濃い霧

エピソード文字数 1,946文字

「やっと夜明けになったわね」

 この日は、メイン州の東部全域が未曾有の濃い霧につつまれた。薄明かりのなか、車の助手席に(もた)れたまま、若い女はしょぼしょぼになった(まぶた)を手でこすった。

「しっ! こ、声をだすな。や、奴らに、き、気づかれるぞ」

 運転席の窓から、じっと外の様子をみつづけていた男は、あわてふためいて、どもりながら口をきいた。

 濃い霧が、信号機の鮮やかなうす緑を映しながら、しすかに流れ去っていた。そして、ほんの瞬間、霧がわずかに薄れる時、少し離れたところに倒れている近所の知り合いの死体が、にじんだようにあらわれる。しかし、たちまち押しよせてくる霧のために、車内は揺れながら(かす)んでしまうのだ。

「さっき、ゴオォーって、ものすごい音をきいたような気がしたわ――あれはいったい、なにかしら?」

 彼女は目をぱちくりしながら、男を無視するようにつぶやいた。男は少しでも、彼女との会話を避けようと、こう答えた。

「あ、あれは、た、たぶん、ば、馬鹿でかい、ガ、ガスバーナーみたいなものさ。や、奴らは、あ、あれで、こ、こらじゅう焼き払うつもりだ――た、たのむから、し、静かに、し、してくれ」
「あたし、なんとしてでも助かりたい――こんなところで死ぬなんて、まっぴらごめんだわ」

 彼女はうつろな目つきのまま言った。

「き、きっと、だ、誰かが、た、助けにくるよ。ほ、炎の軍隊が、お、応援に駆けつけて、あ、あの巨大な、ば、化け物たちを、い、一気に、た、退治してくれるさ。ね、そ、そうだろう?」

 巨大な化け物たちが町にあらわれて、男と彼女の家をめちゃくちゃに破壊したのだ。この霧に包まれた町の地面が、とつぜん大爆発を起こし、多くの市民のうち、生き残ったのは、この二人だけだった。

 彼女は若くて美しい銀行員だった。これに反して、男の方は、日雇いのアルバイトをしていた。からだじゅう泥まみれなる、肉体労働者だった。ずっと独身でいて、いままでなにをやっても、ぱっと芽が出なかった。そこで、残りの人生を、生まれ育った故郷をあとにして、都会の町でひともうけすることに賭け、出かけて行く途中での出来事だった。

「おなかがすいた」と、彼女は眉間にしわを寄せため息をもらした。
「こ、これを食べなよ」

 男は彼女に食べ物を手渡した。

「わあ、日本の冬みかんだ」喜んだ彼女はまるで少女のようだった。「これ、どこで手に入れたの?」

「い、命からがら避難したときに、お、お隣さんの家から、ちょ、ちょいと、く、くすねたのさ」
「ふーん――でも、おいしい」彼女はくすっと笑った。

 日本の冬みかんを食べ終えた彼女は、失礼かも知れないけれど――勇気をふりしぼって男に質問した。

「あなた、さっきからどうして、どもってばかりいるの?」
「そ、それは――」
 
 つぎの瞬間だった。

 ドシンッ――!
 化け物たちの足音。
 二人はびっくりして鼓動が高鳴った。
 恐怖に身を震わせながら、耳をすませた。

「おーい、隠れても無駄だぞ」
「ちげえねぇ」
「ぎーひっひっひっ」
「つーか、残り二匹は、この車のなかにいるんじゃね?」

 四人の声。
 巨大な化け物たちは車をとり囲んだ。
 濃い霧が霞んでゆく。
 車の窓から長い脚がみえた。

「ひと思いに、踏み潰してやる」

 その声に向かって、誰かが叫んだ。

「そうはさせんぞ!」

 七人の人影が、霧のなかからしだいにはっきりさせて現れてきた。いずれも、若々しいイケメンの隊員だった。

「かかれ!」隊長の号令とともに、彼らは巨大な化け物たちにとびかかった。隊員たちは情け容赦なく手首に噛みついた。

 がぶりっ!
 バタンッ――!
 化け物たちは地面にぶっ倒れた。
 即死だった。

 この闘いを車の窓から見守っていた、彼女が手を振って叫んだ。

「ありがとう! 炎の軍隊さぁ~ん」
「礼にはお呼びません――レッド・チーム行くぞ!」

 炎の軍隊は、嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった。

「あはっ、これで、わたしたち助かったのよ」

 彼女は安堵の涙をぬぐった。

「そ、そうか……」男は横になったままものうげな表情を浮かべながら言った。「そ、それは……よ、よかった……」

「きゃあああぁぁぁ!」彼女は悲鳴をあげた。

 男の腹から大量の血が滴りおちていた。
 だが、男は満足感に顔をほころばせた。

「し、死ぬ前に……き、きみを……助けることができた……」

 男はしずかに目を閉じた。
 巨大な化け物の正体は、人間だった。
 そして、車のなかにいた男と彼女と炎の軍隊の正体は――蟻だったのだ。
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