Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=2,394文字

「さあて、と……」
 で、俄然やる気を出したデイヴィッド警部。急ぎそのメモ書きに目を走らせた。
 気を取り直して、ニコルも横からメモをのぞき込もうと背を伸ばした。
 と、その瞬間──、
「なぁにぃ!?」
 デイヴィッド警部の怒号にも似た叫び声が、あたり一面に響き渡った。
「ど、どうしたんですか?」
 ニコルはジンジン痛む耳を押さえながら、驚愕の表情を浮かべるデイヴィッド警部に向かって訊ね聞いた。
「どうしたもこうしたも、あるか!」
 言って、デイヴィッド警部がメモ書きを突き出す。
 それを受け取って、ニコルもその走り書きに目を移した。そして、すぐさま同じように驚きの声を上げていた。
「ええっ!?」
 なぜなら、そこにはこう書き記されていたから。
『被害者の名前はメアリー・リトル。年齢二十一歳で、職業はメイド。死因は頚動脈の切断による失血死。腹部は死後ずたずたに割かれており、内臓には一部露出が見られるものの、すべて揃っている模様。おそらく犯人は内臓の一部を持ち去ろうとするも、人目に触れそうになり、その前に逃亡したものと思われる』
「今度の被害者は売春婦じゃないですよ!」
 問題の箇所を指差しながら、ニコルはメモ書きをデイヴィッド警部に向けた。
 デイヴィッド警部がその箇所を、ちらっと一瞥。だが、すぐさま顔を背け、苛立った様子で呟いた。
「だから俺は言ったんだよ! 犯人は切り裂きジャックなんかじゃねぇって!」
 その視線の先には、いまだ議論を交わすお偉いさんたちの姿があった。
 議論の内容までは聞き取れないが、推して知るべし、である。
 おそらくはここにきて、切り裂きジャック再犯説に異を唱える者がスコットランドヤード上層部にも出始め、混乱をきたしているのだろう。もしかしたら喧々囂々と責任のなすり合いでもしているのかもしれない。
 いずれにせよ、この現場を包んでいた浮き足立った雰囲気が、ニコルにはなんとなく理解できた気がした。
 上層部の分裂。今後の捜査においては致命的ともなりかねない事態である。
 これからのことを考えれば、もっと柔軟に対応すべきなのだが、それができない者がいるのだろう。もっとも、これまでの捜査線の経緯を考えれば、いまだに誰が切り裂きジャック再犯説に固執しているかは、火を見るより明らかだった。
 その人物のことを、デイヴィッド警部もさっきから、ジーッと睨みつけている。
 そう。デイヴィッド警部の直属の上官にあたる、スティーヴ警視である。
 と、その視線に気づいたのか、当の本人もこちらを向いた。そして、怒りにみるみる顔を赤らめ、ずかずかとこちらにやってきたではないか。
「ここでいったいなにをしとるんだね?」
 デイヴィッド警部の目の前で足を止め、スティーヴ警視は威圧の篭もった声で言い放った。
「べつになにもしてませんぜ」
 デイヴィッド警部も負けじと慇懃無礼に返した。
「我々の邪魔をしないという約束だったのではないかね」
「だから邪魔しないように、こっそりとしてるでしょうが」
 先ほどのデイヴィッド警部の行動がこっそりとだったかはさて置いて、たしかに邪魔になるようなことはしていない。少なくともあからさまに足を引っ張ってはいないはずである。
 正論ゆえか反論できないスティーヴ警視は、そのまま押し黙ってしまった。
 すると、止せばいいのに、そこへ追い討ちをかけるデイヴィッド警部の姿があった。
「で、俺が言ったとおりだったでしょ」
 これには堪らず、スティーヴ警視のこめかみが、ピクリと反応する。
「なにが、だね?」
「だから、切り裂きジャックは犯人じゃないと、あれほど言ったんですよ」
「まだそうと決まった訳ではない」
「しかし、現に今回の被害者は売春婦じゃないでしょ。これでもまだ切り裂きジャックが犯人だって言うんですかい?」
「そうだ」
 怒りを必死に抑えているのだろう。スティーヴ警視のこめかみには、くっきりと青い筋が浮き出ていた。
 これ以上の追い討ちは危険、と誰の目にも明らか。
 しかし、デイヴィッド警部の辛辣な物言いは、それでもなお留まることを知らなかった。
「あんたが下らん面子にこだわるから、被害が拡大してるんだよ!」
「下らん面子……?」
「そうだよ。被害をこれ以上出さないためにも、さっさと警戒網を広げるんだ!」
「黙りたまえ……」
「いいや、黙らんね。あんたが考えを改めるまでは、何度でも言ってやるさ! この分からず屋めっ!」
 プチンッ!
 その瞬間、スティーヴ警視の堪忍袋の緒が切れたようだった。
「これ以上議論の余地はない! 下がりたまえっ!」
 なんせこれまで聞いたことのないほどの怒声で、デイヴィッド警部に捲くし立てたのだから、その怒りや如何ばかりか。
 なのにさすがは空気を読まないことしきりのデイヴィッド警部である。ずずいっと身を乗り出し、
「なんだとぅっ!!」
 あろうことか、スティーヴ警視の胸倉に手をかけたではないか。
 しかし、ぶち切れたスティーヴ警視も負けてはいなかった。
「これは上官命令である!」
 毅然と、それを一喝。
「うぅっ!」
 さすがにこの鶴の一声には、デイヴィッド警部も怯まざるを得なかったらしく、堪らず一歩後退までしていた。
 ただし、すんでのところで助け舟が出たので、それ以上猛火が広がることだけはなんとか避けられた。
 なぜならこれ以上議論が拡大しては厄介なことになりかねないと、
「ままま。ご両人とも抑えて抑えて。天下の往来でケンカなんてみっともないですよ」
 ニコルが敢然と二人の間に割って入ったからだった。
 ただし、引き離したぐらいでは、熱も治まりきらなかったのだろう。デイヴィッド警部の荒い鼻息がその後もしばらく続いていたのは、少々ご愛嬌だった。

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