第51話 アメリカとインドへの野望
文字数 1,847文字
おりしも、スペインが、パルマ侯領と引き換えに、ルイジアナとニューオーリンズ岬を、フランスに割譲した。
(過去へ遡る)
1791年8月、白人入植者に対し、アフリカ奴隷が蜂起した。奴隷には、サン・ドミンゴのスペイン人将校が、白人入植者には、イギリスが後押しし、内乱が始まった。
これに対し、フランス共和国の代表委員は、ハイチの実質的自由と奴隷制廃止を宣言、1794年2月4日のパリでの公会において、フランス全体に適用された。
1801年、初旬、トゥーサン=ルヴェルチュール(上の画像)は、奴隷を解放し憲法を起草、実質的に独立を果たした。
これに対し、ナポレオンは、義弟のルクレールを派遣する。
*ナポレオンの妹、ポーリーヌの夫。9話「イタリア遠征」参照
トゥーサンは、投降すれば独立を認めるという嘘に騙され、フランス本土へ送られ、1803年に獄死。
蜂起の指導者を捕獲することに成功したが、ルクレールも、1802年11月2日、黄熱病の為、死去した。
サン・ドミングでは、トゥーサンに対する卑怯な捕縛や、奴隷制度復活により、抵抗は募る一方だった。
フランス軍は、軍事遠征と黄熱病によって、壊滅的な被害を受けた。
ナポレオンは、アメリカ合衆国と事を構えるのは避けた。
そして1803年5月、スペインから割譲されたルイジアナを、アメリカに、破格の安値で売却した。
王者のロマンだ。古代のアレクサンダー大王も、それを目指していたんじゃないのかい?
しかし、これが実を結ぶことはなく、アレキサンダー大王の後継者への道は、遠ざかるばかりだった。
*シャルル・ドゥカン将軍
海路は、マルタ島を手放しちゃったし、フランス軍は、エジプトからも撤退しちゃったしな(ため息)。*
*「エジプト遠征」の章、参照。25話「マルタ島占領」~
但し、彼女一代限りの領有で、子への相続は認められませんでした。おかげで、ナポレオンとの間の幼い息子は、母の実家、オーストリアのウィーン宮廷に置いてけぼりを食らいます。
フランスがこの時手放したパルマは、因縁の土地となりましたね……。
ナポレオンの息子のその後については、ノベルデイズさんにチャットノベルがおいてあります。
「ナポレオン2世 ライヒシュタット公/スウィート・フランツェン」
カクヨムさんには、生まれる前、ナポレオンの絶頂期から、この子の生涯を描いた作品があります。