第4章・日常

文字数 16,411文字

「団長、鯨影です」
 勢い込んでスヴェルトの副官ヨルドが飛び込んで来た時、ジョスはまだ、朝餉の準備をしていた。
「すぐに、お呼びします」
 ジョスは、昨夜も酔って帰って来て、まだ寝ているスヴェルトを揺り起こした。
「ヨルドどのがいらして、鯨影が見えた、とおっしゃっています」
 がばとスヴェルトが身を起こした。
「直ぐ行くと伝えろ」
 慌てて着替えようとするスヴェルトに、ジョスは鯨漁(いさなとり)用に拵えてた特別な胴着を渡した。血に染まった海でも目立つ色の服を、鯨漁の時には着なくてはならないと教わった。
「これをお召しください。鯨漁のための服です」
 無言で頷くスヴェルトを置いて、ジョスは戸口にいるヨルドの元へ戻った。
「すぐに、参りますわ」
 ああ、でもまだ、麵麭くらいしか焼けてはいない。消耗戦となる鯨漁に、充分な食事を摂らないままに送り出す訳にはいかない。それにしても、何と急なのだろうか。堅焼き麵麭の用意すらもない。ジョスは焦った。
「何か、わたしが用意しなくてはならないものはありますか」
「いいえ、奥方様は、浜で御見物になって下さい」いつもは厳めしいヨルドの頬が緩んだ。「団長は慣れていらっしゃいますし、一番銛は絶対に、譲られませんから」
 足音も高く、スヴェルトが姿を見せた。鶸色(ひわいろ)を基調とした胴着は似合っているばかりではなく、落ち着いて威厳も増して見えた。そして、スヴェルトは食堂の物入れから長い銛を何本も取り出した。ジョスは取り敢えず、焼き上がっていた香草入りの麵麭を全て布に包んだ。空いた手には蜜酒の杯だ。
「何も召し上がらずに漁に出てはなりませんわ」
「ああ、助かる」
 そう言ってスヴェルトは包みを受け取り、ジョスの差し出した蜜酒をあおった。「一番銛は、任せろ」
 重い銛を五、六本軽々と持つと、スヴェルトはヨルドと共に振り返る事なく出て行った。
 ジョスは、ようやく健康を取り戻したミルドに留守を頼むと、浜へと向かった。
 せめて、出航は見送りたかった。危険な漁へと向かう家族の出船を見送るのは、島では当然の事だった。女戦士であった時分には、岩場から一族の姿を追ったものだった。
 浜では、船の準備が調い、いましも出航というところだった。
 スヴェルトは食べかけの麵麭を片手に各船に大声で指示を出し、自らも船に乗り込むところだった。だが、それは父達のような軍船ではなく、普通の漁船のようだった。何だか、勝手が違った。
 船に乗り込んだスヴェルトが、まるでジョスの視線に気付いたかのように、ふと浜に目をやった。目線が合うと、にっと笑うと手にしていた銛を軽く上げた。そして、船首へと向かった。その自信に満ちた堂々とした姿に、ジョスはかつて見た、青年時代のスヴェルトを思い出さずにはいられなかった。
 乗組員の半分が、船を海に押し出し、腰の辺りまで浸かったところで、既に乗り込んでいた仲間に引き上げられた。皆が位置に付くや、威勢のよい掛け声と共に一斉に櫂が海面に打ち下ろされた。
 浜からでも見えるような所に鯨がいる、というのは、ジョスにとっては新鮮だった。鯨は、外海の水深のあるところに棲むものだと思っていた。だが、確かに、潮吹きが見られた。
 それから起こった事は、あっという間だった。船団は鯨の群れに襲いかかり、決着は直ぐについたからだ。数時間の出来事だった。父達が、どのように鯨を狩るのか、兄達の話から察するしかなかったが、何日もかけて追うのが当然であったので、ジョスは拍子抜けした。
 引き上げて来る船の船尾には鯨の尾鰭が括り付けられており、一隻につき一頭の成果をあげていた。だが、その鯨の大きさにジョスはおやと思った。
 鯨とは言っても、沿岸にやって来る小型の鯨だった。それならば、急な出漁も理解できた。漁船で出漁した事も。ただ、島ではこの鯨は漁師の仕事だった。
 浅瀬は血で染まって泡立っていた。奴隷達が船尾の鯨を浜に揚げると、砂も血を吸って赤くなった。辺り一面が、真っ赤だった。
 スヴェルトは、腕組みをして作業を見守っている。服はぐしょ濡れだったが、船団長としての威厳は些かも失われてはいなかった。獲物の大きさはどうあれ、無事に戻った事にジョスは胸を撫で下ろした。
 母達は、もっと不安な思いで何日も帰りを待たなくてはならないのだ。ジョスは父達の無事を毛ほども疑った事はなく、不安な気持ちはなかった。だが、相手がスヴェルトだと、例え疑いはしなくとも心を乱されるものなのだと知った。
「やっぱり、あなたの旦那さまは素敵ね」
 耳許で艶っぽい女の声がした。
 はっとして振り向いたが、その姿は群衆に紛れたのか、確認する事は出来なかった。この島では、誰もがジョスがスヴェルトの妻だという事を知っているだろう。婚礼の時に顔を隠していても、一人だけが異質な衣服を着ているのだから、見分けるのは容易と思われた。
 スヴェルトが称えられるのは、悪い事ではない。
 だが、言い方が気に障った。
 どことはなしに、粘り着くような、人を不愉快にさせるような声だった。
 あの(ひと)は、わたしがずっと目をつけていたのよ。
 そう言いたげな声音だった。
 浜では早速、漁師達によって鯨の解体が始まった。スヴェルトは悠々と船を降り、鯨から抜かれた銛を受け取ると獲物に一瞥をくれ、ジョスへと近付いて来た。銛を肩に担ぎ、その全身からはまだ海水を滴らせている。
「一番銛だ」
 破顔したその顔に、ジョスは微笑んだ。本当は、子供のようにはしゃぎ回りたい気分だった。
 そうだ、あの女の言葉は、船団長としてのスヴェルトを差したものだ。ジョスが素敵だと思う、この飾らぬ笑顔の人ではない。それに、内心はどのように思っていようと、この人は妻である自分を優先してくれる。その内に、本当に心が通じ合うようになればよいのだ。
「お疲れさまでした。ご無事でなによりです。すぐにお着替えをお持ちいたしましょうか。それとも、一度、お戻りになりますか」
「戻ろう。お前の料理を食い損ねたからな」
 そう言ってスヴェルトは大きな声で笑った。何人かが、その声に愕いたように自分達に目をやるのが分った。機嫌、不機嫌が直ぐに分る人だった。
「もう、お昼ですが、よろしいのですか」
「こんな日は、訓練もなしだ。昼からはゆっくりと休むさ」
 そう言って、スヴェルトは鯨に目をやった。
「その内に肉が届くだろうから、下女に言っておけ。それに、船団の一番銛だったからな、一番良い部位の肉以外に、胎児(はらご)がいればそれも届くだろう。なければ、倍の脂だ」
「心臓は、ないのですか」
「心臓か」スヴェルトは首を捻った。「なぜ」
「島では、一番銛は心臓ももらいましたから」
「欲しければ、言ってやるが」
「いいえ、倍の脂を頂けるのでしたら、それも重宝いたしますもの」
 一番銛に胎児がついて来るという事は、ここでは、心臓も胎児も島のような意味を持たないのだろう。
 ミルドやドルスにも、充分に食べさせるだけの量はあるだろうとジョスは思った。何があっても、これは祝儀物の一種として充分に食べさせる事をスヴェルトには承知して貰わなくてはならない。
「残念だが、今夜は兄貴の館で宴だろうな。お前は、どうする」
「戦士の方々のお祝いでございましょう。女がいては羽目を外せぬこともありましょうし、遠慮しておきます」
「まあ、賢明だな」
 再び、スヴェルトは大声で笑った。聞いているだけで、充分に幸せになれる響きだった。
 一瞬、スヴェルトの空いた方の腕が、ジョスの肩に回された。
「おっと」
 そう言うや、スヴェルトはさっと手を離した。「お前まで濡れてしまうところだったな」
 その顔は、どこか気まずそうだった。
 それでも良かったのに、とジョスは思った。


 薬草と香草の畑は順調だった。種は芽吹き、成長も早かった。
 そして、家畜小屋にはスヴェルトの小作農からの雌山羊と鶏が入った。
 よい気候だからだろうか、ドルスは次に野菜を作ってはどうかと言った。
 少しでも収穫があれば、その分、集落の市場に行かずともよくなる。好奇の目で遠慮がちに見る人々には、慣れた。最初は一人で行っていたものが、ミルドを連れて行くようになると、それ程人々は気にしなくなったようだった。要するに、船団長の妻が奴隷も連れずに一人歩きするのが、この島の人々には珍奇に映ったのだろう。異なった衣服も、見慣れると興味も薄れるものだ。
 最初は買い物ひとつにも勝手が分らなかった。銀の価値も分らなかったのだ。全てを分かち合う北の涯の島ではそのような物は必要なかったからだ。だが、スヴェルトの妻である事は直ぐに皆に分ったらしく、請求は全てスヴェルトの元へ行く事になっていた。こういう時には、地位と力のある良人と持つのは悪くはなかった。悪い品物を摑まされたり、値段をふっかけられたりする事もない。そのような事さえ、ジョスはミルドに指摘されるまで気付かなかった。だが、当然ながら騙そうなどと思う者はいないだろうと思われた。確実にスヴェルトの怒りに触れるだろうから。
 それに、大食漢のスヴェルトの胃袋を満足させる為には、毎日の食材だけでも相当な量になったので、店で注文した物を届けて貰えるのも有り難かった。
 ミルドの健康状態も良くなった。買い物に連れ立って行けるようになるまでに、鶏の卵を採る事を仕事として貰った。その際に、スヴェルトはミルドの姿を見たようだった。
「あのように弱々しい女を買ったのか」不機嫌そうにスヴェルトはジョスに言った。「あれでまともに仕事が出来るのか」
「あの子を弱々しい、とおっしゃるのでしたら、わたしもそうなのでしょうか」
 ジョスは言った。確かに、ミルドはまだ痩せてはいるが、仕事が出来ない程ではない。ただ、やはり、スヴェルトの事は恐れているようだった。
「お前はお前だ」
 スヴェルトはジョスから目を逸らせた。
「わたしができることは、ミルドにもできますので、ご安心ください。ただ、あの子はあなたがまだ、恐ろしいらしいのです。そのことも、許してあげてください」
 考え込むように、スヴェルトは顎髭を撫でた。父の滑らかな髭に較べると短く(こわ)かったが、がっしりとした顎には良く似合っていた。
「まだ、子供なのでしょう」
 マグダルを思い出して、ジョスは言った。いかに正戦士として認められようとも、弟は弟だった。子供っぽいところばかりが目についた。
「俺の姉上達は、あの位で結婚されたぞ。女なら子供ではないだろう」
「遠征で連れて来られた女は、子供と変わりませんわ。よほど、恐ろしい思いをしたのでしょう。あなたは戦士ですので、どうしてもそのことを思い出してしまうのかもしれません」
 自分の口から、よくもまあ、これだけのでまかせがすらすらと出て来るものだとジョスは我ながら感心した。
「だが、奴隷である以上は、働かん事には困る。給仕を女主人にさせるなど、もっての他だ」
「そのように大きなお声をだされるから、怯えてしまうのです」
「地声だ」
 むっとしたように言うスヴェルトに、ジョスは微笑んだ。さっと、潮焼けしたスヴェルトの顔が赤くなったように思えた。拗ねたような表情さえもが、この人らしい、と感じた。この人自身の中にも、子供の部分があるのだろう。それが、あの笑顔と笑い声を生み出しているのかもしれない。
「前にも申しましたように、あなたが恐ろしい人ではないと分れば、きちんと役目を果たしましょう」
「奴隷を使うのは、お前だからな」
 完全に納得したようではなかったが、それでも、スヴェルトは譲歩した。ジョスにとってはそれは大きな意味を持っていた。少なくとも、スヴェルトは、ジョスをここの女主人と認めてくれている、という事だった。


 その日、市場に行くと、浜辺が急に騒がしくなった。
 口々に鰯が浜に来た事をふれ回りながら、集落の者達が駆け出して行った。
「奥方様、鰯が来たようですぞ。浜で好きなだけ、持って帰って構わないのですよ」
 こうしてはいられない、とばかりに、肉屋の者も店じまいを始めた。
「こういう日は、わざわざ肉を買う者はおりませんしね」
 ミルドと顔を合わせ、ジョスはにっと笑った。
「浜へ行きましょう。魚は大丈夫かしら」
 頭を振るミルドの腕を、ジョスは引いた。「なら、籠を持ってついていらっしゃい。ここで引いたら、海神の民の名折れよ」
 浜では、既に大勢の者が波に打ち寄せられている魚を捕っていた。近くの海面に、海豚の姿があった。追い込まれて来たのだ。
「本当に、持って行っていいのね」
 ジョスは近くの女奴隷に訊ねた。
「はい。わたしも、ご主人の命令で参りました」
「ミルド」ジョスは娘に声を掛けた。「あなたは下がっていなさい。ここは、わたしがやるわ」
 ジョスは活きのいい魚を手摑みにした。島では、女戦士になる前には追い込まれた鰊や鰯を、よくこのようにして捕ったものだった。今では遠くなってしまった故郷だが、それと同じような場面に遭遇するとは思いもしなかった。
 魚を捕っては、萌黄色の長着をたくし上げた中に放り込んで行く。はねる尾鰭や潮と魚の臭いも、馴染みのものだった。
 長着の隙間が一杯になると、ジョスはミルドの方へと戻った。そして、中身を籠に空けると再び群衆に混じった。
 次に戻る時、少し離れた岩場から戦士達が浜の様子を見ている事に気付いた。スヴェルトは長剣の柄の上に重ねた手に顎を乗せ、岩に座って人々の様子を見ていた。ジョスの存在に気付いたのかどうかは分らなかった。
「スヴェルトさま」
 ジョスは今度はミルドの所へは行かず、スヴェルトの方へと小走りに近付いた。
「大漁です。今日は鰯の包み焼きにしましょう」
 長着の中で、まだ生きている魚を見て、スヴェルトは笑った。
「楽しいか」
「はい。島にいた時の事を思い出します」
「それは良かった。だが、慌てて転んでくれるな。皆が見ているぞ」
 スヴェルトの部下の戦士達が、岩場のあちらこちらで、にやにや笑いながらジョスを見ていた。顔に血が上った。
「わたしは、そこまで粗忽者ではありません」
むっとしてジョスは言った。そして、戦士達に背を向けるとミルドの元へと駆け寄って行った。

    ※    ※    ※

 浜に鰯が来たという報せに、スヴェルトはのんびりと腰を上げた。戦士が関わる事ではなかった。だが、そのような事はないとはいえ、秩序を乱す者がいないか見張るのも仕事の内だった。小競り合い程度ならば、出番はないだろうが。
 浜では、奴隷も自由人も一緒になって鰯を捕りに集まって来ていた。その中にジョスの姿を見た時には、一瞬、見間違いではないかと思った。だが、若い女奴隷を連れ、明るい笑顔で浜にやって来たのは、確かに自分の妻だった。
 ジョスは奴隷娘を群衆から離れた場所に立たせ、自分が鰯を捕りに行った。
 逆ではないか。
 スヴェルトは瞠目した。
 だが、ジョスの生き生きとした姿からは目を離す事が出来なかった。
 自分の妻は、あれ程、活動的だっただろうか。
 水飛沫を浴びても平気な顔で笑っている女は、本当にジョスなのか。
 たくし上げた長着に魚を入れ、奴隷娘の持つ籠に入れる様子は、漁民の娘のようだった。
 だが、眩しかった。
 ジョスが自分の方へと向かって来た時も、満面の笑みをたたえ、正視するのが難しい程だった。
 そうだ、この女は海の民の娘だった、と思い出した。海に生き、海に死ぬ事を矜持とする部族の娘だった。
 戦士階級の妻としては、あるまじき行動だった。だが、スヴェルトは、楽しげなジョスを制する事は出来なかった。また、したくもなかった。この島に輿入れして以来、初めて見るその姿は、輝いていた。
 他の者達は何かと煩い事だろう。特に義姉は。だが、それがどうしたと言うのだ。ジョスは今、幸せそうにしているではないか。
「なかなか、面白い奥方様ですな」
 ヨルドが側に来て言った。
「面白いか」
 不機嫌にスヴェルトは言った。この男は、ジョスの前ではいつもしかつめらしい顔をする。お陰で、ジョスはヨルドを真面目な男と信じている節がある。
「悪い意味ではありませんよ。いい奥方様です」平然として、ヨルドは言った。「家庭的な方ではありませんか。それに、細身ですが美人で、芯は強そうで、戦士の妻として理想的でしょうな。さすがに海狼殿の御息女であらせられる」
 そして、声を落とした。
「団長、惚れているのでしょう」
 スヴェルトは思いがけない言葉に、ヨルドを凝視した。
「ずっと、奥方様ばかりをご覧になっていらっしゃる」
「お前の知った事か」
 吐き捨てるようにスヴェルトは言った。
「そうですね。しかし、早めに認めて降参した方が、身の為ですぞ。男はどうしたっても女には勝てはしないのですから」
 にやりと笑ってヨルドは言った。
 惚れているのでしょう。
 スヴェルトはヨルドの言葉を心の中で繰り返した。その意味が良く分らなかった。群衆の中にいる自分の妻の安全を見守るのも、夫としては当然の事だろうに。
 やがて、魚を捕り尽くしたのか、浜に人はまばらになった。あの奴隷娘の姿もなかった、部下達も戻って行った。だが、ジョスはまだ、子供達と一緒になって波と戯れていた。あのような暮らしを、ジョスは島で送っていたのだろうか。常識に縛られる事なく、自由に生きて来たのだろうか。
 だとすれば、ここでの生活は息が詰まるだろう。しきたりだの何のと、煩い義姉がいる。海狼の娘だという事で、人々の目もある。
 ひらりと衣を翻して波をよけるジョスは、まるで海鳥のようだと、スヴェルトは思った。細い足首どころか、ふくらはぎの中ほどまでもが見えている。部下達がいなくなっていたのは幸いだった。普段は見えない女の脚は魅力的である。北海の戦士の事だ、よからぬ事を口にしないとは言い切れない。
 このようにして見るジョスは、小屋の中で安穏と暮らす鶏共とは違う。誰にも縛られない自由な心を持っているようだった。
 今更ながらに気付くとは。
 あれは、迂闊に手を触れてはいけない類いの者だ。
 海狼やイルガスのように、自分とは全く異なった世界に住む者だったのだ。
 スヴェルトの視線に気付いたのか、ジョスが笑顔を向けた。スヴェルトは頷いた。
 だが、手放す事は出来ない。最早、ジョスはこの島の人間となったのだ。自由に戻してやりたくとも、周りはそれを許さない。
 では、自分はどうなのだろうか。ジョスを自由に出来るのだろうか。
 分らなかった。
 考えたくなかった。
 ジョスの目の中にあるものが何であるのか、スヴェルトには見当も付かなかった。
 ただ、自分とは異なったものを――世界を見ている気がしてならなかった。
 若い者達から憧憬と賞賛の目で見られる事には慣れていた。それは、戦士としてのスヴェルトを評価しての事だ。女共にしたところで、それは変わらない。
 だが、ジョスは違う。
 初めて顔を合わせた時から、その目には見た事のない光がたたえられており、スヴェルトを戸惑わせた。厄災としか言いようのない夜を経てさえも、それは変わらなかった。その一事が、一層、スヴェルトを不安にさせるのだった。
「あなたの奥さまは、まるで子供ね。本当に二十六なのかしら。まるで幼妻じゃない」
 聞き慣れた女の声がした。
「大人のあなたには、全く不釣り合いだわ。あれでは、あなたを満足させられないはずね」
 その言葉に、スヴェルトは応えなかった。応える必要もないと思った。誰に、何が分ると言うのだろうか。自分でも分らぬものを。誰もが口にしないが、不釣り合いなのは、自分の方ではないのか。
「今夜、いらしてくださるのでしょう」
 媚を含んだその言葉に、スヴェルトはむしろ煩わしさを感じた。
「その気になればな」
 女の方も見ずにスヴェルトは答えた。機嫌を損じたように、女は離れて行った。
 ジョスは笑いながら子供達と別れていた。その顔が、スヴェルトを見た。笑顔が、消えて行く。スヴェルトの機嫌を気にしているのかもしれない。ならば、自分は妻の子供っぽい行為を何とも思っていないというところを見せねばなるまい。それも、夫としての務めだろう。
 スヴェルトは立ち上がり、長剣を吊すとゆっくりとジョスに近付いた。
「随分と、楽しそうだったな」スヴェルトは努めて明るく言った。「子供と遊ぶのは好きか」
 口にしてからしまったと思った。
「はい、弟や、従弟妹を思い出します」
 恥ずかしげにジョスは言った。スヴェルトにとっては都合の良い方にとらえてくれたようだ。
「女というものは、皆そうだろう」
 義姉上は例外だが、とスヴェルトは心の中で付け加えた。
 触れたい、と思った。だが、そのような事をすれば、自制が利かなくなるのは目に見えていた。それだけは、避けたかった。
 嫌われたくは、なかった。
 それが、ヨルドの言う「惚れている」という事なのかどうか、スヴェルトには分らなかった。女は直ぐに、愛だの恋だのと言う。だが、戦士に色はあっても恋はない。そのような不確かなものに振り回されるのは御免だった。兄のように惚れた女がいると言って憚らぬ者は、さっさと戦士を引退して正解だ。
 では、ジョスに嫌われたくはない、というこの気持ちは何なのだろうかと思った。
 恐らく、今の暮らしが兄の館にいた時よりも快適だからだろう。敷地内の離れとは言え、自分の家だ。ジョスは決して小言は言わないし、不機嫌になる事もない。いつも、スヴェルトを心地よく過ごさせてくれる。美味い食事に清潔で上等の衣服が、常に苦言の一つもなく用意されている。
 だからと言って、奴隷のように全て言いなりになるような、つまらぬ女ではない。共にいると心が落ち着く。それに、先程のように、思いもかけぬ姿を見せてくれて退屈もさせられない。それ以上を望むのは贅沢だろう。
「今日は鰯の包み焼きと言ったな」
「香草をたっぷりと使いますから、魚臭さはありませんわ」
 ジョスは微笑んだ。「でも、わたしの方が、魚臭いですわね」
 スヴェルトは大声で笑わずにはいられなかった。
 ジョスの美しい萌黄色の長着は、鰯の鱗や血ですっかりと汚れてしまっている。
「そのようにお笑いにならなくても、よろしいではありませんか」
 機嫌を損じたようなジョスに、スヴェルトはようやく笑いを止めた。
「その綺麗な服を汚した事よりも、魚の臭いが気になるとはな」
「服など、着替えて洗えばよいのですから」
 目を細めてスヴェルトはジョスを見た。
 やはり、不思議な女だ。普通、女は自分の服が汚れる事を気にするのではないのか。男の服の汚れにも、文句を言うものではないのか。少なくとも、母や義姉はそうだった。
「まだ、笑っていらっしゃるのですね」ジョスが言った。「なら、今日の鰯は全部、塩漬けにしてしまいましょうか」
「それは話が違う」スヴェルトは慌てて言った。「今日は香草入りの包み焼きだろう。どんな物かは、食った事がないから分らんが、俺の腹を満足させてくれるのは、お前の料理だけなのだからな」
「冗談です」
 ジョスの笑顔は綺麗だと、スヴェルトは思った。「ちゃんとご用意しておきます」
 そう言うや、ジョスはスヴェルトの首に腕を回すとその頬に唇付けた。
 そして、軽やかに身を翻すと、小さな海鳥のように駆け去った。
 後には、茫然としたスヴェルトが残された。

    ※    ※    ※

 やってしまった。
 ジョスは走りながら顔が赤くなるのを感じた。
 子供のようにはしゃぎ回ったのもそうだが、調子に乗りすぎた。
 どれほど島に戻ったようで楽しかったとはいえ、スヴェルトの頬に自分から唇付けるとは。
 スヴェルトを好きだという気持ちは、共に過ごす日々が長くなる分だけ、増すばかりだった。しかし、スヴェルトは自分の事を妻として遇してくれるが、果たしてそこに愛情があるのかどうかは分らなかった。
 戦士は愛情を信じない。
 そう、ウィーラの父は言った。愛することを恥だと思っている、と。
 では、どうすればスヴェルトの心を知る事が出来るのだろうか。自分の事を、どう思ってくれているのかも分らない。寝床を共にしても、二人の間には何もない。酔って眠るスヴェルトの傍らで、ただ眠りにつくに過ぎない。それが、本当の意味での夫婦のあり方ではない事くらいは、ジョスにも分っていた。それを変える事が出来るのは、スヴェルトの気持ち次第なのも。
 愛情を持って貰ってはいないかもしれない、という思いから、涙しそうになる事もあった。
 離れに帰り着くと、ジョスは直ぐに水浴と着替えをした。洗濯は、早い内に済ませなくてはならない。
 魚はミルドが厨房に置いていてくれていた。今、ミルドは寝具を調えてくれているようだった。
 急いで井戸端で長着だけを洗った。臭いを消す精油を使い、丁寧に洗った。その後は良い香りのする精油入りの水で濯いで干すだけだ。ただ、それだけの事なのに、ここの人々はそれを最下位の奴隷の仕事だと言う。確かに、手も荒れよう。冬に水を使うのも厳しいものだ。だが、それを厭う気持ちが、ジョスには理解出来なかった。誰かがやらねばならない仕事には違いなかった。それに、島の療法師達の作る軟膏は、良く効いたものだ。洗い物の後に直ぐに使えば、全く手が荒れる事もない。その処方も教わってきた。
「奥さま、またご自分でなさったのですか」
 ミルドが見咎めて言った。「そのような事は、わたしがいたします」
「あなたは、取り込んだ洗濯物を検めてほしいの。旦那さまは、あのような方だし、ドルスも身体を使う仕事でしょう、特に念入りにお願いするわ。それが終わったら、料理にかかりましょう。足が早いのに、山ほどあるのだから、余った分は塩漬けと干物にしたいし」
 ミルドは良く働いてくれた。未だにスヴェルトの前には出る事が出来なかったが、庭で遠目になら、挨拶も出来るようになった。それだけでも、今のところ、スヴェルトは不満は言わない。
 巨熊スヴェルト。
 まるで族長のような呼称だが、名のある戦士にはそのような名が付くものだと、ここに来て知った。敵味方の別なく、その名を聞くだけで戦歴や武勇を知るというものらしい。詩にも謳われる。
 族長達に与えられる名も、そう言った意味がある。だが、厳しくも優しい父を知るジョスには、名を耳にした襲撃船の者達が恐慌を来す様は今ひとつ、想像が付かなかった。
 それでも、父は無駄な殺しはしない。
 スヴェルトはどうだろう。
 他の部族の遠征については、ジョスは良く知らなかった。ウィーラの父も多くを語りたがらなかった。ただ、母の部族が、この島の者の遠征によって皆殺しの憂き目に遭った事は知っていた。
 皆殺し。
 言葉だけでもぞっとするような出来事だ。沿岸の村を襲う部族にとっては、それ程珍しい事ではないのかもしれない。ドルスも故郷を失ったと言っていた。
 スヴェルトのあの笑顔の陰に、どれ程の血が流されて来たのかを考えたくはなかった。
 だが、この夏の終わりにスヴェルトが遠征に出ると、嫌でも知る事になるだろう。戻った時の掠奪品から、大体の事は察せられるだろう。また、村人達の話の中からも、それは分るだろう。
 スヴェルトは、自慢話をする人ではない。それならば、とうにジョスは聞かされているはずであった。実際には、巨熊の呼称の意味すら、ドルスの口から出るまでは知らなかった。
 北海の戦士は、ジョスの部族と同じように、やむにやまれぬ事情から掠奪を始めたと聞く。だが、この島の様子を見る限りでは、その心配も薄れているようだった。掠奪する事が、当然の事となっているのかもしれない。戦士階級、という身分の存在が、それを示唆しているように思われた。戦いに生き、戦いに死ぬ事を名誉と思う人々だ。島の者が海に生き、海に死ぬ事を矜持とするのと変わらないだろう。そして、戦士階級は部族の人々の尊敬を集めている事も知った。
 何もかもが、島とは違っていた。島では、ほぼ全ての物が平等に分配されていた。唯論、遠征に出かける者には、帰還の折にはそれなりの報酬が与えられる。危険な狩猟の参加者も、当然ながら分け前は多い。族長家も、客人のもてなしや集会の際には、他よりも良い部位の肉や状態の良い物を使用する事になる。だが、殆どは、共同作業によって得られる物の為、不公平のないように管理されている。作業に参加出来なくなった老人や病人に対しても、それまでの働きに対する対価として、変わらずに分けられる。寡婦や独り身の女性も、様々な仕事に従事する事によって、糧を得ている。
 皆が協力しなければ生きては行けぬような、そんな場所だ。穀物の収穫も安定してはおらず、だから、海賊行為で糧を得なくてはならない。食糧以外の掠奪品は、交易島で穀物を購う為に使われる。貴金属は潰されて細工物となり、やはり、交易島で使われる。
 では、市場も集落に存在し、充分な収穫もあるように思えるこの島の人々にとり、掠奪とは、どういった意味を持つのだろうか。
 ジョスには分らなかった。
 きっと、スヴェルトにも分らないだろう。それを、当然の事として生きて来た人なのだから。
「奥さま、大丈夫ですか」
 暗い顔付きをしていたのだろう、ミルドが心配そうに言った。
 いつの間にか、鰯を捌く手も止まっていた。
「少し、考えごとをしていただけよ、気にしないで。さあ、あなたも手伝って」
 ジョスはミルドに鰯の捌き方を教えた。
 最初は気持ち悪がっていたミルドも、直ぐに慣れた。丸々と太った立派な鰯だったので、頭と鰭、骨、内臓は肥料にする為に取っておいた。後でドルスに埋めて貰えば良い。夕餉に使う分を別にし、塩漬けを済ませた。
 次に、小麦粉と卵、乳酪等で包む皮を作った。それを休ませる間に、中身の準備だった。
 様々な香辛料と香草を新調に調合すると、乳鉢ですり潰した。良い香りが、厨房に広がり、ミルドが感歎の声を上げた。
「こんな良い香り、初めてです」
「旦那さまは、魚を余り好んで召し上がらないから、食欲を出していただけるように、少し多めに調合したの。魚を好む人には、少し多いわ」
 来年の族長集会で、ミルドとドルスを島へと行かせるつもりだった。まだ、その事は話してはいなかったが、魚の調理や香辛料、香草について知っていて損はない。

    ※    ※    ※

 本当は余り好きではない魚料理だったが、ジョスの作った包み焼きは絶品だった。ただ、量が多く、さすがに食べ切れなかった。
 遠征では、どうしても魚が多くなってしまうし、男の料理は単調だった。当番制の為、この世の物とは思えぬ物を作る奴もいる。兄の館でさえも、魚はそのまま焼くか揚げるかくらいしかない。
 だが、ジョスはどうだ。
 スヴェルトは感心した。さすがは海の民の娘だ。これなら、魚料理でも充分に楽しめる。鰯のような魚でも、手を掛ければこんなにも素晴らしい料理になるとは思いもしなかった。
「少し、多すぎましたわね。残りは朝餉に回しましょう」
 ジョスの言葉に、スヴェルトははっとした。
「麵麭に包みますか。乾酪をかけて焼きましょうか」
 スヴェルトは腹を撫でて少し考えた。
「それは、お前に任せよう。お前の、美味いと思う方にしてくれ」
 にっこりと笑うと、ジョスは食卓を片付けた。本当に、いい嫁だと改めて思った。料理上手の女は、やはり、良かった。今でも、料理は奴隷の仕事だという気持ちは拭えなかったが、同じ事を出来るとは思えなかった。これ程の物を作れるのならば、許して良かったのだろう。
 いつものように、ジョスに戦士の館へ行く事を告げた。


 戦士の館では、大勢の者が集っていた。
 だが、ここに所帯持ちは殆どいない。いたとしても、早々に切り上げて帰るのが普通だった。結婚した途端に、足が遠のく。嫁に遠慮しているのだろうか。それとも、家の方が、仲間と共に過ごすよりも楽しいのか。
 スヴェルトは卓に足を乗せ、寛いで杯を手にした。
 遠征へ出れば、どのみち、四六時中、顔を合わせなければならない者達だ。自分の背中を預ける事もある。生死ぎりぎりの中で、互いに信頼を置く兄弟だ。スヴェルトは、部下達が楽しげに酒を酌み交わし、或いは諍う事のあるこの場所が好きだった。見習いと独身の戦士はここで起居を共にする。独身を貫いた叔父には、ここで育てられたようなものだった。
「団長、今夜も遅くまでいらっしゃるお積もりですか」
 ヨルドが杯を手にやって来た。
「お前には関係なかろう」
 スヴェルトは追い払う仕種をした。だが、ヨルドはスヴェルトの側に椅子を引き寄せて座った。
「宜しいのですか、毎晩。もう独身ではないのですから、少しは奥方様の事もお考えになった方が…」
「関係ない、と言っただろう。お前こそ、とっとと女房子供の所へ帰ったらどうだ」
「――私は適当に帰りますがね。団長が酔い潰れてお帰りになる事がよくあると耳にしたもので」
 それは確かだ。反論のしようがなかった。
「あの家は、俺には狭すぎるのだ。あの食卓で、脚を伸ばして酒が呑めるか」
「確かに、一理ありますな」
 ヨルドもそれは認めた。
「大体、折角買った奴隷が、よりによって、この俺を怖がって寄って来んときている。それを可哀想だと言う女房に、酌がさせられるか」
「成程」そう言って、ヨルドは笑いを漏らした。「さすがの巨熊スヴェルトも、奥方様の言葉には勝てぬ、という訳ですか」
「何が言いたい」
「御自分で仰言ったでしょう、今。奴隷を可哀想だと奥方様が仰言ったら、引き摺ってでも仕事をさせろとは、命じられない」

は優しすぎるのだ。命令したところで、応じまい」
 スヴェルトは杯をあおった。
「では、やはりお認めになるのですね」揶揄うようにヨルドは言い、スヴェルトの杯を満たさせた。「それは、惚れている証拠ですな。惚れた相手に、男は勝てやしませんからね。おっと、これは昼間にも言いましたっけ。まあ、遠征も近付いている事ですし、ここで聞こし召すよりは、奥方様の側の方が良いんじゃありませんかね」
 くそ忌々しい。
 スヴェルトは苛立った。
「奥方様に宜しくお伝えください。私はこれで退散いたしますので」
 気配を察したのか、そう言うと、ヨルドは立ち去った。
 惚れていようがいまいが、それが何の関係があると言うのだ。そのような事、誰が気にするというのか。既に、夫婦ではないか。綺麗で気立てが良く、家政上手なら、誰しも満足するものだろう。少しくらいは相手に寛容にもなろう。
 誰もが、自分の決めた相手と一緒になる訳ではない。
 遠征が近付いている事も分っている。夏の終わり、風向きが変わると、あっと言う間にその日が来る。船団を率い、大陸沿岸の村を襲う。そして、冬の初めまで戻る事はない。
 護りを固めている地を攻撃する事があれば、こちらも相応の血を流す覚悟で臨まねばならない。生命を落とす者もいる。板子一枚下は地獄の海で、嵐で沈む船も出る事もある。それ程に、遠征は過酷な戦士の仕事だ。そして、その間、家を守るのは女だ。
 ジョスにもそれは出来るはずだ。北海の女なのだから、遠征での家族の死は覚悟が出来ているはずだ。
 戦士階級の女達は、遠征で死んだ家族を誇りにするが、無論、スヴェルトに死ぬ気はなかった。自分の、北海の男の生き方を貫き通す事こそが、スヴェルトの「生」だった。それが出来なくなった時こそが、自分の命運の尽きる時だと思っていた。
 だから、その時その時を、自由に生きる。
 誰にも、何にも縛られずに、生きる。
 ――いや、それは自分だけではない。
 スヴェルトは、はっとした。
 それは、自分がジョスに感じた事ではなかったか。
 昼間に見た、眩しく輝くジョスに感じた事ではなかっただろうか。
 風に乗り、波間を飛ぶ海鳥。
 自分が何ものにも縛られぬと思っているように、ジョスの事は何ものも縛る事が出来ぬと感じたのではなかったか。
 それが、夫である自分であっても。
 何故か、口惜(くちお)しいと思った。北海随一の戦士と呼ばれる自分ですら、自由に出来ぬものがある。
 ジョスの心は自由だ。また、その身も自由だ。スヴェルトの妻に納まっているとはいえ、その行動を制限する事は、誰にも出来まい。スヴェルトでさえも。
 その事実を突き付けられて、スヴェルトは苛立ちを抑えられなかった。
 立て続けに何杯か蜜酒をあおった。
 羽を毟り取って、自分の貞淑で従順な妻でいさせられる事も出来る。だが、それではジョスはジョスでなくなってしまう。
 自分はどちらを選びたいのだろう。
 

、ジョスはスヴェルトの良き妻だ。だが、自分達が本当の夫婦なのかと考えた時に、出る答えは、否、だった。ジョスもそれは分っているだろう。それでも、スヴェルトの世話をし、家事もこなしてくれる。ジョスは、何時でも与える側だ。それに対して、自分がジョスに与えた物には、一体、何があるのだろうか。贈り物としては、後朝(きぬぎぬ)の指輪しかない。それも適当に選んだ物だ。結納財も、義姉に任せきりだった。それなりの――いや、部族の女達よりもかなり自由な裁量を与えているかもしれない。だが、族長の弟の妻であるジョスに対しては、それは当然の事だろう。兄の子達が上でも十歳と幼い今は、ジョスは女としては義姉に次ぐ地位にいるのだ。それなりに遇してもおかしくはない。
 だが、それは飽くまでも公的なものだ。
 私生活での不満は、ジョスは一切、口にはしないし、態度にも出さない。むしろ、この無骨で不器量な自分を慕ってくれている節もある。
 初めての男だからか。
 北海の女の常として、地位と名声のある男には弱いからか。
 それとも、夫だから、そうせねばならないと思っているのか。
 ならば、自分よりもずっと男前で利発な男が現れれば、ジョスの気持ちはそちらへと行ってしまってもおかしくはない。そんな男なら、山ほどいる。
 ジョスは綺麗だ。
 他の男から見ても、そうだろう。そんなジョスを、遠征の間にどこかの不心得者が口説きにかからぬとも限らない。唯論、部族の者ならスヴェルトの事を恐れてはいるだろう。だが、もし、ジョスが愛だ恋だのを囁く男に心を奪われてしまったら、どうなるのだろう。
 例えば、兄の直属の戦士達。
 或いは旅の詩人。
 あの男前の奴隷――
 殺してやる。
 スヴェルトは思った。
 人の女房に手出しをする奴は、例えそれがどこぞの族長の後継者であろうとも、殺してやる。集会で族長裁判にかけられても、恐ろしくはない。
 ジョスは無実だ。
 それは分っている。罪があるのは、何時でも男だ。誘惑する者も、妻を誘惑されないようにしっかりと繋ぎ止めておけない者も。
 では、ジョスを繋ぎ止めるには、どうすれば良いのか。
 簡単だったが、それはスヴェルトには最も難しい事でもあった。
 子供を作れば良い。
 自分が父親としては駄目な男であっても、ジョスは子供を立派に育て上げるだろう。その事に関しての不安は全く、なかった。
 だが、それ以前の問題だった。
 スヴェルトは、新床での出来事が忘れられなかったし、ジョスも当然、そうだろう。余りにも、悲惨だった。
 もう一度、ジョスとそう言った関係を持つ事が出来なかった。気まずいのも唯論、拒否されるのならばまだしも、再び、あのような事になってしまえば、これまでの穏やかで平和な日常とは縁遠くなってしまうのは目に見えていた。時間が経てば経つ程に、ジョスに触れ難くなってしまうとは、思いもしなかった。
 大抵の事は、時間が解決してくれる。だが、毎日、顔を合わせていてさえ、時間は解決どころか、余計に問題をややこしくしているようだった。
 スヴェルトは、無意識の内に、ジョスが唇付けた頬に手をやっている事に気付いた。
 嫌われてはいない。
 今のところは。
 自分も、少しはこういった好意を見せるべきなのだろうか。一度ならず、その機会はあった。だが、恐ろしくて出来なかった。
 スヴェルトは、ジョスに出逢って、初めて恐ろしいという事を知った気がした。
 戦いで死ぬのは恐ろしくはない。初陣での震えはもう、忘れてしまった。だが、ジョスに嫌われる――或いは拒否されるのは、恐ろしかった。
 その恐怖が、同じものなのかどうかは分らなかった。
 しかし、恐怖を感じる事自体が、スヴェルトには許せなかった。
 全てを振り切って、本能のままに行動出来ればどれ程楽だろうか。
 そのような事を考えるのは、初めてだった。
 (かぶり)を振ると、スヴェルトは立ち上がった。
 考えると頭痛がしそうだ。
 なら、明日でも良い。
 今夜は、誘ってきた馴染みの女を(おとな)おう。あの女とは長い。急に訪れるスヴェルトにも慣れている。
 ジョスの事は、また、考えよう。
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