第3話 短歌を詠む男

文字数 3,771文字

深夜帯を過ぎた工場の外は、星々が煌く真っ暗闇が空を覆い尽くしていて、人の気配がなく、複雑な事情を抱えた血まみれの中国人を運び出すにはうってつけの環境だった。ボスを先頭にして、闇に紛れるように、工場から三百メートルほど離れた彼らのシェア・ハウスへと、劉を運び出した。
彼らは、まず彼の身体をよく洗った。それから、劉に温かいポタージュのスープを飲ませた。ひさびさに口にする温かい飲み物に、劉は感動して、涙袋にいっぱいの涙を溜め込んでいた。暖房の効いた部屋で、温かい食事ができるということが人間にとって、これほどの幸せをもたらすものだとは、劉は今まで考えたことがなかった。言葉こそ張民にしか通じなかったが、劉の気持ちは痛いほどボスたちの心に通じていた。部屋の隅にある丸い窓の外には、青白い満月が輝いている風景がよく見える。一人寂しく冷凍食品の工場にいた時には、この月の光さえも見ることができなかったのだと思うと、劉の感慨もひとしおだった。ああ、生きていてよかった。劉は、ポタージュのスープを飲みながら、そんなことを考えていた。天国のお父さんは、わたしの無事を喜んでいてくれるだろうか、と劉は満月を眺めながら、仲間と過ごすひとときの感傷に浸っていた。「なあ、劉。元気になったか?と劉に伝えてくれ。」
「わかりました。なあ、劉。元気になったか?とボスが言ってるよ。」
「はい。おかげさまで、元気になりました。」
「劉は、なんて言ってる?」
「元気になりました、と言っています。」
張が間に入って、劉の述べている言葉を日本語に翻訳していた。
「そうか、よかったよ。なあ、劉。お前は、どんな仕事をしていたんだ?」
「どんな仕事していたんだ?とボスが言ってるよ。」
「わたしは、中国料理の店でウェイターをしていました。」
「劉は、なんて言ってる?」
「中国料理の店でウェイターをしていた、と言っています。」
「中国料理の店でウェイターか。日本に来る意味がわからないな。」
「警察には届けますか?」
劉は、自分が一番心配にしていたことを尋ねた。
「警察には届けますか?とボスに尋ねています。」
「いや、もうちょっと様子を見てからにしよう。なにか危険な匂いがするから。」
ボスは、腕組みをして考え始めた。劉の身体の傷つき方や血を流しても死ななかった強靭さが、普通の人間とは少し違う人種のような気がしたのだ。
「なあ、劉。記憶はあんのか?」
ボスは、劉に抱いていた疑問を吐き出し始めた。
「ボスが、劉に記憶はあるのか?と聞いているよ。」
「わたしに記憶はあります。」
「記憶はあります、と答えました。」
「なあ、張民。劉にこう言ってくれ。お前は俺らに隠していることがあるはずだ。洗いざらい全部話せ。」
「わかりました。でも、いいんですか?」
「なにがだ。」
「ボス、劉は、ここにいられなくなるかもしれない、ということになりませんか?」
「なるかもしれない。でも、俺たちの仲間が増えるかどうかよりも、真実が大切なんだ。」
「わかりました。では、劉に言ってみます。劉、お前は俺らに隠していることがあるのか。洗いざらい全部話してくれ。」
劉は、その問いかけを聞いて一瞬躊躇うようなそぶりを見せた。しかし、決心したように一言一言話し始めた。
「あなた方にわたしの素性を隠し通すことは、どうやら難しいみたいですね。わかりました。全て話しましょう。」
張は、グッと唾を飲み込んで、劉の瞳とボスの瞳の輝き具合を交互に確認しながら、劉の言葉を翻訳してボスに伝えた。
「ボス、劉は、全て話してくれるみたいです。」
「そうか、どんな答えが返ってきても俺は驚かないから真実を話してくれと劉に伝えろ。」
「わかりました。どんな答えが返ってきても俺は驚かない。真実を話してくれ。」
「わたしは、中国の四川省に住んでいました。実家は四川料理のお店でした。わたしの幼い頃から、父と母の二人だけで店を切り盛りしていました。ある時、父は店を存続させるために高額の借金をしました。その借金は、高額な利子をつける闇金業者から借りたものでした。その為、連日借金取りが我が家にやってきては、父と母を脅す日々が続いていました。ある日、わたしの父は、わたしと母を残して、命を断ちました。しかし、多額の利子のついた借金は父の生命保険だけでは、支払い切ることができず、母はわたしと店を残して、北京へ出稼ぎに行きました。一人っ子政策がある中国では、わたし自身のほかに頼りにできる兄弟は一人もいませんし、親戚もみなシンガポールや韓国へ出稼ぎに行ってしまったため、わたしひとりで四川省の店を切り盛りしなければならない状況に追い込まれてしまいました。わたしは、三年ほどの間、必死で働き続けました。しかし、三年が過ぎようとしていた時、貯金が底をつきました。そんな時、友達からある噂を聞きました。その噂とは、日本のヤクザに頼めば、ある条件のもとに借金がチャラになる。というものでした。わたしは、思い切ってその番号に国際電話をかけてみました。その電話の主は、一言、借金を零にしてほしいって?なら、日本に来るんだな。とだけ言っていました。わたしは、すぐに店の残りの金で日本へ行くことを決意しました。一週間後の午後二時に羽田空港に到着しました。そこでヤクザの橋本さんと会いました。橋本さんは中国語ができたので、すぐに意気投合しました。橋本さんは、わたしを車に乗せて、遠くの方へと連れて行きました。その車の中で、わたしは橋本さんからもらったお酒を飲みました。わたしは、すぐに眠くなって、車の後部座席で眠ってしまいました。そして、気がついたら極寒の工場の人にいたのです。借金がチャラになったのかどうかは全くわかりません。ただ、わたしはあなた方に助けていただいたというだけです。」
張は、劉の述べているとりとめのない話を逐一日本語に翻訳していった。ボスは、興味深そうに彼の話を聞いていた。
「橋本、橋本。知らねえなあ。誰なんだ?橋本って言う、ヤクザは?これを訳してくれ。」
「わかりました。橋本ってヤクザは誰なんだ、とボスが言っているよ。」
「橋本さんは、わたしを助けようとしてくれただけなんだ。彼の素性は、わたしは知らない。ただ、真っ黒いスーツを着たサングラスの男だということだけは覚えている。」
張は、橋本さんのことを少しも悪く言わない劉のことを少しだけ訝って、しばらくの間、どのように翻訳しようか考えてしまった。
「おい、張。考えてないで早く翻訳しろ。俺が答えるんだから。」
張は、劉の話を一言一句違わずそのまま翻訳して、ボスに聞かせた。
「おそらく橋本が借金の形見として劉を冷凍食品の工場に閉じ込めたんだろう。劉には悪いが橋本は、黒だ。」
「訳しますか?」
「ああ、頼む。これも付け加えておいてくれ。劉は今日中に警察へ渡す。俺たちが巨大な事件に巻き込まれてしまうかもしれないからな。」
「わかりました。」
張は、周りの仲間の顔色を気にしながら、一語一語、ボスの言葉を翻訳していった。
すべてを翻訳し終わると、劉はとても寂しそうな顔を見せた。
ボスは、劉を慰めるように言った。
「お前には酷かもしれないが、劉。聞いてくれ。警察に身柄を引き渡すということは、とても怖いことのように思うかもしれないが、お前のためなんだ。このままじゃお前は、日本のヤクザに殺されてしまう可能性が高い。橋本は、組織の人間だ。簡単に翻って悪者になるだろう。劉、最後にお前の詩を聞かせてくれないか。」
張は、やっとできた年下の仲間がこんな事情で、すぐに離れ離れになってしまうことに遣る瀬無さを感じていた。ボスの言葉を翻訳している最中に、ポタージュの匂いが鼻をついて、涙で声がむせかえっている自分に気がついた。
張の翻訳を聞き終えて、劉は詩を作ることだけが、自分と安息の世界を繋ぐ架け橋になることを感じ取っていた。
「わかりました。では、詩を披露して、わたしは温かいスープの思い出を作ってくれたこの家と初めてできたわたしの兄弟たちにお別れをしたいと思います。青森の 青白き月 眺めつつ 秋の夜長の 宴なるかな 劉獏顔。」
劉は日本語で短歌が詠めたのだという、感動を伴った驚きの波がシェア・ハウス全体に響き渡った。
「ありがとう、劉。これでお別れだ。」
ジョー・マドンが呼んだパトカーのサイレンの音がシェア・ハウスの外から聞こえてきた。劉は、警察官に連れられて、十人の男たちのもとから去っていった。このあと、劉が中国に帰還したことが一週間後の新聞の地方欄に掲載されていた。結局のところ、劉の中華料理店は、借金を返済することができずに閉店することになったそうだ。しかし、橋本は警察に逮捕され、その後の劉に危害が及ぶようなことは一切なかった。ボスと張たちは、冷凍食品の工場に閉じ込められた中国人を助けたことを地元の警察から表彰されて、少しだけ給料が上がることになった。禍福は糾える縄の如しという言葉は、今回の一連の出来事にこそ当てはまることなのだとボスは感慨深い面持ちで日記に書いていたようだ。災いと幸せは交互にやってくるからこそ人生は味わい深いものになるのだろう。
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