『でぃすいず・ディスコミュニケーション』

文字数 2,476文字

まだら牛と呼ばれる街。


そこでツァラトゥストラは群衆に向かい、超人について解説していた。


しかし、群衆は、彼の解説を、てっきりこれから始まる綱渡り曲芸の前説(マエセツ)だと勘違いして聞いていたのだ。


ツァラトゥストラはかくのごとく語りき……。

──「ほら、超人のことを教えてあげよう。超人とは、この稲妻のことだ。超人とは、この狂気のことだ!」──


 ツァラトゥストラがこう言ったとき、群衆のひとりがこう叫んだ。「綱渡りの話は、もう十分だ。こんどは実際に見せてくれ!」。群衆がそろってツァラトゥストラを笑った。綱渡り師は、自分が催促されたのだと思い、綱渡りをはじめた。

前説(マエセツ)ってギョーカイ用語ですよね。ステージの前にADさんとかがやるやつ」
「なんでそんなことを知ってるんだ君は?」
「アイカツで勉強しました!」
「そ、そうだったか」

「それより、『まだら牛』が気になります。なんでこんな名前なんでしょう?」


『まだら牛』。ドイツ語だとMottle Vieh(モートルヴィー)か。なにか意味があるのか、この段階ではわからないな」
「モーとルビー? ですかぁ? まだらじゃなくてルビー色した牛さんだったらファンタジックかも?」

「いや、牛のほうがViehで……、っと言うか……、紅玉(ルビー)色の牛だなんて、冷静に考えるとけっこう怖いぞそれは」


「そ、そっか、そうかもですね……」


「単なる地名。なのかしらねぇ? ほら、ほかの国の言葉で聞くと変な地名とかってありますでしょ?」


「静岡県をサイレントヒルと読んだりするあれか」
「急に格好よくなっちゃいますねそれ」

「その逆パターンでドイツ語だと普通の地名なのかもしれないな。ま、今のところは『そういう地名』ということにしておこう。それより何より注目なのは、いままで長々と超人について説明していたことをさっぱり群衆は理解していないってことだ」


「群衆は綱渡りの話だと思っていたわけですもんね」
「ディスコミュニケーション!」

「高度な自虐ギャグですわよね。100年以上も前にこれをやっているなんて、さすがツァラちゃんですわ」


「当時このエンターテイメント性はなかなか理解されなかっただろうなあ。実際、ニーチェ自身も『自分の思想が受け入れられるには少なくとも200年の歳月が必要だ』なんて言い残していたそうだぞ。

 群衆に理解されないと自覚していたわけだ。


 ふふっ、つまりこれは自虐的自覚ギャグか。ふふふ、おもしろいな」

「え? そうですか?」
「……。」
「えーと、早口言葉だよ早口言葉。うん」
また地下室の気温がすこし下がった気がする栞理だった。
「……。また、隙間風でも入ったかな、ちょっと肌寒くないか?」

「……?

 えっと……。そうだ。200年ですか、ツァラさんってそうとう早生まれだったんですねえ」


「早生まれってレベルじゃないだろうそれは……」
「でも、100年後の女子高校生にこうやって読まれているわけですわ」
(なぜ、ひとみ君のギャグは受け入れられるんだ? 僕も100年単位で早すぎるのだろうか……?)
「ともあれ、どこまで正しく読めているかはわからんがな。すくなくとも、ここに書かれている群衆のように何も理解しないで笑っているわけではない、と思いたいところだ」
「それで、この群衆さんとツァラちゃんのディスコミュニケーションっぷりは、まだまだ続くのですわよね」
「そう、綱渡り師が渡り始めても、お構いなしにツァラトゥストラは語り続けている。これは今やったら営業妨害で訴えられるかもしれないなあ」

 ツァラトゥストラは群衆を見て、怪訝に思った。それから、こう語った。

 人間は綱だ、動物と超人とのあいだに掛け渡された──深淵の上に掛かる、一本の綱だ。

 彼方に渡ろうとするのもあやうい。中途にとどまるのもあやうい。振り返るのもあやうい。震えて立ちすくむのもあやうい。

 人間の偉大さは、人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ。

 わたしは愛する。没落する者としてしか生きることができない者たちを。それは、彼方へ向かおうとする者たちだからだ。

「ここでやめておけば、けっこう綱渡りの説明っぽいのだがな」
「ここからしばらく、ツァラちゃんがどれだけ人間を愛しているかの説明がつづきますのね」
「私数えてみました! この後、18個も『わたしは愛する』って出てきますよ~♡」
「くどい事この上ないけれども、これがツァラトゥストラなのだろうな」
「えーと、くどいと言えば……、そうだ、栞理先輩!」
「なんだ?」
「ツァラトゥストラって言いにくくありません?」
「そうかな? べつにゾロアスターと言ってもいいんだが……」
(注)ツァラトゥストラは、ゾロアスター教の神『ゾロアスター』のドイツ語読みである。もっとも、ニーチェはゾロアスター教の神としてツァラトゥストラを描いたのではなく、単にキリスト教に馴染みのない異質な名前としてツァラトゥストラという『響き』を使っただけといわれている。

「いえ、そうではなくって、私は『ツァラさん』って言ってて、早乙女先輩は『ツァラちゃん』って言ってるじゃないですか。

 やっぱりあだ名決めましょうよ~」

「そうですわね。でも、あだ名と言いますか、敬称ですわね」

「うーん、ツァラトゥストラ、ではダメか?

 そうだなあ、『さん』も『ちゃん』も僕の手塚訳にはあまりなじまないのだが……」

「じゃあ殿(どの)で!」
「どのっ!?」
「うふふ、いいじゃない、それにしましょう」
「けってーい! 栞理先輩のツァラちゃんはツァラ殿で!」
「って、おい、勝手に決めるのか?」

「だって先輩ったら特に案ないんでしょう? いいじゃないですかー。かわいいですよー、ツァラ殿♪」


「う、うーん」
「可愛いは正義、なんですよね?」
「そうでーす!♡」
このまま、栞理のペアブックである手塚訳の名称にツァラ殿が定着してしまうのだろうか……?

みっともないところを見せてしまってから妙に立場が弱くなっている気がする栞理であった。


〈つづく〉

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

敬聖学園図書委員。菅原《すがわら》ひとみ です!

明るく元気な一年生! たまに騒ぎすぎて先生に叱られてます。

うちの学園の図書室ってすごい大きいんです。礼拝堂の裏にある4階建ての建物が丸々「図書館」なんですよ。すごいよね。地下室もあるって噂もあったりして。

小早川栞理《こばやかわ・しおり》と申します。

何やら図書室の主だとか超能力者だとか名探偵の生まれ変わりだとか……。

色々と噂されているようですね。その上、二重人格だとか……。

ーーー

ふん、この切り替えは意図してやっていることだ。他人にどうこういわれる筋合いはないな。


(親しい人の前では男っぽくなります。その理由は本編をどうぞ)

早乙女《さおとめ》れいか です。

自他共に認める栞理の大親友。栞理のいるところれいかあり。

栞理の頭脳と我が家の財力があれば、大抵のことはなんとかなりますのよ。


押忍! ワガハイが新聞部部長、柏野《かしの》ようこである! 


嘘である!

にゃはは。本当は図書委員でーす。壁新聞担当! でも、学園イチの情報通とは私のことよん!

噂話から真実の報道までなんでもリサーチ! 情報はおまかせっ!

『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫、佐々木 中 訳

2015年8月10日初版発行

菅原ひとみが選んだ最もあたらしい翻訳のツァラトゥストラ。

雰囲気的に「さん」付けで、愛称は『ツァラさん』


※作中の引用は2015年8月10日初版による。


『ツァラトゥストラ』(上・下) 光文社古典新訳文庫、丘沢 静也 訳

2010年11月20日初版発行

早乙女れいかのペアブック。現代風に再翻訳された読みやすさに定評のあるツァラトゥストラ。

愛称は『ツァラちゃん』


※作中の引用は2010年11月20日初版第1刷による。


『ツァラトゥストラ』中公文庫、手塚 富雄 訳

昭和四八年六月一〇日初版発行

小早川栞理が見出した、なかなかハードめの翻訳。硬質な日本語に浸りたい向きにはおすすめ。

無理やり決められた愛称は『ツァラ殿』


※作中の引用は第八版による。


栞理幼女バージョン (NEW!)

栞理 兄(NEW!)

ナレーター役の四天王その壱(シルエット)

なんと! ファンアートですって!

先輩方をGoogle+の黒にゃんこ  naduki ari さん が書いてくださいました! ワーイ(∩´∀`)∩☆

表紙ッ!

本作のキャラクターデザインおよびイラスト(の大半)は著者の敬愛する「しんいち」師匠の手によるものです。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色