第二章③

エピソード文字数 2,394文字

「さあて、と……」
 で、俄然やる気を出したデイヴィッド警部。急ぎそのメモ書きに目を走らせた。
 気を取り直して、ニコルも横からメモをのぞき込もうと背を伸ばした。
 と、その瞬間──、
「なぁにぃ!?」
 デイヴィッド警部の怒号にも似た叫び声が、あたり一面に響き渡った。
「ど、どうしたんですか?」
 ニコルはジンジン痛む耳を押さえながら、驚愕の表情を浮かべるデイヴィッド警部に向かって訊ね聞いた。
「どうしたもこうしたも、あるか!」
 言って、デイヴィッド警部がメモ書きを突き出す。
 それを受け取って、ニコルもその走り書きに目を移した。そして、すぐさま同じように驚きの声を上げていた。
「ええっ!?」
 なぜなら、そこにはこう書き記されていたから。
『被害者の名前はメアリー・リトル。年齢二十一歳で、職業はメイド。死因は頚動脈の切断による失血死。腹部は死後ずたずたに割かれており、内臓には一部露出が見られるものの、すべて揃っている模様。おそらく犯人は内臓の一部を持ち去ろうとするも、人目に触れそうになり、その前に逃亡したものと思われる』
「今度の被害者は売春婦じゃないですよ!」
 問題の箇所を指差しながら、ニコルはメモ書きをデイヴィッド警部に向けた。
 デイヴィッド警部がその箇所を、ちらっと一瞥。だが、すぐさま顔を背け、苛立った様子で呟いた。
「だから俺は言ったんだよ! 犯人は切り裂きジャックなんかじゃねぇって!」
 その視線の先には、いまだ議論を交わすお偉いさんたちの姿があった。
 議論の内容までは聞き取れないが、推して知るべし、である。
 おそらくはここにきて、切り裂きジャック再犯説に異を唱える者がスコットランドヤード上層部にも出始め、混乱をきたしているのだろう。もしかしたら喧々囂々と責任のなすり合いでもしているのかもしれない。
 いずれにせよ、この現場を包んでいた浮き足立った雰囲気が、ニコルにはなんとなく理解できた気がした。
 上層部の分裂。今後の捜査においては致命的ともなりかねない事態である。
 これからのことを考えれば、もっと柔軟に対応すべきなのだが、それができない者がいるのだろう。もっとも、これまでの捜査線の経緯を考えれば、いまだに誰が切り裂きジャック再犯説に固執しているかは、火を見るより明らかだった。
 その人物のことを、デイヴィッド警部もさっきから、ジーッと睨みつけている。
 そう。デイヴィッド警部の直属の上官にあたる、スティーヴ警視である。
 と、その視線に気づいたのか、当の本人もこちらを向いた。そして、怒りにみるみる顔を赤らめ、ずかずかとこちらにやってきたではないか。
「ここでいったいなにをしとるんだね?」
 デイヴィッド警部の目の前で足を止め、スティーヴ警視は威圧の篭もった声で言い放った。
「べつになにもしてませんぜ」
 デイヴィッド警部も負けじと慇懃無礼に返した。
「我々の邪魔をしないという約束だったのではないかね」
「だから邪魔しないように、こっそりとしてるでしょうが」
 先ほどのデイヴィッド警部の行動がこっそりとだったかはさて置いて、たしかに邪魔になるようなことはしていない。少なくともあからさまに足を引っ張ってはいないはずである。
 正論ゆえか反論できないスティーヴ警視は、そのまま押し黙ってしまった。
 すると、止せばいいのに、そこへ追い討ちをかけるデイヴィッド警部の姿があった。
「で、俺が言ったとおりだったでしょ」
 これには堪らず、スティーヴ警視のこめかみが、ピクリと反応する。
「なにが、だね?」
「だから、切り裂きジャックは犯人じゃないと、あれほど言ったんですよ」
「まだそうと決まった訳ではない」
「しかし、現に今回の被害者は売春婦じゃないでしょ。これでもまだ切り裂きジャックが犯人だって言うんですかい?」
「そうだ」
 怒りを必死に抑えているのだろう。スティーヴ警視のこめかみには、くっきりと青い筋が浮き出ていた。
 これ以上の追い討ちは危険、と誰の目にも明らか。
 しかし、デイヴィッド警部の辛辣な物言いは、それでもなお留まることを知らなかった。
「あんたが下らん面子にこだわるから、被害が拡大してるんだよ!」
「下らん面子……?」
「そうだよ。被害をこれ以上出さないためにも、さっさと警戒網を広げるんだ!」
「黙りたまえ……」
「いいや、黙らんね。あんたが考えを改めるまでは、何度でも言ってやるさ! この分からず屋めっ!」
 プチンッ!
 その瞬間、スティーヴ警視の堪忍袋の緒が切れたようだった。
「これ以上議論の余地はない! 下がりたまえっ!」
 なんせこれまで聞いたことのないほどの怒声で、デイヴィッド警部に捲くし立てたのだから、その怒りや如何ばかりか。
 なのにさすがは空気を読まないことしきりのデイヴィッド警部である。ずずいっと身を乗り出し、
「なんだとぅっ!!」
 あろうことか、スティーヴ警視の胸倉に手をかけたではないか。
 しかし、ぶち切れたスティーヴ警視も負けてはいなかった。
「これは上官命令である!」
 毅然と、それを一喝。
「うぅっ!」
 さすがにこの鶴の一声には、デイヴィッド警部も怯まざるを得なかったらしく、堪らず一歩後退までしていた。
 ただし、すんでのところで助け舟が出たので、それ以上猛火が広がることだけはなんとか避けられた。
 なぜならこれ以上議論が拡大しては厄介なことになりかねないと、
「ままま。ご両人とも抑えて抑えて。天下の往来でケンカなんてみっともないですよ」
 ニコルが敢然と二人の間に割って入ったからだった。
 ただし、引き離したぐらいでは、熱も治まりきらなかったのだろう。デイヴィッド警部の荒い鼻息がその後もしばらく続いていたのは、少々ご愛嬌だった。

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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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