【読書日記】朝吹真理子 きことわ

文字数 1,201文字

 朝吹真理子は日本の純文学作家のなかでも極端に寡作の人として知られている。文壇デビューしてから約10年間、中編2冊、長編が1冊、エッセイが1冊といった具合である。

 寡作であるのには理由がある。朝吹氏は小説を書くことを「一文字先が見えない作業」と云う。脳内に現れたビジョンを一旦絵にして、それから文章にするそうだ。それも非常に短い言葉として。

 こんな製作方法では当然のことながら物語は生まれない。時間もかかるだろう。出来上がった文章のかけらから使えそうなものを集めて、パズルのように当てはめていく。比喩でもなく、気が遠くなる作業だ。

 しかし、この途方もない作業の後に生まれる小説は製作に使った労力と時間に見合った美しさをもつ。朝吹真理子の名を広く知らしめたきことわともその一つだ。

 きことわは10代の頃にひと夏を過ごした貴子と永遠子が25年後に再開するというお話だ。

 日本の純文学の潮流でいけば、きことわは二人の女性の半生を描いた作品になっていたであろう。実際、貴子と永遠子が再開してからは一方では不倫について、他方では出産と子育てについての話題が出てくる。普通なら不倫と子どもをテーマにして女性として生きることの困難と屈折を描きたくなるものだが、驚くべきことにこの作品はそうはならない。不倫や子どもというテーマは華麗にスルーされる。子育てについての描写はその後も出てくるが、中心的なテーマにはならない。かわりに描かれるのは25年前のひと夏の思い出だ。

 では、きことわは40代の女性二人の友情物語なのだろうか。そういった見方もできるが、本質はそこではないと思う。

 物語の終盤、貴子と永遠子の思い出が互いに食い違っていることが判明する。思い出の内容が微妙に違うのだ。そして、貴子と永遠子は思い出をひとつに擦り合わせようとはしない。まるで違う世界で生きてきた平行世界の友達と昔話をするように、過去が重ならないことが当然のことかのように振る舞う。

 つまり、この物語は思い出を懐かしむ話ではなく、夢と幻に耽溺する話なのだ。不倫や子どもが中心的なテーマにならないのは当然で、それらは常に現実を生きることで経験する困難の産物であり、夢と幻の世界には登場し得ないものだ。貴子と永遠子は互いに夢と幻の世界に行くための入口であり、互いになくてはならない存在なのだ。

 朝吹真理子は虚構を現実と対応させようとは考えていない。虚構を虚構として描き、読むものを虚構の世界に引きづり込む。

 昨今、文学の世界では現実世界の艱難辛苦をどれだけリアルに描けるかが作品の評価に繋がる傾向が強くあるように思う。それも非常に重要なことだ。読む者に勇気と救いを与えるから。しかし、物語は虚構だからこそ読む物に勇気と救いを与える。物語の力を忘れてはいけない。キリストに救われるアジア人のように。25年前のひと夏の思い出が貴子と永遠子を救ったように。
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