2 アリストテレス『政治学』(1)

文字数 3,500文字

さて、植村さんは「<civil society>という英語表現の初出は、古代アテネの哲学者アリストテレスの著書『政治学』からの引用だった」という[植村:P23]。また、「<civil society>という言葉は、アリストテレスの『国家共同体』の訳語として16世紀末に導入されたものであり、それを何の説明もなしに『市民社会』という日本語に置き換えることは、ほとんど誤訳」ともいう[植村:P37]
アリストテレス、名前くらいは聞いたことあります

アリストテレス(前384-322)が遺した『政治学』というのは大変有名な書でね、後世に与えた影響は計り知れないよ。

でね、その中で用いられた「国家共同体」という概念の英訳が、まずは<civil society>の初出であり、今日ぼくらがイメージするような「(国家的横暴と闘う)市民社会」とは似ても似つかぬものだった、というわけさ

国家共同体って?

単純に国家のこと?

ポリスのことだよ。

世界史で習わなかった?

あの、オレ、中卒なんで・・・・・・
わかった。簡単に解説してみよう

アリストテレスはね、そもそも人は自然的性向として共同体を求める、という。

なぜなら、人はより善く生きようとするからだ、と

つまり、集まって暮らした方が何かと都合がよいってことですか?

もちろんそれもあるよ。

ただ、本質的なことはね、そういうことじゃない

順番にいくね

まず、最も基礎的な共同体として、人は「家(家政)」をもつ、とアリストテレスはいう。

まぁ、当たり前のことだけどね。

ただ、アリストテレスの場合、ちょっと差別的なところがあって、そもそも人の自然的性向としてね、「支配者(優れた者)/被支配者(劣った者)」の区別が生じてしまうのが常であり、具体的に言うと、「男(夫)/女(妻)」「自由人/奴隷」「大人(父)/子」の優劣としてそれが顕現してね、自ずから「家(家政)」を形成していく、とする。

簡単に言い直すと、集まって暮らそうとすればさ、自然と「男/自由人/大人」が「女/奴隷/こども」を従えるような共同体が生まれてしまう、ってことさ

なるほど。確かに、ちょっと差別的な発想~

うん、現代から眺めれば当然そう映るだろう

とまぁ、それはさておき、でね、これら「家(家政)」が集まり、「村」を生む、とする。

アリストテレスは「村」について、「日々の生活のために自然にもとづいて構成された共同体」である「家(家政)」とは異なり、「複数の家からなる、日々の生活に限定されない必要のための共同体」[『政治学』:P21]だという

ン?

どういうことですか?

簡単に言うと、「家(家政)」というのは食ってくだけで手一杯だったり、目先のこと(欲求充足)だけしか考えてなかったりするんだが、家々が集まり「村」ができれば、何かと助け合うことでね、当然、少し余力がでてくるだろう?

つまり「村」の段階に至れば、それ以外のことにも手が回るってことさ

それ以外のこと?

ただ食ってくためだけに人生の全時間を注ぎ込んじゃうとするなら、それって動物と同じじゃん? ってことよ。

アリストテレスはね、そんな生き方は善いものではないし、幸福ではない、と考えている。

つまり、ただ食ってくためだけの生活から自由になればなるほど、人はより善く生きられる、ようになる、とアリストテレスは考えるわけ

さらに付言すると、「家(家政)」の中ではね、自分たちのことだけを考えてりゃいいよね。主人のワガママはすべて許されるし。自分にとって善いことだけ求めてりゃいい。

けどさぁ、「村」になると、そうはいかないだろう?

自分たちだけのこと、いわば私利私欲はいったん脇へ置いてね、みんなにとって善いことを考えないといけないし、そうでなきゃ、そもそも「村」が成立しないよね。全員がワガママだったらさ

うん、まぁ

人はより善く生きようと思えば、集まって暮らす必要がある。

なぜなら、集まって暮らすことで、ただ食ってくだけの動物的生から自由になれるから。

また、集まって暮らすことで、人は私利私欲ではない、みんなにとって善いことを求めるようになる。

ちなみに、このみんなにとって善いことをね、共通善という

ところで、より集まれば集まるほど、たとえば分業なんかが進んでさ、より自由になれる(必要労働から解放される)よね?

また、より集まれば集まるほど、みんなにとって善いことは、より普遍的なものになる、でしょ?

10人にとって善いことよりも、1000人にとって善いことの方が一般性があるんだからさ

でしょうね
そこでだ、最高度に集まり集まった共同体として、いわば終極としてね、国家=ポリスが登場するわけだよ
ちょっと、アリストテレスの言葉を引用してみようか
「複数の村からなる、言うなればあらゆる自足の要件を極限まで充たした完全な共同体が、国家(ポリス)である。それは人々が生きるために生じたものであるが、それが存在するのは人々が善く生きるためのものとしてである」[『政治学』:P22]
「われわれの見るところ、すべての国家(ポリス)はある種の共同体であり、またすべての共同体は何らかの善のために構成されている以上(なぜなら、すべての人はあらゆる事柄を善と思われることのために行うからである)、明らかにすべての共同体は何らかの善を目指しており、すべての共同体のうちでも最も有力で、その他の共同体を包括するものは、あらゆる善のうちでも最も有力な善を何にもまして目指している。これこそが、国家と呼ばれるもの、つまり国家共同体にほかならない」[『政治学』:P18]
補足しよう

人は集まれば集まるほど、動物的生から解放されて自由になれる。

かつ同時に、集まれば集まるほど、みんなにとって善いこと=共通善は普遍的なものになる。

ただし、あまりに集まりすぎても、膨らんだ風船が破裂しちゃうように、逆にね、まとまりも悪くなっちゃうからさ、適度で、かつ最高度に集まった状態がね、一番いいんだ。

それをね、アリストテレスは国家共同体(ポリス)と呼ぶ

でね、国家共同体の軸となる共通善ことを、それ以上に膨らむ共通善がないわけだからさ、最高善という

つまり、「家」は私的な善を求め、村は共通善を求め、国家共同体は最高善を求める、と?

まぁ、そんなとこだね。

でね、国家共同体の内に生きること、みんなと一緒に自由を満喫し、かつ最高善を生きることこそ、人にふさわしい、もっとも善い生き方だ、とするわけ

だからこそ、おそらくアリストテレスの言葉としては一番有名な言葉であろう、「人間は自然にもとづいてポリス的動物である」[『政治学』:23]がでてくるんだ

つまり、繰り返しになるけどさ、人は自然的性向としてね、より善く生きようとする。

でね、より善く生きようとすればさ、「家(家政)」を超えて「村」を超えて「国家共同体」をつくるようになり、みんなと一緒に最高度に自由となり、最高の善を求めて生きるようになる、というわけ。

それが、自然の本性に根差した流れだとね

う~ん、なんか国家の中に生きることこそ人間にとって自然だ、あるいは、国家の中でしか人間は幸せになれない、とか言われてるみたいで・・・・・・なんていうか、漠然と、違和感が・・・・・・
なかなか鋭いトコつくじゃない
でもまぁ、そういう議論はおいおいするとして、まずはアリストテレスの話を続けましょう~

ただ、一言だけ付け加えておくとね、アリストテレスが「人間は本性上ポリス的動物である」と言い切ったことの内にはね、「人々は互いに助け合うことを必要としないときでさえ、ともに生きることを欲するのである。たしかに、共通の利益もまた、それによって各人が立派に生きることにあずかるかぎり、人々を結びつける役割をはたす。実際、何よりもそのことが、共同体全体にとっても個人個人にとっても終極目的である。とはいえ、ただ生きることそれ自体のためにも、人々は終結して国家共同体を形成し、それを維持するのである」[『政治学』:P146]という含みがある。

つまり、損得勘定を抜きにしてね、私利私欲はもちろんとして、共通善、最高善すら抜きにしてもね、そもそも人というのは、その本性においてね、みんなと一緒に生きたい、それも、できるかぎりね、みんなと一緒により善く生きていきたい、という性向をもっているんじゃないの? ってアリストテレスは言ってるんだよ

ふ~ん、ナルホド

[参考文献・引用文献]

・植村邦彦『市民社会とは何か 基本概念の系譜』平凡社新書、2010

・『アリストテレス全集17 政治学・家政論』神崎繁・相澤康隆・瀬口昌久訳、岩波書店、2018

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きることを愛する遊牧民的活字ドランカー。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、その都度その都度関心があることだけを考えていきたい、という専門性を磨こうとしないスタンス、及び『老子』の(悪)影響があり、アカデミズムを避けた・・・・・・がゆえに一介のサラリーマンである(薄給のため独身、おそらく生涯未婚)。

朝倉恭平(30)・・・・・・ご近所の鷺ノ森市文化創造センターに契約職員として勤務。

(チャットノベル『毒男女ぉパラダイス!!』の登場人物・朝倉5年後の姿)

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