第1話

文字数 2,010文字

 未だに自分の中で、スッキリしないことがある。
 これは私が小学生の時にあった、不思議な体験の一つである。
 
 今みたいに古本専門のチェーン店なんてなかった頃の話だ。
 夏休み中に、近所の古本屋で実話怪談集の本を買った。
 著名な心霊研究家の名前を冠した本だった。昔の古本屋では貴重なくらいの美麗本で、当時まだ小学生だった私は安価で綺麗な本が手に入った幸運を素直に喜んだ。

 古本屋から家までは自転車で20分ほどの距離。
 本が入った紙袋を籠に入れ、意気揚々と帰路につく途中のこと。
 唐突に、自転車で転んでしまった。
「いってぇぇ……」
 舗装こそされているが、人も車も少ない、昔からの住宅街。膝の痛みにしばらく動けなくなっていたが、何とか立ち上がるまでに他の車両に轢かれるような災難にはあわずに済んだ。
 一息ついた後、ようやく立ち上がった私は、自転車を立て直す。
 良かった、籠の中の本は無事だ。
 一体、何につまずいたのだろうか。八つ当たり気味に周囲を見回すが、特に何もなかった。
(おかしいな……)
 何かにあたって、ハンドルをぐいと右に向けられた気がしたのに。

 古本屋がある商店街から家までの道は、ゆるい上り坂が続いているのだが、何度も何度も往復してきた道だ。 今更、ハンドルを取られるようなことはないはずだが。
 釈然としないまま、とりあえず自転車と痛む足を引きずりながら、帰路についた。



 内容は、期待以上のものだった。
 あまり聞いたことのない話が多く収録されていて、しかもどれも怖い。
 特に、一番最後に収録されている一話の怖さは収録されている中でも群を抜いていて、さすがに怪談を読み慣れている子供でもぞっとするようなものだった。

 明確な内容については、あえて記載を控える。
 ただ、大枠を説明するならば、演劇にまつわるお話だ。曰くつきの演目があって、その劇に関わった人間が次々と不幸に見舞われる。そういう内容の話だった。
 あらかた読み終えた後、本棚の空いた箇所に本を収める。
 その後、宿題をやったり、一階に降りてテレビを見たりしている内に、すっかりとこの本のことは忘れてしまっていた。

 だが寝る前、部屋に入った私は否応なく、このことを思い出すことになった。

 本が、床に落ちている。
(あれ?)
 確か本棚にしまったはずなのに、どうして床に落ちているのだろう。
「しまい忘れたかな……」
 深く考えず、私はもう一度本をしまい、明かりを消した。
 そのまま布団について、眠りに入ろうとしたちょうどその時。
 がたん、と音がした。
 明かりをつけて見ると、また床に本が落ちている。
 目を凝らし、思わず硬直した。

 あの本だ。

 とっさに部屋を飛び出し、階下の居間へと急ぐ。
 両親は既に寝てしまっていて、居間も真っ暗だ。あわてて電気をつけ、TVもつけてしまう。
 明るい深夜帯のトーク番組のノリにほっとしながら、私はソファに身体を落ち着いた。
 そして、冷静に今のことを考え直してみる。
 あれは何だったのだろうか。
 もちろん、空きの多い本棚の一角に立てかけてある本だ。そもそもこの家自体が古くて、ちょっとした嵐でも揺れるような安普請。何かのはずみで本棚が揺れ、不安定だった本が落ちても不思議ではない。
(二回も……?)
 そんなことは今までなかった。そう結論付ける自分を、あわててもう一人の自分が打ち消す。
 本がひとりでに動く、なんてことよりは現実的だろう。それこそ、今までなかったことだ。
 そう納得させたものの、それでも自室に戻る気にはなれず、私はTVを流し見ながら、居間で時間を潰していた。

 トーク番組も終わり、古い映画が入るような時間帯に突入したのを見計らい、私はTVを消した。
 それでも部屋に戻るのは抵抗があり、電気をつけたまま、ソファーにごろりと横になってうとうとする。
 どん、と音がした。
 あわてて飛び起きる。
(何、だ)
 反射的に音の方、窓を見てしまう。一階は雨戸が閉まっており、窓から外の様子を伺うことはできない。
 どん、と、もう一度音がした。びくりと心臓が跳ね上がる。
 間違いない。窓の外から音がしている。
 雨戸を、何かが叩いている。
 声もなく、叩く以外の一切の音を立てることなく、ただ雨戸を叩いている。
 身体が動かなかった。玄関から外に出て様子を伺うのも、誰かを起こしにいくことも出来なかった。
 何とか動いた手で、TVを再度つける。
 静かな空間に、吹き替えさえされていない、外国の言葉が流れ出した。
 途端、叩く音は止んだ。

 その後、私は延々と洋画や通販番組、早朝の健康番組などを転々とつけながら家の人間が起き出してくるまで、TVの音をつけ続けた。
 消せば、また同じことが起こるような気がして、恐ろしかった。

 翌朝、店が開く時間まで待って、違う古本屋にその本を売り飛ばした。
 捨てるまで家に置いておくのも嫌だった。

 その日の晩は、もう何も起こらなかった。
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