峰を逝く雲 夢の中の男(弐)

文字数 15,828文字

                           NOZARASI 12-2
 峰を逝く雲 
     夢の中の男 (弐)

 その夜雄之進は、またあの夢を見た。
 目覚めて、暗い天井を見詰めながら、あの優しく哀しい目の光を思い追いかけた。
 あの男が夢の中の男なのか、目の光が似ているだけではないのか。いや、元々夢の中の亊、現実とは違うのではないのか。
 故知れぬ夢の中の男。
 突然目の前に現れた、その夢の中の優しく哀しい目の光を持つ凄腕の剣客……。

「眠れませんでしたか」
「はい」
「あれしきの亊で眠れぬお方のようには思えませぬが、何か他に気に掛る亊でもおありですかな」
「はい……」
 この人には何を隠しても無駄なことであろう、雄之進は、これまでの亊を生い立ちから包み隠さず如雲に明かした。
「不可思議な亊もあるものですね、夢の中の男ですか」
「人と人との運命のようなものでもあるのでしょうか」              
「運命ですか。試合の前に会う亊は出来ませぬが、その後に会うて、お話しして見ては如何ですかな」
「そうして見ようかと思うておりました」
「今は雑念を捨て去る亊です」
「はい、そのように心懸けまする」
 その朝から、如雲は雄之進と立ち合おうとはしなかった。             
 昨日の立ち合いで、雄之進は不可思議なものを感じた。
 これで終わりなのだと、故知れぬ何かが自分の構えを解かせた。期せずして竹刀を下した如雲も同じであるように感じたのであった。
 いや、如雲にはそれが解っていたのであろう、あの微かに浮かべた笑みがそれを物語っていた。
 自分は何を会得出来たと云うのだ。解らない。解らないのだが、あの時は、それで何かが解ったような気がした。
 今、この庭に独り刀を構えて立つ。
 自身の内に、あの時までとは明らかに違う何かが在る。それが、解ったものの、解らないものの、正体であるのか……。まるで、あの夢の中の男のようではないか……。

「決まりましたぞ。東西二組、それぞれの勝ち残りで、坂本殿と江藤殿は東西の勝ち上がりと最後に闘い、勝てばその後決戦となる。それから西の江藤殿の前は有坂兵部。藩の指南役は試合には出ぬ。それが常であったが、これは有坂たっての願いで、殿がお認めになられた」
「有坂様が勝てば、雄之進様と決戦ですね」
 咲が、少し興奮したような声でそう言った。
「有坂は儂の一番弟子じゃ。その腕もさることながら、何より弟子たちの信望も厚いし、稽古に限らず、よく面倒を見る」
 如雲の誇らしげな言い方からして、有坂という男、かなりの腕なのであろうし、人柄も偲ばれた。
「千恵様は、この亊御存じなのですか」
「一応有坂には話しておいた、遠慮は無用とな。千恵殿も知っておるじゃろ、二人は仲が良いからな」
「……」
 咲が心配そうに黙り込んだ。
「あとは、他国からの剣客に、どれ程の者がおるかじゃな。こればかりはその日になって見ないと分からぬでな」
「貴方もその御一人でしたものね」
 律が笑いながらそう言った。
「そうであったな。昔が懐かしいのう、あの頃は、丁度今の坂本殿位の歳であったか」       
「あの年は参加する方々も多く、十一人抜きで、決戦まで行ってお勝ちになられたのでしたね。それでお殿様に認められ、高齢だった御指南役の結城様の隠居を待ち、代わって貴方が」
「殿には大事にして戴いた。今の儂が在るのは、殿を始め結城様や有坂を筆頭とする門弟たちのお蔭じゃ。如雲の名も殿から戴いた」
「それで、指南役ばかりも疲れただろう、有坂も強くなった、ここは任せて、儂と一緒に江戸へ行くかって。御殿様の警護と云うことで、参勤交代の度に半ばお江戸見物。この帰郷で隠居する事になり、私も一緒に戻って参りました」と咲が続ける。
「それで、あの山に……」
「この御転婆めが」
「ふふふ。坂本様、有坂様を苛めると、千恵様に恨まれますよ」          
「こら、下らぬ亊を言うで無い」
「だって、咲は、勝ち負けの事なんぞで千恵様がお悩みになられる事を思うと……」
「心配は要らぬ、あの幼き頃とは違い、千恵殿も今は心構えのしっかり出来た、指南役の立派な奥方じゃよ」
「千恵様は結城様の孫娘なのですよ。私と大の仲良し、お姉様みたいな方ですが、ふふふ、過ぎるくらいの心配りが徒になって、何かと……」と、咲が有坂の妻千恵のことを教えてくれる。

 雄之進はこれまでの修行の中で、稽古場以外で立ち合いをした亊は無かった。勝ち負けに関していえば、この頃では負ける亊はほとんど無くなったが、旅に出た頃は未だ十六の若者であり、当然負ける亊の方が多く、負けながら強くなっていったように思うのであった。
 だが雄之進の修行に、強くなるためとか、名を挙げるためとか、そんな欲望のようなものは微塵も無かった。
 故郷を捨て、宛ても無く彷徨い歩く旅の中で、己が生きる縁となるものは、唯一剣のみであったのだ。剣に縋りつくようにし生きることでしか、己の存在を見出す亊は出来なかった。十余年の旅の歳月が、時の流れと云うものの齎したであろう柔らかなるもので、その傷を包み込んでくれるようになったとはいえ、あの十六の夜に背負い込んだ死と云う呪縛から逃れさせてくれるものは、やはり剣でしかなかった。
 剣と云うものが、己が生きることの建前であるなれば、運命と云うものの齎した死と云う呪縛は、一方で不可思議な力を有し、己の危うさを支えてくれる心の剣でもあった。
 旅の途中に感じた虚無感のようなものは、今はもう無い。いや、今はその傷を柔らかく包み込んでくれたものが、己が心を、より静かに何処かへ誘おうとしてくれているのではないだろうかと感じさえする。   
 あの山の頂で、咲逹が帰り急に寂しくなった後、ひとり見た城下の絶景に遠き故郷を想った時、此処が己の死に場所かと、ふとそう思えた。そう思わせるものが、心落ち着かせるものが、此処にはあった。
 故知れぬ涙が頬を伝う。
 郷愁の涙か、己が運命への涙か……。
 流れろ、流れ落ちろ、全てを流してくれ。
 この身をこのまま此処に野ざらしにしろ。
 あの峰の蒼き天空に、死にし我が魂を誘え。
 雲となり、鳥となり、あの故郷へ帰らん。
 この旅は、死する処を求めての旅である亊に違いは無かった。自らそれを選べぬ男の、生気地無き流離いの旅であったのであろうか。
「雄之進様」
 静かな咲の声が、何処か遠くで聞こえたような気がした。
「何かお考え亊でも……」
「いえ、ちょっと」
 さっきから、明け放たれた隣の部屋に来ていたらしい。
 雄之進の後ろ姿に何かを感じ、声を掛けるのを躊躇っていたのか。        
「お茶でもお飲みになられますか」
「はい……」
 茶を戴きながら、
「お聞き致しても宜しいでしょうか」と、咲が迷い気味に言う。
「はい」
「故郷の亊を思っていらしたのですよね」
「よくお分かりで」
「私の思いとは比ぶるべきもないのでしょうが、私も江戸にいる頃は、時々ぼんやりと……」
「そうですか……」
「不躾にこんな事を訊くことをお怒りにならないで下ださいね。故郷へは戻れないのですか。何か戻れぬ訳でもおありなのですか」
「……」
 咲の繊細な心が、雄之進のそれに触れた。
「……。ごめんなさい、咲は雄之進様の亊を、もっともっと知りとうございます」       
 そう言い目を伏せる咲に、雄之進は旅に出て初めて、己が思いの長を語りたい、叫びたいと、心の底からそう思うのであった。
 独り生きる雄之進の心の寂寥の中へ踏み込まんとする咲の心が震えている。雄之進もまた、咲の繊細な心に震え出そうとする己の心を抑え、「ありがとう……」と、ただそれだけを口にするのが精一杯であった。
 庭の小枝を渡る山雀の鳴き声が弥増す静寂の中、黙して向かい合う二人の心に、確かに通い合うものが生まれようとしていた。
 その夕刻、咲がこれを着て試合に臨んで欲しいと、自らの手で縫ってくれたのであろう着物を持って部屋に現れた。
 ただ深く低頭し続ける雄之進に、咲もまた何かを語ることはしなかった。

 試合は東西に二十四人、有坂等藩の強者が四人ずつその後に名を連ね、客分の雄之進とあの男、江藤久十郎が最後に控えていた。
 東西二組に分かれ、勝ち残った者同士がまた勝ち残り戦を行い、一人をが残る。その者と藩士から選ばれた四人が加わり、東西の勝ち残り一人が決まる。有坂は自ら申し出、四人の藩士の一人として参加、勝ち残りに挑むという。
 雄之進の東の組は、播州浪人、香田英四郎と云う武芸者が勝ち残ってきた。
 西の組は、勝ち残った藩士と有坂が残り、対戦の末、有坂の勝ち。あの浪人と対することになった。
「東西の勝ち残り者の疲れを考慮し、しばし時を置き、それぞれの試合を行う」と、立会人の侍が朗々と告げた。    

「陰流、香田英四郎殿。念流、坂本雄之進殿、いざ」
 香田は、一見風采の上がらぬ四十絡みの浪人であったが、見るからに鍛えられたその体躯は、力の剣を思わせた。が、意外、どっしりと構え、相手の太刀筋を見切る冷静な動きでここまで勝ち上がってきていた。
 香田は八相に構え、静かに動かない。
 雄之進も香田の試合は見ていたが、さすがに強く、その力は侮れない。
 八相を崩さない香田に、雄之進は得手の右斜下段で待つ。
 出るか、待つか。二人は互いの動きを探り合う。
 雄之進がゆっくりと左手を離し、片手右斜下段、誘いの構えに入った。
 だが香田はそれを読んでか、動こうとはしない。
 静かに過ぎてゆく時の中で、雄之進は、己の剣が明らかに違って来ているのに気付いた。
 それは自分でも不思議であった。
 何が変わったと云うのであろうか……。
 思い当たる亊はただ一つ、如雲との毎朝の立ち合いであった。
 いや、あの朝の……。
「雲か…、雲を斬れるのか……」
 迷いのような問いが浮かぶ。
 その時、雄之進の頭の中に、「己もまた雲か…、雲になれるか」と云う、相反する問のようなものが浮かんだ。
 雲と風、如雲と雄之進、香田と雄之進。
 ふっと全身の気が抜けてゆくような感触を覚えた。
 香田が何かを感じたのであろう、気配も無く八相から撃って出た。
 雄之進は香田の間合いの中に捉われていた。
 迎え撃った逆袈裟が、八相からの撃ち下しを擦るように彈いた。          
 彈いて、そのまま返す一撃を振り下ろすと、香田の小手をしっかりと捉えた。    
 相手の間合いの中にいた。いつもなら躱そうとしたに違いない。
「勝負有り!」
 その声を遠くに聞いているような瞬間であった。
 体が勝手に動いた、そんな気がした。
 控えの床几に腰掛け、目を瞑る。
 あの香田の八相を、その間合いの中にいて、無意識の内に、右斜下段で迎え撃った。
 何かが、何かが違うのであった。
 今までの自分であれば、飛び下がり様に躱しながら彈いたであろう。
 彈いて踏み込み、次の手に出た。
 何故、ひとつ間違えば負けかねない動きの中に身を置いた。
 躱せる自信が、確とした自信があったのか。
 いや、そんなもののあろう筈も無い。
 これまでの自分は、相手の動き、剣の筋を読みながら対戦して来たのではなかったか。

「無外流、江藤久十郎殿。一刀流、有坂兵部殿、いざ」
 西の二人の試合が始まった。

「あの江藤が、夢の中の男なのか……」
 雄之進は、改めて江藤久十郎をしっかりと見た。
 が、分らない。あの優しく悲しい目の光だけでしか、あの男を知る術は無い。ここからでは、その目の光は見えない。
 有坂は気魄を全面に出し江藤に迫る。恐らく、自分より力が上回るかも知れないと江藤を、大きく動かす亊に因って勝機を見出そうと云うのであろう。
 江藤は慌てる様子も無く、冷静に有坂の動きを判断しながら極力動きを抑え対処している。場数を踏んだ者の落ち着きを見せ、相手を呑んでいるかのようでもある。
 長い対峙が続いたが、二人の呼吸には乱れすら見えない。有坂はずっと動きっ放しにも拘わらず、まだ余裕を見せ動き続け、機を見ては鋭く撃ち込んでゆく。
 江藤が有坂の動きを止めに出た。
 大上段に振りかぶり、有坂を正面に捉え、その間合いの中に踏み込んでゆく。有坂がそれを嫌い、間合いを外すと、江藤は更に追う。
 が、撃ち込む事をしない。撃ち込んでもと思うような機にも拘わらず、撃ち込まないのである。   
 有坂の踏み込んでくるであろう反撃の生む一瞬の間隙を待っているのだと、雄之進にはそう読めた。
 八相深くの抱え込みから鋭い攻撃を仕掛ける有坂に、江藤も用心をしているのであろう。
 この構えは剣の出て来る筋が見え難く、有坂の腕の並々ならぬを察し、万に一つの機をも相手に与えまいとする江藤の用心深さが窺えた。
 江藤が構えを八相に移そうとした瞬間、機を見出したか、有坂が出た。        
 が、これを待っていた江藤の竹刀は、鋭く速く有坂の八相を追うとその峰を捉え、巻き込むように竹刀を絡め、跳ね上げるように太刀筋を変えると、有坂の左の肩へ返す一撃を放った。
「勝負有り!」
 指南役の敗北に周りから響動めきが湧き、すぐに潮の引くように収まっていった。
 あの有坂の八相を、一瞬遅れて追い、竹刀を絡めて太刀筋を変える。有坂の剣も速い、それを上回る速さで……。
 雄之進の心は、その時意外と静かであった。
 これまでの自分であれば、感心したり警戒したりと、心の何処かに何らかの動揺のようなものが生じたのではなかったか。
「四半時の後、決戦!」
 江藤の疲れを考慮し、休む時を与えたのである。対等に戦う事が出来るよう、確りとした剣への姿勢が見られる御前試合であった。

 二人の剣客は、静かに対峙したまま微動だにしない。
「雲か……、風により自在に姿を変えるか……」 
「雲を撃てるか、雲になれるか……」
 雄之進は、自分の中に生じた自分への問を反芻していた。それは、答を出そうとするそれではなく、何処か遠くから風に乗って聞こえて来る穏やかな声明のようにも感じられた。
 長い時が流れたような気がし、ふとあの峰を渡る風の匂いがしたような気がした。
 雄之進の体が、右斜下段の構えのまま、ゆっくりと揺れるように動いた。
 まるで相手の間合い中に吸い込まれてゆくように、ゆらりと前に動いた。
 江藤の上段が、これを嫌うように撃ち下ろされた。
 受け止めた雄之進の眼前に、江藤の鋭い眼光が迫り、恰も互いの眼光が火花を散らすが如きであった。。
 弾き合うような動きで二人が後ろへ跳んだ。
 直ぐに江藤の撃ち下ろしが雄之進を襲う。
 ふっと力が抜け、不思議な感覚が雄之進を包み、身体が勝手に動いた。
「勝負有り!」
 江藤が片膝を折り、左の肩口を押さえていた。
 不可思議である。ふっと力が抜けたその先が、これまでの己の動きとは明らかに異なっていた。
「まただ……」
 江藤の肩口を打った感触は確とあった。が、その直前の自分の動きが意図せぬものであるかのように感じられるのであった。
「雲を、風を掴まれましたかな」
 いつの間にか如雲が、礼を終え床几へ腰かけた雄之進の側に来ていた。
「あれが、雲の如し、じゃよ」
「雲の如し、でございますか」
 如雲が、満足そうな笑みを浮かべた。
「殿が、有坂との試合を是非見たいと仰せられておるのじゃが、どうなされます」         
「有坂様は如何ように」
「有坂も乗り気のようだが……」
「では私も」
「そうか、受けて戴けるか。御断りしても構わぬ、殿はそんな亊を御気になさる方では無い故」
「いえ、私の方からも、是非お願い致します」
「ところで、目はどうであった」
「はっ?」
「夢の中の男じゃよ」
「あっ!」
「忘れておったと云う亊は、違うのだな、きっと」
 あの目、優しく哀しい目ではあったが、何処か、何かが違っていた。
 言われて思い出して見ればそうだ。夢の中の男とは、何処か少し違うような気がするのであった。
 雄之進は少し落胆してはいたが、心の何処か、何故か少しほっとしてもいた。

「真剣で願い仕りたく……」
 有坂が、紀伊守の前でそう言った。
「ならぬ、真剣はならぬぞ!」
 紀伊守はきっぱりと言い放った。
「私の竹刀では坂本殿には適いませぬ。真剣なれば」
 紀伊守の目をまっすぐに見、有坂は己の決意の固さを見せる。
「ならば寸止めでやれ。出来るか兵部」
「はっ」
「坂本殿は、それで宜しいかな」
 横に控える如雲が訊いた。
「はっ」
 二人が真剣を持って中央に出ると、場内から驚きの声が響動めきとなって湧き上がり、やがて潮の退くが如く静かになっていった。           
 雄之進は有坂の出方を窺いながら、初めてその目を間近で見た。
 何処か秘めたる憂いを感じさせはしたが、黒い瞳の澄み切って、穏やかな良い目をしていた。咲の云うように好人物であるのだろう。        
 如雲の後継である、油断は出来無い。
 有坂は晴眼、雄之進は右斜下段。
 静かな対峙が続く。
 その時雄之進は、有坂の黒い瞳の奥に、炎のようなものが満ち始めてゆくのを見た。
 気魄か。
 否、これは狂気の炎では無いのか。
 雄之進は我が目を疑った。
 その狂気は、やがて鬼気迫るものへと変わりゆく。
 有坂の顔に異形の物の相が顕れ、全身に恐ろしい程の気魄が漲ってゆく。
 晴眼からの突きが来た。
 それは、おどろおどろしいまでの殺気を孕んでいた。
 強い、先程の江藤との時とはまるで違う。
 何かに取り慿かれたような殺気。
 有坂に取り憑いた異形の物が、人では無い力を授けているのではないかとさえ思われた。
 雄之進は、必死の思いでそれを彈いた。
 鋭い真剣のぶつかりあう音が響き、場内が異様な緊張による静けさの中に吸い込まれてゆく。
「あっ」
 雄之進は有坂の目に、あの夢の中の男の目の光を見た。異形の光の中に、あの優しく哀しい光の翳を、暗く、そして深く湛えているではないか。
 飢えた魔獣のように、再び我武者羅に撃ち込んで来た有坂の剣を受け止め、間近に迫るその目を見た。
 あの夢の中に誘われてゆきそうな、そんな気がした。
 その目に魅入られたように、全身の力が抜けてゆく。
「兄様」
 穏やかな吐息のように、思いもよらぬ言葉が雄之進の口を突いて出た。
 雄之進に兄の記憶は無い。
 何故有坂の目に兄を感じた。
「次郎丸」
 何処か懐かしき響きであった。
 そう呟いた有坂の目から、異形の物の光がすうーっと掻き消すように消えてゆく。
 次郎丸とは雄之進の幼名である。
「何故その名を……」
 何処かで聞いた……。
 優しさの秘められた懐かしきその声を……。
 あの血だらけの姿、優しい目……。
「如何致した」
 如雲が、只ならぬ何かを察し、すぐ側に来ていた。
「我が弟、次郎丸にございます」
 有坂が唐突に言った。
「何と!」
「えっ!」
 如雲と雄之進の口から、それぞれに驚きの声が洩れた。
 如雲が紀伊守の元へ走る。
 一瞬驚きの表情を見せ、紀伊守が叫んだ。
「止めじゃ、この勝負取り止めじゃ」
「申し訳ございませぬ」
「如雲、何を謝る。それよりあの二人を何とかしてやれ。城中の何処ぞを使わせてやれ。そうだ、離れだ、桜の間を使え。あそこなら静かに話しの出来よう」
 思わぬ事の成り行きに、紀伊守も心を乱していた。
「滅相もござりませぬ。桜の間は大事な御客のための部屋」
「試合の勝者であろうが、立派な客人ではないか。余が許す」
「ははっ、有り難き幸せ」
「何を大袈裟なことを。落ち着いたら、三人で参れ、よいな」       

「次郎丸、父母の仇を討ちに来たのか。いつかは来るやも知れぬ、次郎丸になら討たれようと、覚悟は決めていた。が、ここではならぬ、試合の場ならともかく、城内を血で汚す訳にはゆかぬ、明日にでも稽古場へ来い。そして俺の首を持って故郷へ帰れ」
 有坂は、いきなりそう言うのであったが、雄之進には何も理解することは出来なかった。
「知らぬのか、何も知らぬのか。ならば聞かせよう、そしてこの首を持って故郷へ帰れ。人は生まれ故郷で生きてゆくのが一番ぞ」

 二人の家は故郷の隣藩であった。
 母は嫁いで長く子に恵まれず、有坂を親戚から養子に迎えて七年目に雄之進が生まれた。有坂、十二の時であった。
 皆に可愛がられ、有坂も心からこの小さな生命を持つ弟が可愛かった。
 が、元服も近い十四の時、父母の話を聞くとは無しに襖の陰で聞いてしまった。   
 跡継の亊であった。
 父も母も、実の子である次郎丸を跡継にしたいと心を決めたらしかった。      
 有坂の扱いに悩んでいるらしく、ぼそぼそと襖の向こうで話は続いていた。
 幾日も幾日も悩み続け、有坂は死ぬことを決意した。
 が、死なんとして暗い部屋の中で白刃を見ている内に、故知れぬ何かが頭を擡げてくるのであった。
 それは次第に膨らみを増し、体の奥底で熱く熱く煮え滾ってゆく。
 やがて手が震えだし、形相さえも変わってゆく自分の姿が白刃に映っていた。
 抑えきれぬ激情が、突き上げるように次から次に体の奥底から湧き上がり、胸を張り裂かんばかりに満ち満ちてゆく。

「さっきの立ち合いの時と同じであった」
 有坂が、呻くように呟いた。

 気が付くと、血だらけの刀を下げ、父母の亡骸の前に立ち竦んでいた。
 まだ気の昂りは収まらない。
 とその時、近くに次郎丸の泣く声が聞こえた。
 隣の部屋に入ると、次郎丸は只ならぬ気配を感じたのであろう、火の付いたように泣きじゃくっていた。
 まだ三つにもならぬ幼子を哀れと思い、父母の元に送ってやろうと白刃を翳した。 
 次郎丸は有坂の顔を見てピタリと泣き止み、じっと見つめる有坂の眼差しに、いつもの無邪気な微笑みを返すのであった。        
 返り血を浴びた凄まじいその姿に怯えるでもなく、抱き上げてあやしてやるいつもの時と変わらぬかわいい笑顔に、憑き物を落とされたのか、有坂は力無く刀を下した。 
 その夜有坂は出奔した。

 あの夢は、夢の中の亊ではなかったのか。
 あの優しく哀しい目の光を待つ男は、兄だったのか。
 どこか懐かしい匂いのしたのは、兄故だったのか。
 あの夜の父母の話の全てが解けた。
 そして思った、己の運命とよく似ていると……。
 父の言っていた、因果と云う言葉が思い出された。     
 父を躊躇わせた因果とは、この亊だったのか……。

 雄之進も自らを語った。
「そうか、仇を討ちに来たのではなかったのか、済まぬ、赦してくれ。次郎丸の帰るべき故郷まで奪ってしまったな。帰るべき故郷を失ったその苦しみは誰にも解せぬ、帰れぬという運命を背負った者にしかな」        
「兄上……」
 雄之進は、それだけ言うのがやっとであった。
 涙を流す有坂に、雄之進もまた溢れ来る涙をそのままにした。
「殿!」
 如雲が次の間に向き直り、低頭し、低い声で言った。
「やはり気付かれておったか、ちと心配での」
 襖が明き、立ち聞きの露見した紀伊守がばつの悪そうな顔で現れた。
「殿、御赦しを。この上は如何なる御処分をも」
「殿、私めも同罪にございます」
 有坂に続き、側で如雲も深く頭を下げ、そう言うのであった。
「よしっ、二人共に十日の謹愼じゃな。屋敷に籠って確と反省せい。酒も禁ずる。ははは、それが一番堪えるであろうの」
「しかしそれでは……」
「何が不服じゃ、兵部。若き日の過ち、もう三十年もの長き刻を苦しんだのであろうが。これからもその罪を背負い生きてゆかねばならぬのじゃ、十分過ぎるのではないのか。が、父母の供養を怠るではないぞ、それを以って償いとせい。兵部、お前はこの後真剣を帯刀することあいならん。大小共に竹光とせい、解ったな。竹光は、昔余が酔狂で誂えさせたものを遣わす。これは真に良い代物ぞ」
「ははっ」
「おっ、如雲、十日後は丁度満月であったな。謹愼明けの祝いに、余が宴を設けてやろう。十日も飲まぬと酒が美味いぞ。十日後、夕刻に登城せい、三人揃うてな。待っておるぞ」       
 紀伊守は嬉しそうに微笑み、出てゆこうとして振り返った。
「そうじゃ、忘れるところであった。坂本雄之進、見事であった。久し振りに良い剣を見させてもろうた、礼を言うぞ。如雲にも劣らぬのではないか、どうじゃ、余の家臣になってはくれぬか」
「……」
「ははは、すぐにはの。どうせ如雲や兵部に義理立てし、お前も謹愼する積りであろう、返事は月見の宵にな。楽しみにしておるぞ」

 あの時を振り返っていた。
「雄之進、と呼ばせてもらっても宜しいかな」
「はい、初めて稽古を付けて戴きました時より、弟子入りさせて戴いた積りでおりますので」
「雲の気持ちはどうであったかな」
「お分かりでしたか」
「ははははは」
「何故に私の心がお分かりになられます」
「同じような道を歩いていると感じるからではなかろうかの」
「同じような道を、でございますか」
「何か不可思議な力のようなものを、立ち合いの中で感じなかったかな」             
「はい、自分では無いような、力と動きが……」
「何であろうの、あの不可思議なものは」
「勝手と云うのか、流れの中で自然に身体が動いてゆきます。こう来たからこうゆく、そう云う理のようなものでは無く、自分ですら予測のつかぬ動きが……。咲殿とお会いしたあの山で、ひとり寝転んで見た、風のままに生まれ、流れ、また消え逝く雲の様が思い出され、寝転んだ心そのままに相手と対峙出来たように思えます」
「風じゃよ、風。風になれたのじゃよ。己は風、相手もまた風。雲になれたのじゃよ、雲に……」
「風に、雲に、でございますか」
「風が雲を生み、雲がまた風を生む。
 風が雲を斬り、雲が風を斬る。
 己は風。
 己は雲。
 ただ無心に、あの蒼穹を逝く雲の如く、流れのままに流れて逝くのじゃよ」
「それは全てを包み、己を無心にし、優しく流れて逝きまするか」                「そうじゃ。相手の殺気さえも優しく包み込んでしまうのかも知れぬと、儂は思うておる」
 その時、咲の切羽詰まった声がした。
「父上、千恵様が……」
「どうなされた、千恵殿」 
「有坂が……」
「儂は行けぬ。雄之進、頼むぞ」
「はい、心得ました」
 千恵の表情で、すぐにそれと察した二人であった。
 
 押っ取り刀でひたすらに走る。
 暗い部屋の中に、有坂は一人座していた。
「兄上」
「次郎丸か」
「はい」
「千恵が知らせたか」
「はい」
「丁度よい、介錯を頼む」
「何故に死を選びまするか。それを納得出来ますれば、介錯お引受け致しまする」   
「全て承知であろうが……」
「……」
「儂はそなたの父母を殺した。お前との立ち合いも、真剣を持てば、ああなる亊は分かっていたのだ。昂ぶる心で真剣を持てば、儂の心の奥底に潜む異形の魔性が、必ずや故知れぬ力を齎す事を承知で、あの真剣勝負を願い出たのだ。魔性のものに寸止めなんぞは出来ぬ。斬り殺すか斬り殺されるかのその時まで、異形の憑依は収まらぬと云う事も分かっていたのだ。儂の弱き心が、あの異形の魔性を呼び起こし、ドロドロと熱く煮え滾った血が五体に満ち満ちてゆく時、対する者は憎悪する敵へと変わりゆくのだ。指南役ともあろう者が、決戦の勝者になら兎も角、敗れた者に負けた。何としてでも汚名を雪がねば、殿に申し訳が立たぬでは無いか。その上大恩ある殿を、そして如雲先生を欺いて真剣勝負を願い出た。万死に値しようぞ」
「そうでしょうか、縦しんばそうだとしても、私には承服出来ませぬ。兄上の苦しみは解ります。死なねばならぬと覚悟なされるのも解ります。だが、死ぬ亊は赦せませぬ。死ぬ事の出来ぬ私を独りになされますか。やっと巡り遭えた兄弟が、また別れる亊を、父や母が喜びましょうか。犯した罪、忘れる亊が出来ぬなら、紀伊守様も仰せられましたように、それを背負うて生きて下ださい。人は皆、少なからず心の何処かにそんなものを背負うて生きているのではないのですか。紀伊守様や如雲先生は、人の負う苦しみや哀しみ、その罪の全てを赦してくれているのではありませぬか。皆兄上を失うことの悲しみの方が……」
「……」
「生きて下ださい、私も生きてゆきます。私が生きてゆくためにも……。御頼み致します」
 頭を垂れる雄之進に、
「儂が死ねば、お前も死ぬと云うのか」と、有坂が苦渋を吐くかのように訊く。
「はい。私はあの時以来、幾度となく兄上の夢を見て参りました。今、その夢の意味するものが解ったような気が致します。それは、兄上に会い、その苦しみから救いだせと、そしてそれが自分の苦しみをも救う事なのだと。夢の中の兄上の目は優しく哀しく、何か切なげに私に訴えているようでした。兄上とも知らぬ私を、今日まで夢の中の男は呼び続けていたのです。お前にしか俺を救うことは出来ぬのだ、死ぬな、ここへ来いと励まし続けてくれていたのです」              
「夢の中の男か」
「故郷を出て十余年、あの山河と、人々と、夢の中の男を、多分、一日たりとも忘れた亊は無いのだと思います。私にはもう帰る故郷はありません。でも、夢の中の男は、今ここに兄としているのです。宛ても無く彷徨い続ける旅の中で、それは唯一行き着く処だったのかも知れませぬ。兄上とて同じように彷徨い続けているのではございませぬか。生きて下ださい、私のため、千恵殿のため、兄上を慕う稽古場の門弟たちのために、そして、ここまで支えてくれたであろう世話になりし人々のために。その人々に恩を返さずして死ねまするか。己が心の安らぎのため、今ここで死を選べば、その優しき人々の心に報いる亊になりまするか」
 長い沈黙の時が流れた。
「恩か……。返さねば死ねぬ方々ばかりだな」
「あの素晴らしき主、紀伊守様にも、如雲先生にも、千恵殿にも、尽くし、返さねばならぬ恩がおありでございましょう」
「そうだな、罪を背負い、生きて生き恥を曝さねば、義が立たぬか」         
「……」
 襖の向うで、人の気配がした。
「千恵様っ」
 咲の声であった。
 雄之進が立ち上がり襖を明けると、咲が崩れ落ちかける千恵を支えるようにして立っていた。
「大丈夫でございますか」
「はい。坂本様、ありがとうございました」
 か細い声で、千恵がやっとそれだけ言った。
「申し訳ございませぬ、失礼の亊お赦し下ださい」
 立ち聞きになってしまった亊を咲が謝る。
「それだけ皆が兄上の亊を思うていると云う亊ですよ」
「済まぬ……」
「では明日、御城へ参る時分に……」
 雄之進は咲を目で促すと有坂の屋敷を出た。
「良かったですね。なーんだか晴れ晴れとした気分です」
 咲が嬉しそうに笑い、子供のようにピョンと跳ねた。
「雄之進様、御仕官なされるのでございますか」
「まだ決めてはいません」
「もう明日なのでしょう」
「月見の宴はもう明日、そうですよね……」
「他人亊みたい」
「剣しか知らぬ私に、堅苦しい御城勤めは出来ますまい」
「指南役は有坂様だし、父の代わりに御側警護かしら」   
「いずれにしろ、私には勤まりますまい」
「勤まりますまいでは、咲が困るのです」
 咲が小さな声で言った。
「はっ?」
「はい、咲が困るのです」
 今度は少し大きな声で咲が言うのであった。

 有坂は帯刀せず城に上がった。
 山水の見える間に、月見の宴の用意は既になされ、紀伊守はもう盃を傾けていた。        「遅いぞ、如雲。月を待ち侘びる前に、お前達を待ち侘びてしもうたぞ。ほれ、月でさえ待ち侘び、既に中天に懸かろうとしているではないか」
「申し訳ございませぬ」
「今日は気を楽にせい。余もそう致す故」
「はっ、畏れいります」
「兵部、こちらへ参れ」
「はっ」
「これじゃ、竹光だ」
 大小揃いの竹光を丁重に拝した有坂が席に戻り、重さを確かめんとするかのように、小首を傾げながら、それを少し上下に動かした。               
「ははははは、竹光にしては重かろうが、だが真剣では無いぞ、正真正銘の竹光じゃ、抜いて見ろ」
 有坂が懐紙を啣え、それを抜き、またちょっと小首を傾げた。
「ははは、重さを合わせるのに、鞘の方を重くしてある。腰が軽くては落ち着かぬからのぅ。まあ抜く亊も無いであろうが、普段から柄と鞘をしっかりと結わえ付けておけば、いざと云う時は、鞘に収めたままで真剣の相手とも戦えるよう鞘の背に鋼板で細工がしてある、中々の代物であろうが。皆それぞれに、その道の職人逹が思いの技を込めてある。抜き身は朧銀じゃが、そうは見えぬであろうが。これでは腹も切れまい、良く思い止どまってくれたの。礼を言うぞ」       
「殿……」
「兵部、死する亊だけが武士の道では無いぞ。お前の亊だ、そんな亊もあろうかと、密かに人は付けておいた。雄之進にいいところを取られてしもうたがの。泣くな、せっかくの月見の宴が台無しになるではないか」
「殿……」
「泣くなと言うておるではないか、馬鹿者が……」
 紀伊守の目にも涙が浮かんでいた。

 宴も進んだ頃、紀伊守が、雄之進に水を向けた。
「ところで雄之進、決心は着いたか」
「……」
「駄目か。それとも迷うておるのか」
「……」
「黙って畏まっているだけでは解らぬではないか」                 
「申し訳ございませぬ」
「故郷へは戻らぬのであろう、また旅へゆくのか。煙霞の痼疾、未だ止み難く候か。ははは、それもまた好し。だがの、己を求むる者がおると云う亊はの、人としてこの上無き事ぞ」
「はっ、有り難き幸せにございます」
「余も請われてこの地へ参った。今はここへ迎えられた事を感謝しておる。ここが余の天命の地、真の故郷じゃ、死に場所じゃ。何故に受けてはくれぬ、剣の修行とて、ここには如雲がおるではないか。如雲は強いぞ、恐らく日の本一じゃ」
「はっ、違う亊なく」
「なれば良いではないか、如雲の元で修行に励めば。余はな、剣が出来ると云う亊のみで雄之進に家臣になってもらいたいのでは無い、人は一に心ぞ、心優しきが人の道の始まりじゃ、そうは思わぬか。我が藩の者逹は、余には出来過ぎの者ばかりじゃ。余の宝物じゃ、皆よう働き、こんな余に付いて来てくれる。如雲も、有坂も、強いからと云うだけで家臣になって貰うたのでは無い、余が欲するはその心根じゃ。人はな、その才も然る亊ながら、大事は心根ぞ。そうは思わんか雄之進」
「御意にござります」
「そうじゃ如雲、娘がおったな。ほれ、江戸の屋敷で時折見かけた佳き娘が。確か咲と言うたな」   「はい、咲にございます」
「どうじゃ、雄之進と妻わせては。ならぬか」                   
「それは……」
「そうじゃな、咲にも聞かねばな。男だけで決めても、こんな亊は上手くはゆかぬな。雄之進、余は急かぬ、只、只これだけは言うておく、余に遠慮はいらぬぞ、雄之進には雄之進の生き方があろう、道があろう、それを生きてこそ武士ぞ」
 帰り道、如雲が言った。
「殿は御養子じゃ、若い頃から人の何倍も苦労なされてきたらしい。ここへ来られた頃も、中々馴染めず大変だったらしいが、今では皆の信頼を一身に集め、苦しかった藩財政も、民草に大した無理を強いる亊無く、無駄を排し立ち直らせてしもうた。家臣の顔も名も、皆覚えておられる。素晴らしいお方じゃ」
「はい、それはもう私にも……」
「そうか……」

 咲の態度が変わった。
 雄之進の心を乱すまいと心掛けているのであろう。
 この心に蟠るものは何だ。
 父母か、小太郎か、故郷の山河か。
 死なんとしたあの夜に、首筋に当てた冷たき刃か。
 一筋の赤い血に、その深淵を覗き見る亊を畏れた己が弱き心か。
 雄之進の心の何処かに、あの時芽生えた死への願望が、今も尚残滓のように巣食っている。     
 この旅は、己が死に場所を求むる旅。生きんがための旅では無いと、今日の日まで宛てもなく彷徨い流離うて来た。
 そんな自分に、この地に住まい、咲を娶って生きてゆく亊が赦されるのであろうか。

 ある朝、如雲が黙って立ち上がると、真剣を取って雄之進を庭へ促した。
 咲が一瞬、不安げな目で如雲を見た。
「抜きなされ、抜いて遠慮なく斬り込んで来なされ。真剣勝負じゃ」
「……」
「出来ませぬか。
 人を斬る亊は出来ませぬか。
 抜かねば斬られるとすれば、どう致しますか。
 それでも抜きませぬか。
 斬られて死ねば、その苦しみから逃れられますか。
 それで四人の父と母は喜びまするか。
 小太郎殿は喜びまするか。
 生きて、いつの日にか笑って故郷へ会いに帰らんとは思いは致しませぬか。
 その家宝の刀を、笑顔で小太郎殿に返さんとは思いませぬか。
 さぁ来なされ、抜いて来なされ。
 我が剣の真髄、今こそお教え致そう」 
 雄之進は、凛として立つ如雲の目に、静かに溢れる決意の固さを見、まだ揺れる心のまま、如雲のそれに抗えぬものを感じ、深く一礼をすると、ゆっくりと剣を抜いた。
「ゆきまするぞ」
 如雲の動きは、まるで次元の違ったものであった。
 雄之進から見れば隙だらけである。
 なのに、その隙だらけのまま攻め続けて来る。
 撃てば退く、退けば出る。
 この年で、こんな動きが出来るものなのか。
 春の洋々とした風を孕み、その空を逝く雲のように、淀み無く繰り出されゆく剣。    
 時に激しく速く、時にゆっくりと、まるで春の嵐に舞う桜の花吹雪のように。
 雄之進は、その剣に翻弄され続ける。
 己の動きは、全て如雲の術中にある。
 いつ斬られても不思議は無い。
 ピタリと、如雲の剣が雄之進の眉間に止まった。
 最後はその太刀筋すらも見え無かった。
 軽く乱れた息を整え、「どうじゃな」と言うかのように如雲が微笑んだ。
 返す言葉を失っている雄之進の耳に、「ふーっ」と云う咲の大きな吐息が聞こえた。
 黙ったまま深く頭を垂れ続ける雄之進に、如雲が言った。
「死なんとする心を押し止むるものは何ぞ。
 死を畏るる己の弱き心か。
 いやそれは違う。
 それを押し止むるは、己が心の勇気ぞ。
 生きんとする勇気ぞ。
 死する亊に勇気なんぞは要らぬ。
 全てに目を閉じ、己が身に刃を突き刺し、一瞬の痛みを怺えれば、ただそれで済む。
 そんなものを勇気とは言わせぬ。
 何のために生きた。
 何のために死ぬ。
 ここまでの旅、どうやって生きて来た。
 流れのままに流されて来たか。
 苦しき亊、哀しき亊、寂しき亊、それ故の涙。
 それに対するように、人の温かさ、人の優しさ、人ゆえの嬉しき亊、それ故の涙。
 そんなものが、その流れの中に数え切れぬ程にあったであろう。
 それが己の剣を高みに導いてくれたのではないのか。
 生きてみよ。
 生きて、己の死なんとする弱さを乗り越えて見よ。
 あの高き峰々のように、人はそこに在り、己が気付かずとも優しき眼差しで己を見てくれている、見守ってくれている。
 それが故郷の山河と云うものよ。
 懐かしい人々と云うものよ。
 ここへ止まれ、ここで咲とともに生きて見よ。
 己が故郷に似ると云うこの山河を、失いし故郷と思うて、拾うて見よ」

 翌日、雄之進は、あの頂への小径を辿っていた。
 あの日のように、蒼く、高く、空は何処までも澄み切っていた。

   峰を逝く雲   夢の中の男    ‐完‐
                             
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