『でぃすいず・ディスコミュニケーション』
文字数 2,476文字
まだら牛と呼ばれる街。
そこでツァラトゥストラは群衆に向かい、超人について解説していた。
しかし、群衆は、彼の解説を、てっきりこれから始まる綱渡り曲芸の
ツァラトゥストラはかくのごとく語りき……。
──「ほら、超人のことを教えてあげよう。超人とは、この稲妻のことだ。超人とは、この狂気のことだ!」──
ツァラトゥストラがこう言ったとき、群衆のひとりがこう叫んだ。「綱渡りの話は、もう十分だ。こんどは実際に見せてくれ!」。群衆がそろってツァラトゥストラを笑った。綱渡り師は、自分が催促されたのだと思い、綱渡りをはじめた。
「その逆パターンでドイツ語だと普通の地名なのかもしれないな。ま、今のところは『そういう地名』ということにしておこう。それより何より注目なのは、いままで長々と超人について説明していたことをさっぱり群衆は理解していないってことだ」
「当時このエンターテイメント性はなかなか理解されなかっただろうなあ。実際、ニーチェ自身も『自分の思想が受け入れられるには少なくとも200年の歳月が必要だ』なんて言い残していたそうだぞ。
群衆に理解されないと自覚していたわけだ。
ふふっ、つまりこれは自虐的自覚ギャグか。ふふふ、おもしろいな」
ツァラトゥストラは群衆を見て、怪訝に思った。それから、こう語った。
人間は綱だ、動物と超人とのあいだに掛け渡された──深淵の上に掛かる、一本の綱だ。
彼方に渡ろうとするのもあやうい。中途にとどまるのもあやうい。振り返るのもあやうい。震えて立ちすくむのもあやうい。
人間の偉大さは、人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ。
わたしは愛する。没落する者としてしか生きることができない者たちを。それは、彼方へ向かおうとする者たちだからだ。
みっともないところを見せてしまってから妙に立場が弱くなっている気がする栞理であった。
〈つづく〉