、汗が止まらない。
「はぁ……はぁ……」
学校から駅までの短い距離なのに息があがる。いつもと変わらないペースで歩いているはずのなのにどうしてだろう。
駅についたときにはすでに全身が汗ばんでいた。改札を通っていつもは使わないエレベーターに乗り込む。
「ふう……」
帰ったらシャワーを浴びてソファーに寝転がろう。そう決心して電車に滑り込んだ。
空いている席に座って短く息を吐く。しばらくぼんやりしていると、向かいの席に中学生ぐらいの女子とその母親らしき人が座った。
その二人に特別何かがあったわけではない。だけど、母親と娘というありふれた関係の会話が目の前でされているのを見聞きして、わたしの頭の中の記憶が呼び起こされる。
「好きになさい。ただし──」
もしもわたしがあんなことを言わなければ、今でもお母さんとこんなふうに肩を並べて話が出来ていたのだろうか。
どうすることも出来ないのに、ふとそんなことを考えてしまう。
お母さんがどういうつもりか分からないけど、わたしは選んだことを曲げないようにしないといけない。
気がついたら家の前に着いていた。
「ふう……」
汗が首を伝うのを感じる。自分の体の変調の理由が何となく分かった。
いわゆる嫌な予感。あのお母さんが理由なくわたしを呼ぶなんてことがあるはずない。
あと約一ヶ月、気分を引き締めよう。小さく決意して、わたしは家の中に入った。

2
「おはよう」
「あ、おはよう。もうすぐ朝ご飯出来るから」
ある朝ママと言葉を交わした後、制服に着替えてるときに突然ケータイが鳴った。
「え?どうしたんだろ」
ケータイに表示された百合の名前を見て思わず呟いてしまった。
「もしもし」
「今大丈夫?」
百合の声のトーンがどこかいつもと違うような気がしてしまった。
「大丈夫だけど」
「今日学校遅刻して行くから先に行ってて」
「……何かあったの?」
「まあ、特に何かあったわけじゃないんだけど、少し時間かかりそうだし昼ぐらいには学校行くから、じゃあよろしく」
「えっちょっとま……」
一方的に電話を切られる。
「もう、一体どうしたんだろ」
釈然としない気分のままリビングに降りた。
「いただきます」
トーストを食べていてもさっきの百合の電話が気になって仕方がない。
「さっき電話してたみたいだけど誰から?」
「百合から」
「あら、デートのお誘いとか?」
「今日学校に遅刻して行くから、先に行っててっていう電話だった」
そう、とママは少し残念そうな顔になった。
「そうだ、今度の週末にでも百合ちゃんうちに誘ったら?」
「いいの?」
「テストも終わったことだし……ママも百合ちゃんに会いたいからね〜」
ママからの嬉しい提案で気分が一気に晴れる。
「行ってきま〜す」
一人で電車に乗って学校に向かう。
「あっ桜井さんおはよー」
「おはよー」
教室に着くまでに何人かのクラスメイトや後輩の子と挨拶を交わす。
「桜井さん」
教室で自分の席に座って今日ある授業の準備をしていると、橘さんに声をかけられた。
「あっおはよー」
とりあえず、当たりさわりのない挨拶を返す。
「ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」
「うん、いいけど……」
ここじゃダメなのかな?という私の視線を受け流して、橘さんは教室から出て行ってしまった。
橘さんの後を追って女子トイレの中に入る。
「相談って?」
橘さんが何も言わないので、私の方から切り出した。
「桜井さんと百合ちゃんってさ、どういう関係なの?」
「どういう関係って……それが相談なの?」
てっきり文化祭のことについての相談だと思っていたから、突然の質問に思わず戸惑ってしまった。
「劇のベースとなる話が『眠り姫』になるって話は桜井さんとかにしたと思うんだけど、実は王子様役をどうしても女性にしたいっていう意見が文芸部の中で出てて」
それでね、と困ったような笑顔を作って橘さんはこう続けた。
「桜井さんって百合ちゃんが相手役ならいいって言ってくれるのかって思ったの。どうかな?」
相談って……そういうこと。
「うーん、私は別にいいんだけど百合が嫌だって言うだろうし」
「……じゃあもしも百合ちゃんが王子様役だったら、桜井さんは女の子同士でいいかな?」
「うん、まあ私は別にいいけど」
「本当?よかった〜」
橘さんに手を握られる。さっきまでと違って明るい表情に変わって私もほっとした。
「わざわざごめんね〜男子の方にはあたしが話しておくから」
そう言って橘さんは小走りでトイレから出ていった。
私もトイレから出て教室に戻る。先に戻ってると思ったけれど、橘さんの姿はない。
もう授業が始まるのにどこに行ったんだろう?
結局橘さんはチャイムが鳴るのと同時に教室に滑り込んで来た。
色々と気になるけれど、授業が始まったので気持ちを切り替えてノートを取らなければ。
一時間目、二時間目、そして三時間目が終わった。
「いつ来るんだろ」
誰にも聞こえないように呟く。昼ぐらいには来るって言ってたのに一向に来る気配が無い。
「ちょっと電話かけてくるね」
「おっカレシ?」
「もう、違うよ」
お昼ご飯を食べてる途中で教室を出て百合に電話をかける。
「はぁ……やっぱり」
何となく分かっていたけれど、出る気配がない。
もう一度電話をかけようとしたとき、後から声がした。
「こんなとこでケータイ持って何してるの?」
「あっ」
振り返ると百合が立っていた。
「もう、遅い!」
怒った顔をしていることが自分でも分かる。
「朝電話したよ」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「じゃあ何?」
「もう、いいよ。教室戻ろ」
百合の顔を見てものすごく安心した。なのにどうしてこんなに強い口調になってしまうのだろう。一人で勝手にイライラしている自分が嫌になる。
「何かあったの?」
私は四時間目の休み時間に百合の席に行って尋ねてみた。
「気分を変えただけ、特に何かあったわけじゃない」
あくまで私個人が勝手に思っているだけなのだけれど、今日の百合はどこか変だ。もともと少し不思議というか、私にも色々読めない部分があるのだけど、今日はそれとは違う何かを感じる。
「ふ〜ん」
いつもは少し着崩している制服を今日はきちっと着ているし、気だるそうな雰囲気を全く感じない。
「そんなじっと見てどうかしたの?」
「何かいつもと雰囲気違うなあって」
「そう?」
何だか少し気味が悪いぐらい、表情も口調もいつもより明るい。何だか中学生のときの百合に似たようなものを感じた。
「授業始まるよ。そろそろ戻ったら?」
「う、うん」
まだチャイムが鳴っていないのに、百合がこんなことを言うなんて……やっぱり変だ。
疑問に思いながら私は自分の席に戻った。
「じゃあまた明日ねー」
「また明日ー」
授業が終わるといつも通りみんなと挨拶を交わしてから帰る。
「あっそうだ百合」
「ん?」
やっと電車の中で座ることが出来たところで、私は百合に話しかけた。
「今週末さ、うちに来ない?」
「どうしたの突然」
「ママも百合に会いたいって言ってたよ」
「えぇ……」
百合は露骨に気が進まないというような顔をする。
「何か用事とかあるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「けど?」
「何かやだ」
「もう、なにそれ」
「気が向いたらじゃダメ?」
「……分かった」
百合がこう言うときはちゃんと考えてくれるから、納得することにした。
「……」
百合は窓の外を無言で眺めている。その物憂げな視線にあるのはきっと外の景色じゃない。
「考え事、してる?」
出来るだけ邪魔にならないように、そっと話しかけた。
微かに百合が頷く。
「そっか」
私も同じように外を眺める。きっとそれが百合の求めていることなんだろう。
「そろそろ着くよ」
「うん」
電車を降りて家まで二人で歩く。私は百合の細かな表情の変化まで気になってしまうのに、百合は私のことなんて最初から視界の中から外してしまっているみたいで、それがとてつもなく悲しかった。
でも、だからといってこういうときに百合の邪魔をしたら、きっとこうして一緒に歩くことも出来なくなってしまう。それは私にもわかった。
「じゃあまた明日」
「うん」
これが今の私に出来る精一杯のこと。そう自分に言い聞かせて百合と別れた。
「ただいま」
「おかえり〜コーヒー入れるから着替えてきたら?」
「うん、そうする」
制服から着替えると、急にどっと疲れが押し寄せて来る。
「はいコーヒー」
「ありがとう」
一口飲んで大きく息を吐いた。
「どうしたの?ため息なんて」
「何だか一人で勝手に心配ばっかりして疲れちゃった」
今日あったことをママに話した。
「なるほどね」
「うん……私絶対百合にめんどくさいって思われちゃってるよね」
「真央に聞きたいんだけど」
ママが私の目を見つめる。
「百合ちゃんのことどう思ってるの?」
「……どう思ってるってそんなの」
「百合ちゃんのこと、好き?」
「……」
思わず言葉を失う。
「もちろん友達として好きなのは間違いないってママも分かってる。だけど、ママが聞きたいのは友達として好きかじゃない」
ママはそこで言葉を切って、確かめるようにゆっくりとその続きを言った。
「真央は恋人にしたいって意味で百合ちゃんのことが好き?」
思わず唇を噛む。今まで答えを出さないでいた自分への問いかけが、まさかこういう形で目の前に示されるなんて思ってもなかった。
「私は……」
胸元をぎゅっと握りしめながら、その続きの言葉を心の中から出そうとする。百合のことをどう思っているのか、私の知っている言葉のなかからこの気持ちに名前をつけるのなら、どれを選べばいいのだろう。
「分からないよ……分かんない」
本当は分かっている。だけど、一度自分の口からこの言葉を出してしまったらもう、秘密にしておくことは出来ない。
「私は百合のこと好きなんだよきっと……そうじゃなかったらこの気持ちを説明出来ない」
私の答えにママは何も言わずに目を閉じた。
短く息を吐いてからママはいつもの笑顔で私の手をさする。
「真央の気持ち伝わってきたよ。ママも応援する。だから、頑張りなさい」
「ママ……」
声が震えた。嬉しいとか、本当に?という気持ちが混ざって、涙が溢れて止まらない。
「泣かないの。ママはいつだって真央の味方だから、何も心配することない」
ママは強く、だけど優しく手を握ってくれた。
いつだって暖かくて少し勇気をくれる言葉が私をいつも助けてくれる。
「ありがとう」
涙はまだ止まらないけれど、ママに笑顔でお礼を言う。
「うん。やっぱり女の子は笑顔でいるのが一番だから」
少し冷めてしまったコーヒーがこんなにも美味しいと感じることはきっとこれからもない。それぐらい涙を拭った後に飲んだコーヒーは格別だった。

3
なるべく早く起きるように気をつけていても、やっぱりわたしは絶望的に朝が弱い。
目が覚めて時計を見たわたしはそのことを改めて実感していた。
起きなければ、起きなければいけない。気を引き締めて8月まで過ごそうと決めたはずなのに、その決心が揺らぐほどの倦怠感に襲われる。
もういいか、今日ぐらいはこのまま眠ってしまっても。
突然テーブルの上に置いていたケータイが鳴り始めたのはちょうどそのときだった。
「んぅ……何?」
「何?じゃなくて、さっきからチャイム鳴らしてるんだけど」
「……もう少し寝かせて」
朝から電話をしているのは正直ものすごくしんどい。一刻も早く二度寝をしないと死んでしまいそうだ。
「いいよ。待ってるから」
朝から真央のお説教が始まると思ったら、全く想定していない答えが返ってきた。
「先に行ってればいいのに……真央まで遅刻することないし」
「私が百合と一緒に行きたいから勝手に待ってるだけ。それじゃあまたかけるから」
そう言って電話は一方的に切られてしまった。
真央は基本生真面目なのに、たまにこういうことを平気で言ってくることがある。頑固というかなんというか……小さい頃から変わってない。
「……ああもう」
多分本当に真央はわたしが行くまでずっと待っているだろう。流石に真央を巻き込んでまで寝ているわけにはいかない。
急いでソファーから起き上がり、身支度を整える。
「よし、まだ間に合いそう」
飛び出すように家を出ると、真央がやっぱり待っていた。
「えっ、絶対起きてこないって思ってたのにどうしたの?」
真央は驚いたというような表情をする。
「いいから行くよ」
この時間ならなんとか間に合いそうだ。
急いで電車に滑り込むと、いつもより車内が混んでいた。
「ふわぁ……」
つり革を握りながらあくびをする。
「大丈夫?」
「いつものことだし」
「座れたらよかったんだけどね……」
「この時間は無理でしょ」
今乗っている電車が始業に間に合う最後の電車だろうし。
「肩貸して」
真央に少しだけ体を預ける。
「もう」
子供をあやすような声で真央はわたしをたしなめた。
「落ち着く」
わたしよりも数センチ身長の高い真央の肩はちょうどいい位置にあって本当に落ち着く。
そのまま学校の最寄りの駅に着くまでずっとわたしは真央に体を預けていた。
「ありがと」
「ううん」
真央はどうしてか少し恥ずかしそうに笑う。
「ねえ百合、今日の帰りママが迎えに来てくれるって」
校門をくぐったところで、ケータイを触りながら真央はこう言ってきた。
「?」
わざとらしくわたしが首を傾げると真央はケータイの画面を見せてきた。
「どう?少しは気が向いた?」
「『ママも百合ちゃんに会いたいから今日迎えに行きます』……って完全に連れて帰る気でしょこれ」
「だね」
どうやらわたしに拒否権はなさそうだ。でも恐ろしく気が進まない。面倒なんだよなあの人。
「……行く」
「本当!?ママに連絡しておくね!」
眩しい笑顔を真央は浮かべる。その笑顔は見ていて安心する。と同時にわたしには眩し過ぎると思ってしまった。
「楽しみだな〜」
鼻歌でも歌い始めそうなほど軽い足取りで真央は歩いてゆく。
「はあ……」
何だか元気を真央に吸い取られてしまったような気がする。反対にわたしは重い足を引きずるように真央を追いかけた。
「眠たい……」
昼休みになっても机から離れられないほど、わたしは強い眠気に囚われていた。
「いつまでそうしてるの?」
「このまま一生」
「もう、そんなのダメに決まってるじゃん。そういえばテストの順位発表されたみたいだよ、見に行かないの?」
「わたしの分も見てきて」
うちの学校は風変わりなところがいわゆる普通の学校よりも多いと思うのだけれども、いまだにテストの成績上位者を廊下に掲示するという奇妙なことをしている。
どうせ後で個人に成績個票が返ってくるのに、わざわざそんなことをする理由がわたしには分からない。
「私は載ってないよ、それに百合が見に行かなくてどうするの」
「はいはい」
テストの結果に興味なんてないけど、そろそろ立たないと机と自分がくっついてしまいそうな気がするので立ち上がることにした。
生徒達の群れをかき分けて掲示された紙の前にようやくたどり着く。
「あ」
名前の一覧の中に桜井真央の文字を見つける。
「桜井さん、ここに名前が載るのは確か初めてだったかしら」
横を見ると、生徒会長様がわたしに笑いかけてきていた。
「そういう生徒会長さんは今回もすごい点じゃない?」
「うふふ、貴方もずいぶんと意地の悪い言い方をするのね」
「言われ慣れてると思ったんだけど、違うの?」
「さあ、どうでしょうね」
椿原は笑顔を崩さないままわたしから視線を外した。
「そういえば、貴方とわたくしだけみたいですよ、毎回名前がここに載っているの」
「ふうん」
へえそうなんだ、知らなかった。
「外にこうして貼られるのは上位10名ですから、いくら勉強をしていても毎回この順位にいるのは難しいと思いますわ」
「……それにしてもなんでわざわざこんなの貼るの?」
「わたくしもそう思いますわ」
椿原は心底可笑しそうにくすくすと笑う。
「ところで貴方がこの順位を維持するためにしている秘訣ってありますか?もしあったらわたくしに教えてくださいな」
「わたしの方が生徒会長さんに聞きたいんだけどそれ」
「うふふ」
椿原はわたしの質問に答えようとはしなかった。
「それではわたくしはこれで」
そう言うと椿原は生徒達の群れを足早に抜けて行く。わたしも教室に戻ろうとしたところで今度は晴海に声をかけられた。
「すごいね、また名前あったよ」
「別に」
「いいなーそんなに余裕あって、ボクは今回も赤点回避がやっとだったよ、あはは」
晴海はからからと笑う。
「そういえば進路決まった?」
急に真面目ぶったことを晴海は聞いてきた。
「あんたはどうなの」
「うーん夏の大会で結果が出せたら、そのまま推薦でどこか行こうかなって感じかな。もしダメだったら姉さんみたいにフリーターになろうかなって」
「ふーん」
さほど興味を持って聞いたわけじゃないけど、晴海も大変そうだなと素直に思った。
「そういえばどうするの、進路とか」
「何も決めてない」
「そっかあ……まあ、まだ時間あるからね」
晴海は申し訳なさそうな顔をする。
「詩音ー購買行くよー!」
「今行くー!じゃ、また」
ものすごいスピードで晴海は走って行った。あの元気はいったいどこから来るのだろうか。疑問に思いながら、わたしは教室に戻った。
「はぁー」
今日の授業の終わりを告げるチャイムを聞いて、わたしは長いため息をついた。これから真央の家に連行されるって考えると、今からでも逃げて帰りたい気分になる。
「百合〜ママから校門まで迎えに来るって連絡来たよ」
「えっ!?
思わず妙な声が漏れてしまった。
「いいでしょ?わざわざ迎えに来てくれるって言ってるんだし」
「別にいいけど……」
そんなふうに詰め寄られると何も言えなくなる。
靴を履き替えて校門まで肩を並べて歩く。真央は今にもスキップをしそうな笑顔を浮かべている。なんでこんなに嬉しそうなのだろうか。
「いつ以来だっけうちに来るのって」
「去年のクリスマスぐらいじゃないの」
「あーそうだったっけ、ケーキ作ったときの」
「そう」
たわいもない会話をしているといよいよ校門に着いてしまった。
「ゆ〜り〜ちゃん」
止まっていた車の窓が開き、中から女性がひらひらと手を振っている。
「お久しぶりです」
「うーん相変わらずカワイイ!連れて帰りたい、いや連れて帰るんだけど」
この女性が桜井真琴。真央のお母さんだ。
「あはは……」
あまりのテンションの高さにぎこちなく笑うことしかできない。
「ねーママ、今日は何作るの?」
車の中で真央がおもむろに口を開く。
「もう材料は買ってあるし、それは家についてからのお楽しみよ」
「えーなにそれー」
この二人は親子というよりも、年の離れた姉妹のような会話をいつもしている印象がある。小さなことで喧嘩をしているときなんて本当は姉妹なんじゃないかと思ってしまう。
お世辞じゃなく真琴さんはいつも元気で、とても若々しい雰囲気を纏っている。
正直テンションが異様に高くて、やたらとボディタッチが多いことを除けば頼れるお姉さんって感じの人だ。
「そういえばママ、今日テストの結果が発表されたんだけどね──」
真央と真琴さんの会話を聞きながら、わたしはぼんやりと窓の外に視線を移した。代わり映えのない景色なのになぜだか眺めずにはいられない。
不思議なこともあるものだ。
「お邪魔します」
久々に自分の家以外に入ると緊張してしまう。
「ただいまじゃなくて?」
「……えっと」
わたしはどう答えればいいのか……ものすごく返答に困る。
「もう、ママ百合に変な絡み方しないでよ」
「うーん?百合ちゃんは別に変って思ってないよね」
そういいながら真琴さんは後ろからぎゅっとわたしを抱きすくめてきた。
「く、苦しいです」
背中にすごい存在感の柔らかいモノを感じる。やはり親子だから似ている部分がわたしから見ても多いのだけれど、この柔らかいものを言葉で表現するのなら、強化版真央といったところだろうか。
「もーママ助けて〜って感じで百合が私を見てるよ」
いや、確かに助けて欲しいのだけれど。
「腕が取れるからそんなに引っ張らないで……」
どうして親子でわたしを引っ張り合うのだろうか。わたしは綱引きのロープじゃないのに。
「……さあて、私は晩ご飯作るから二人は部屋にでも行ってなさい」
「はぁい」
「わかりました」
真琴さんに促されて、真央と二人で上の階に向かう。
「ねえ百合、模様替えしたんだけど、どう?」
部屋に着くなり真央はわたしに聞いてきた。
「前よりわたしは好きだけど」
「よかった〜。ほら、前に百合と買い物にいったときにいいって言ってたものとか置いてみたの」
「でもよかったの?こだわって色々決めてなかったっけ」
「ううん、百合がいいって言ってくれるんだったらわたしはそれで」
自分が普段から使う部屋なのに、どうしてわたしの好みに合わせてわざわざ模様替えしたのだろうか、思わず疑問が頭に浮かんだけど真央に聞くのはやめておいた。
「はいどうぞ、それじゃあごゆっくり〜」
「ありがとうございます」
真琴さんがあたたかいコーヒーと紅茶を運んで来てくれる。季節外れだけれど、わたしはクーラーが効いているから冷たいものよりもこっちの方が飲みたかった。
「美味しい」
そういえばどうしてわたしが一番好きな紅茶の銘柄が分かったのだろう。真琴さんに言った記憶はないのに。
「百合はアッサムティー本当に好きだもんね」
なるほど、真央が真琴さんに伝えたのか。それにしてもわざわざ用意してくれるとは思わなかった。
「それにしてもコーヒーそのままよく飲めるよね。苦くないの?」
「だって、砂糖とかミルクとか入れるんだったらわざわざコーヒーを飲む必要ないし、それに私コーヒーのこの香りが好きなの」
カップから立ちのぼる湯気を眺めながら真央はいたずらっぽくこう言ってきた。
「百合って結構子供っぽいところあるよね、コーヒーだけじゃなくてゴーヤとかも絶対食べようとしないし」
「苦いものは体が受け付けないの」
「ただ嫌いなだけなくせに」
「…………」
そんなにストレートに言われると何も言えない。
「ねえねえ、そういえば百合ってさ」
「?」
真央はカップをテーブルに置いてわざわざ座り直した。
「今、好きな人いるの?」
「いきなり何?」
突然どうしたのだろう。
「いや、その……ちょっと気になっただけだから。深い意味はないから誤解しないで!」
「ふーん誤解ねえ」
わざわざ聞いてくるってことは何か意味があるのだろうけど、あえてわたしは聞かなかった。
「真央ー百合ちゃーん!そろそろ降りてきてー」
下の階から真琴さんの声が響いてくる。
「はーい今行くー!……じゃいこっか」
真央の言葉に頷いて一緒に下の階に降りてゆく。
「わぁ、気合入ってるなあママ」
テーブルの上にはエビチリや麻婆豆腐、生春巻きにシューマイが並んでいる。相変わらずものすごい量だ。
「当たり前でしょ。百合ちゃんとの久々ご飯なんだから」
「いつもすみません」
「なにいってるのよ〜百合ちゃんがうちに来てくれるんだったら毎日だって作っちゃうよ〜」
「あはは」
自分でも引きつった笑顔を浮かべているのが分かってしまう。毎日こんなに食べさせられたら体が持ちそうにない。
「さ、早く食べましょう。料理は出来立てじゃないと、ね」
「いっただきまーす!」
「い、いただきます」
「はいはいどうぞ〜」
こんなふうにテーブルを囲んでご飯を食べるのが久々でなんだか緊張してしまう。箸を持ったまま戸惑っていると、真央が満面の笑みでわたしに皿を差し出してきた。
「はいどうぞ」
「あ……りがと」
いきなりすごい量が盛られた。これだけでもお腹一杯になりそうな気がする。
「うん、美味しいです」
本当にとても美味しい。真琴さんがものすごく料理上手なことは知っていたけれど、想像以上に本格的な味だった。
「本当?もっとどんどん食べて。はい、どうぞ」
「あ……はい」
「ほら百合これも、それからこれも」
「う、うん」
ものすごい勢いで食べろ食べろと皿に盛られあっという間に空腹が満たされてしまった。
「も、もう大丈夫です。お腹いっぱいです……」
「え〜?じゃあ食べさせてあげよっか?はい百合ちゃんあ〜んして」
真琴さんはお酒を飲んで酔っ払っているのだろう。頬が赤く染まっている。
「あっママなにやってんの!だったらあたしも……はい、百合口開けて」
止めるどころか真央も争うようにわたしにレンゲを差し出してくる。さすがに恥ずかしいからやめて欲しい。だけど、目の前に差し出されたモノを食べないとこの食卓からわたしが解放されることはきっとないのだろう。覚悟を決めて口を開ける。
「あーん……むぐぐっ!?んー!んー!」
思っていた以上に麻婆豆腐が熱かった。手を伸ばして真央に水を求める。
「大丈夫?」
「ちょっと思っていたより熱かっただけ」
「ごめんね〜ちゃんと冷まさなかったせいで……やけど、してない?」
「大丈夫です、気にしないでください」
水を飲んだらすぐに落ち着いた。
「ふー!ふー!もういいかな。百合、口開けて?」
「えっ?」
どうして真央まで……まだわたしに食べさせる気なのか。
「私に食べさせられるのは嫌?」
「嫌じゃないけど……」
そこまで露骨に悲しそうな顔をされると断りにくい。
「分かった分かった食べるから……」
──こんな感じでいつもよりも騒がしい食事が終わる。お腹ははちきれそうだし、とにかく疲れた。
「お風呂沸いたから真央先に入っちゃいなさい」
「はーい」
真琴さんはマッサージチェアに座り、真央がお風呂に入っている。
「うっぷ……」
わたしはソファーに座ってお腹を休ませている。あれだけ食べて平気なのはやはり親子か。
「百合ちゃん大丈夫?」
「はい……少しお腹はちきれそうですけど」
「うふふ、百合ちゃん見てるとついついいつも食べさせたくなっちゃうのごめんね〜」
「は、はあ」
ニコニコと明るい表情を浮かべながら、真琴さんはわたしの隣に腰を下ろした。
「よいしょっと。ねえ、百合ちゃんは最近どう?……真央がね、最近少し様子が変だって言ってたから少し心配になっちゃって」
「……」
「そんな顔しないの。百合ちゃんはせっかく可愛いんだから、もっと明るい表情の方が似合うと思うなあ」
「そう……でしょうか」
「うん。ねえ百合ちゃん、髪触っていい?」
「え?」
わたしの答えを待たずにくしゃり、と掴むように髪に触れられた。
「う〜ん本当に、似てるなあ。この柔らかい髪の感触も、その困ったような表情も……そっくりで」
真琴さんは寂しげな表情を浮かべる。だけど、髪を触ることはやめようとしなかった。
「こうやって目の前の幸せに手を伸ばすっていうことは、なかなか素直には出来ないことだからね。だけど、手を伸ばさないと手に入れることはできないものの方が多いの。後から欲しいって思っても手に入らないってことが結構あるからね」
「酔っ払ってます?」
「うふふ、ちょっぴりかな」
だから、と真琴さんは続ける。
「真央や百合ちゃんにはああしておけばよかったって後から後悔して欲しくないの」
笑顔を作ってはいるけれど、真琴さんはつらそうだった。
「……やっぱり、後悔してるんですか?」
「ううん、あのとき手を伸ばしていたら真央やあの人、そして百合ちゃんにも会えてなかった。だから後悔とはちょっと違うかな。でもたまに、もしもってどうしても思っちゃうかな」
真琴さんは髪から手を離すと、今度はわたしの手をぎゅっと握った。
「真央と百合ちゃんが考えて決めたことだったら何だって応援するからね」
真琴さんがいつにもなく真剣な眼差しで、わたしを見つめる。
わたしが頷くと真琴さんは優しく微笑んだ。
「でも真琴さんどうしてそこまで」
「それは他の誰でもない百合ちゃんだから」
わたしには真琴さんの言葉の意味が分かってしまった。
「そんな顔、しないでください」
「……やっぱり大人になっても格好つかないね。百合ちゃんのママに笑われちゃう」
わたしは真琴さんの顔を見てられなくなって自分から胸に飛び込んだ。
「そんなことないですよ。お母さんより真琴さんはわたしにとってお母さんみたいな人だって思ってます」
「もう、反則。でも、そんなふうに言ってくれて本当に嬉しい。しばらくそうしていて、今だけ百合ちゃんのお母さんでいさせて」
真央がお風呂から上がってくるまでの間、わたしはずっと真琴さんの胸に抱かれていた。
「お風呂空いたよ」
「じゃあ次は百合ちゃん入ってらっしゃい」
真琴さんは明るい声で促してくる。
「はい」
真央と入れ替わりでお風呂に入った。シャワーを浴びていると真琴さんの顔が思い浮かぶ。
わたしも詳しくは知らないけれど、わたしのお母さんと真琴さんの間に昔何かがあったらしい。
わたしのお母さんはいったい真琴さんに何をしたのだろう。……あまり想像したくない。
何かハプニングが起きることもなく、体を拭いて髪を乾かしてから用意されたパジャマに着替えてリビングに戻った。
「百合ちゃん、お風呂どうだった?」
「いいお湯でしたよ」
「そう、よかった。真央の部屋に寝る用意してあるから泊まっていってね」
真琴さんはいつもの笑顔に戻っているようでわたしは胸をなでおろした。
「おやすみなさい、真琴さん」
「うん。ゆっくり休んでね」
真琴さんはテレビを見ている。これ以上わたしは何も言わない方がいい。
それはわたしが触れていいことじゃないだろうから。
4
階段を上り、二階にある真央の部屋に向かう。
「開けていい?」
ノックして入っていいか尋ねた。
「いいよ」
真央はベットの上に座って本を読んでいた。私も用意されていた隣のベットの上に座る。
「ねえ百合」
「?」
「前ね、ママが言ってたから気になったんだけど、百合のお母さんってどんな人だったの?」
「……さぁ、覚えてない」
真央に全く悪気はないのだろうけど、その質問は今一番されたくなかった。
「うーんそういえば私って百合のお母さんの顔ってみたことないなぁ……そうだ、写真とかケータイに入ってない?」
「入ってない」
「えー本当はあるんじゃないの?」
「ない、写真なんて一枚も」
「そうなの?」
無言で頷くと、真央は気まずそうな顔をした。
「その、ごめんね」
「事実だし。別に気にしてない」
それからの真央は妙にわたしに気を使っているようで居心地が悪く感じる。
「じゃあそろそろ寝よっか、もう日付け変わっちゃうし」
相変わらず真央は寝るのが早い。だから朝も早いのだろうけど。
「じゃあ電気消すね」
スイッチを切ると白くて人工的な光が消えて、部屋全体が間接照明のぼんやりとした灯りに変わる。
「ねえ百合まだ起きてる?」
しばらくすると背中越しに真央が語りかけてきた。
「どうしてあのとき何も言わずにいなくなったのか……もしよかったら私に教えて」
何となく聞かれそうな気はしていたけれど、まさか本当に聞いてくるとは思わなかった。
「……」
「百合、お願いこっちを向いて。私、ちゃんと顔を合わせて話したいの」
「どうしたの」
短く息を吐いて真央の方に体を向ける。
「私ね、最近百合のこともっと知りたい。百合が他の誰にも話してないようなことでも知りたいって思っちゃうの」
真央はそこで言葉を切ってわたしをじっと見つめてきた。
「迷惑に思うよね。だけど、私もう聞かずにはいられない」
「……」
「……」
重い空気に部屋全体が支配される。だけど、真央に譲る気はないみたいだった。
「……どうして今更そんなこと」
自分が思っている以上に今の心境が冷たい言葉になって外に出てしまった。
「こうやって二人だけでいるときじゃないと聞けないことだから」
どう答えたらいいのだろう。こんなこと誰に言ったって仕方のないことなのに。
「小学生の転校なんて、だいたい親の事情だと思うんだけど」
「……」
真央はわたしの言葉の続きをじっと待っていた。聞きたいのはそれじゃないと、瞳の奥は雄弁に語っている。
「わたしも前日の夜、突然お母さんに言われたから」
「え……」
「電話とか家に無かったし、朝起きたらそのまま車に乗せられて、そのままになっちゃった。それだけだよ」
「そうだったんだ……」
「わたしも急だったし色々考えが及ばなかったから。今思い返せば電話ぐらい後で出来たのに……ごめん」
「ううんもういいの。ごめんね、百合の方が大変だったんだよね」
張りつめていた空気が穏やかなものになる。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
わたしはなぜか寝つけなかったのに、真央はそれからすぐ気持ちよさそうに寝息をたてていた。
目を閉じて、ゆっくりと息を吸って吐く。これを繰り返していると眠ることが出来る気がする。
海の上に浮かんでいるような浮遊感に体が包まれてゆく。このまま目が覚めなければいいと思えるほど、この感覚は心地いい。
それでも次また目を開けるときには、外は朝なのだろう。
ふと病院で聞いた言葉を思い出した。
当たり前のように思うけれど、その保証は実は誰にもない。渡っている橋がいつ崩れ落ちるのか分からないまま、それでも歩き続けなければならないのが生きるということ。
この言葉の主が今も元気でいればこんなふうに思い出すことはなかったのかもしれない。ささいな一瞬の光景が目の前で動き出す。
きっと夢なのだろう。
だって今、わたしは目を閉じているはずだから。
「はぁ……」
自覚してしまうと同時に、泡のように弾けて消えていって、徐々に視界がはっきりしてきた。
ベッドから体を起こして壁の時計を見る。ちょうど朝日が昇りそうな時間だった。
まだ寝ている真央を起こさないように部屋の外に出る。
軽く背伸びをしてから階段を降りて、顔を洗いに行く。
「あ」
顔を洗ってから歯ブラシを持ってきていないことを思い出した。真琴さんも起きているか分からないから自分の家に取りに戻ろう。
サンダルをこっそり借りて外に出る。といっても隣同士だからすぐだけれど。
歯を磨いて寝ぐせを直す。ついでに持ってきたヘアピンもつけた。
「うーん」
そろそろ髪を切りに行きたいけど、来月のことを考えるとやめておいた方がいい気もする。
「百合ちゃんおはよう」
鏡の前で考えていると、真琴さんから声をかけられた。
「おはようございます」
「そのオレンジのヘアピン似合ってるね、自分で選んだの?」
「ああ、これは友達から貰ったんです」
「へぇ」
真琴さんは瞬きをした。
「そろそろ真央、起こしてきましょうか」
「うーんそうだね、お願いします」
「分かりました」
階段を上って真央の部屋に戻る。真央はまだ寝ていた。
いつも起こされてばかりだからなんだか新鮮な気分になる。試しに頬をつついてみることにした。
「えい」
「……」
何も反応がない。
「起きて」
「は、はい!」
耳元で囁くと、真央が突然飛び起きた。
「びっくりした。心臓に悪いよ……もう、普通に起こしてよね。だいたいいつも百合は突然そういうことするんだから」
顔を真っ赤にして真央はまくしたてる。そんなに怒らなくてもいいのに。
「もう、知らない」
そう言うと真央は部屋からさっさと出ていってしまった。
「はあ……いったいわたしが何をしたって言うんだろう」
呟いて、わたしも部屋から出る。
「百合ー何してるのー」
下から呼ぶ声に返事をして、わたしは小走りで階段を降りていった。
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