静流が自分のイライラの効果音を聴いた(気がした)のは、初冬の夕食どきだった。最近同棲を始めた相手が、こんなセリフを言ったのだ。
*赤夜
あー美味しい! 俺自分が小さい時、こんなオカンが家にいたら良かったな~!
(――オカン? 今、言うに事欠いて「オカン」っつった!?)
静流の機嫌を損ねた当人、赤夜は恋人の様子に気がつかず、美味しいおいしいとサーモンのムニエルをぱくついている。
(――なんだよオカンって! お世辞でも「お嫁さんにしたいなあ☆」とか言ってくれんのが恋人じゃねーの!?)
静流は口には出さないものの、正直無性に腹立たしい。
(うん、決めた。明日はこいつの嫌いなもんで晩メシ作ってやるからな!)
と思いながら、静流は無言で自作のムニエルを口へと運ぶ。と、自分の分を食べ終わった赤夜が、物欲しそうに静流の手もとを見つめてきた。
……って何が「あーん」だ、自分……。何だかんだと言いながらも赤夜を甘やかす自分自身も腹立たしく、静流はさし出したサーモンのひと切れをひるがえって自分の口へと押し込んだ。
「俺の」じゃねーだろ! 大体作ったのもオレだし!!
犬も食わないやりとりと暖房の暖かい空気を閉じ込めて、窓の外にしらしら初雪が舞い出した。
* * *
翌日の夜、食卓には見慣れないメニューが登場した。
おおお! なんかオレンジ色のシチューだ! なにこれ、これもサーモン入り!?
不敵に微笑う静流にスプーン片手にうながされ、赤夜はおずおずオレンジ色のクリームシチューを口にした。
思わずほっと息をついた静流が、(ほっとしてどうすんだ馬鹿)と内心で己を叱る。
いや、でもまあ美味しけりゃそれはそれで……と思ってしまう自分が腹立たしいけど、自分ながら微笑ましい。複雑な気分でオレンジ色のシチューを食べる静流を見つめ、赤夜はふいにしみじみと口を開いてこう訊いた。
……なあ、静流。怒ってたんだろ? 俺が「お前みたいなオカンがほしい」って言ったこと
今さら話を蒸し返されて、正直そのことを忘れかけていた静流はかえってあせってしまう。栗色の瞳をそらす恋人に、赤夜は淡々こう告げた。
俺な、昔……子どもの頃な、両親に育児放棄されてたの
そう。俺の母親は、本当は父親の再婚相手でさ。父親はほとんど家にも帰らず女漁り、血のつながらない母親も家を空けちゃあ酒浸り……。
だから俺はね、母親の手料理って記憶にないの。幼い頃に命をつないでいたのはさ、賞味期限が切れた袋パンとか、ご飯が糸を引く古いコンビニ弁当だったの
静流の手はとうの昔に止まっている。宙に浮いた行き場を失くしたスプーンから、オレンジ色のシチューが涙のように垂れ落ちる。赤夜はしみじみ自分のスプーンを口に含んで、幸せそうに吐息をついて、こう続けた。
あの時は、「美味しい」なんて感覚求めてらんなかった。嫌いなもんも残さず食べた。だってそうしなきゃ、生き延びていられなかったもんな。……で、なんだかんだで成長した俺は、「食いもんはエサと同じだ」と思って生きてきたんだよ。そんな俺に……
言いかけた赤夜は、静流の目の涙を指さきでそっと拭ってやった。
何も知らなかった。静流は何も知らされていなかった。そんな過去が恋人の明るい笑顔の奥にあったと、今初めて知ったのだ。
……そんな俺に、お前は『美味しい』を初めて教えてくれたんだ。
「美味しい」に「幸せ」がだぶって聴こえて、静流はたまらず目をつぶる。つぶったままで声を殺して細い肩を震わせた。
いいよ。俺こそもっと素直に言うべきだった。『お前みたいなお嫁さんがほしい』って
赤夜の言葉に、肩の震えが大きくなる。よけいに泣き出した恋人は、やがてくっくっ笑い出した。
……ごめん、そんでマジごめん……そのシチュー、お前の嫌いなニンジン入り!
んげぇえ!? マジで!? このオレンジ色ニンジンの!!?
やられたなー……とひたいに手を当てて天井を仰いだ恋人は、にっと嬉しそうに笑った。
じゃあさ、静流。明日っから俺の嫌いなもんばっかり入れて料理作って。そんで俺に「美味しい」って言わしてよ!
……うぇえ!? ちょっ待って、それはマジで荷が重いー!
がんばれ、静流! 俺のオカンに……じゃない、良いお嫁さんになるために!!
甘く圧をかけられて、静流は「荷が重い」と連呼しながら、大きなやりがいも感じていた。
スーパーで野菜を選ぶとき「お子様も大丈夫! 甘~いニンジン!」を選んで買ったり、ネットでレシピを選ぶときも、「ニンジンが苦手な子どももこれなら食べてくれます」というコメントを重視したり……。
実を言えば最初の方から、目的は「腹いせ」ではなくなっていたのだ。
(――そっか。肩書きなんて重要じゃないよな。オレはこれから「オカンみたいなこいつの嫁さん」を目指せば良いんだ)
すっとした頭で改めて口に運んだクリームシチューは、たまらなく優しい味がした。窓の外に真白く積もる雪さえも、あたたかに見えた夜だった。(了)
(追記)
試しに作ってみましたが、ニンジンのすりおろしを入れたシチュー、美味しいです。ふつうのと味は一緒ですが、色は綺麗なオレンジ色。
市販のルー(と言って良いのか……? 顆粒タイプのやつ)使って作りました。最初の具材炒める時に、適当なタイミングでニンジンのすりおろし適量入れるだけ(5皿分でニンジンは「一本の半分」入りました)
ネットのレシピコメント「ニンジンが苦手な子どもでも~」という言葉に納得。よろしければお試しを!