パニュキス その3
文字数 2,388文字
あるときキュモンは、パニュキスにささげる歌を作ります。詩も、曲も。
それを聞きつけた近所のお姉さんたちが、「歌って」と彼にせがみます。
この「小さな男の子が、大好きな女の子にささげる歌を歌って、それをおとめたちがとりかこんで聞いている」というのが、例のアンドレ・シェニエさんの作った愛らしいスケッチ風の詩でした。
つまり、もとの詩はここまでの話で終わっている、ということです。
歌を聞いて、お姉さんたちはいっせいに「キュモンをほめたり、かわいがったり」します。あるある。わかるわかる。
さて、ここからです。運命の輪が回りだすのは。
詩、というものは、きらめく光景を一瞬切りとって、それで終わりにできます。詩人さんや、日本の俳人さんというのはそういう人たちです。それこそパニュキスみたいに、宝物をそこにおいたままでおうちに帰っちゃう。笑
ところが、小説家って、どうしてもその先を考えてしまう人種なんですよね。
「気をつけなさいよ!」と、おとめたちの一人が言います。
「『大きな犬の背なかにのせたりすると、エウローペが牡牛 にのったときみたいに、犬がにげだしてしまうかもしれないから。』
『どの牡牛? エウローペって、だれ?』
『ああ、これは、あなたのおかあさんにきかなくちゃ。いま、あたしたち、お話ししているひまはないもの。』
そういって、おとめたちは、キュモンにキスをすると、海のなかへかけもどっていってしまいました」
お姉さんたちは水浴びをしていただけなんですけど、「海のなかへかけもどっていってしまいました」と言われると、もしかしてこのお姉さんたちも人間ではなくて海の精(ネレイド)だったのかな? と思ってしまった記憶があります。
「キュモンは、おかあさんに、エウローペの話をしてくれるようにとたのみました。
すると、おかあさんは、エウローペの話ばかりか、地下の国につれていかれたペルセフォーネの話やら、月桂樹の木に替えられたダフネーの話やら、しまいには、泉になってしまったアレトゥーサの話などまでしてきかせました」
お母さん!
また、よけいなことを!!
でもこれも、あるある。いかにも大人がやりそうなことです。お母さんに悪気は1ミリもないんです。可愛い息子に質問されて嬉しくなって、調子に乗っていろいろ話しちゃったんだなー。
ギリシア神話にあふれる、さらわれる美女たちのおはなし。
「さあ、こうなると、キュモンは、湖のほとりで、パニュキスとあそぶときも、パニュキスの手をしっかりにぎって、水のなかへはいっていかせませんでした。パニュキスが、たちまち、金色のアイリスやアシになってしまわないと、だれがいえるでしょう。
そしてまた、森にいるとき、キュモンは、パニュキスに花をつませようとしませんでした。地面にあながあいて、地下の国のハーデース王(※冥界神)がでてきて、パニュキスをつれていってしまうと、たいへんだからです」
「しまいには、キュモンは、パニュキスの上に照る日の光さえおそれるようになりました。フォイボスの神(※太陽神)のキスを受けて、パニュキスが、木に変えられてしまうことはないでしょうか?
海べにいけば、パニュキスの足をなぶりに寄せてくる波が、キュモンにはこわくなりました。
そして、夕方、キュモンは、もうパニュキスを犬の背にのせませんでした」
誰がキュモンくんを笑えるでしょうか。
私なんて、子どものとき、ギリシア神話の絵本で「オリオン」のおはなしを読んで——オリオンは剛力の狩人だったのに、さそりに足を刺されて死ぬのです——、さそりが怖くて怖くてひとりで道を歩けなかった時期がありました。
頭ではわかっていたんです。さそりはふつう砂漠やジャングルにいるものだと。うちの近所、いちおう住宅地で道も舗装されてて、そのへんの電柱のかげからさそりが出てきて刺したりとかはたぶんないと。
だから誰にも言えませんでした。笑われるのがわかっていたから。
キュモンくんも同じです。彼も、誰にも言えずに、パニュキスちゃん本人にも言えずに、ひとりで苦しむのです。
しかも彼が恐れているのは自分のことじゃない。愛する人の身の安全なんです。
キュモン!(涙)
「この美しい世界、大地、空、海――そこで、キュモンはいままで、パニュキスを喜ばせるものをさがしもとめてかけ歩いてきたのに――こういうものは、みな、キュモンの目から見れば、パニュキスを危険におとしいれるものになりました。(中略)
キュモンは笑わなくなり、パニュキスの手をとるか、きもののひだをつかんでいるかしました。
パニュキスは、びっくりした目で、キュモンを見ました」
上の最後の一行、「びっくりした
どこが絶妙?
このあたりから、地の文(語り)は、キュモンの視点に固定されるんです。
キュモンの心に密着する、ということです。
前のページで引用したあたりではまだ、パニュキスの気持ちも少し書かれていました(「気がつきませんでした」とか「喜びでした」とか)。
でも、このあたりから、すべてキュモンの目を通して語られるようになります。
「パニュキスはびっくりして」ではなく「びっくりした目で」。
これ以後、パニュキスの内面には、もう語り手は入り込みません。
そのおかげで(そのせいで)、私たち読む者は皆、キュモンとともに歩むことになります。彼の心の動きをつぶさに味わうことになるのです。
パニュキスを愛し、守りたいがゆえに、キュモンは口をとざしてひとり地獄の苦しみに焼かれるのですが、それがパニュキスには伝わりません。
渚の浅い水のように透明で、キラキラしているだけだった二人の関係が、きゅうに深く落ちこみ、影で底が見えなくなります。
まさに、湖そのもののように。
その闇と業火を、私たち読者はこれから体験していきます。
それを聞きつけた近所のお姉さんたちが、「歌って」と彼にせがみます。
この「小さな男の子が、大好きな女の子にささげる歌を歌って、それをおとめたちがとりかこんで聞いている」というのが、例のアンドレ・シェニエさんの作った愛らしいスケッチ風の詩でした。
つまり、もとの詩はここまでの話で終わっている、ということです。
歌を聞いて、お姉さんたちはいっせいに「キュモンをほめたり、かわいがったり」します。あるある。わかるわかる。
さて、ここからです。運命の輪が回りだすのは。
詩、というものは、きらめく光景を一瞬切りとって、それで終わりにできます。詩人さんや、日本の俳人さんというのはそういう人たちです。それこそパニュキスみたいに、宝物をそこにおいたままでおうちに帰っちゃう。笑
ところが、小説家って、どうしてもその先を考えてしまう人種なんですよね。
「気をつけなさいよ!」と、おとめたちの一人が言います。
「『大きな犬の背なかにのせたりすると、エウローペが
『どの牡牛? エウローペって、だれ?』
『ああ、これは、あなたのおかあさんにきかなくちゃ。いま、あたしたち、お話ししているひまはないもの。』
そういって、おとめたちは、キュモンにキスをすると、海のなかへかけもどっていってしまいました」
お姉さんたちは水浴びをしていただけなんですけど、「海のなかへかけもどっていってしまいました」と言われると、もしかしてこのお姉さんたちも人間ではなくて海の精(ネレイド)だったのかな? と思ってしまった記憶があります。
「キュモンは、おかあさんに、エウローペの話をしてくれるようにとたのみました。
すると、おかあさんは、エウローペの話ばかりか、地下の国につれていかれたペルセフォーネの話やら、月桂樹の木に替えられたダフネーの話やら、しまいには、泉になってしまったアレトゥーサの話などまでしてきかせました」
お母さん!
また、よけいなことを!!
でもこれも、あるある。いかにも大人がやりそうなことです。お母さんに悪気は1ミリもないんです。可愛い息子に質問されて嬉しくなって、調子に乗っていろいろ話しちゃったんだなー。
ギリシア神話にあふれる、さらわれる美女たちのおはなし。
「さあ、こうなると、キュモンは、湖のほとりで、パニュキスとあそぶときも、パニュキスの手をしっかりにぎって、水のなかへはいっていかせませんでした。パニュキスが、たちまち、金色のアイリスやアシになってしまわないと、だれがいえるでしょう。
そしてまた、森にいるとき、キュモンは、パニュキスに花をつませようとしませんでした。地面にあながあいて、地下の国のハーデース王(※冥界神)がでてきて、パニュキスをつれていってしまうと、たいへんだからです」
「しまいには、キュモンは、パニュキスの上に照る日の光さえおそれるようになりました。フォイボスの神(※太陽神)のキスを受けて、パニュキスが、木に変えられてしまうことはないでしょうか?
海べにいけば、パニュキスの足をなぶりに寄せてくる波が、キュモンにはこわくなりました。
そして、夕方、キュモンは、もうパニュキスを犬の背にのせませんでした」
誰がキュモンくんを笑えるでしょうか。
私なんて、子どものとき、ギリシア神話の絵本で「オリオン」のおはなしを読んで——オリオンは剛力の狩人だったのに、さそりに足を刺されて死ぬのです——、さそりが怖くて怖くてひとりで道を歩けなかった時期がありました。
頭ではわかっていたんです。さそりはふつう砂漠やジャングルにいるものだと。うちの近所、いちおう住宅地で道も舗装されてて、そのへんの電柱のかげからさそりが出てきて刺したりとかはたぶんないと。
だから誰にも言えませんでした。笑われるのがわかっていたから。
キュモンくんも同じです。彼も、誰にも言えずに、パニュキスちゃん本人にも言えずに、ひとりで苦しむのです。
しかも彼が恐れているのは自分のことじゃない。愛する人の身の安全なんです。
キュモン!(涙)
「この美しい世界、大地、空、海――そこで、キュモンはいままで、パニュキスを喜ばせるものをさがしもとめてかけ歩いてきたのに――こういうものは、みな、キュモンの目から見れば、パニュキスを危険におとしいれるものになりました。(中略)
キュモンは笑わなくなり、パニュキスの手をとるか、きもののひだをつかんでいるかしました。
パニュキスは、びっくりした目で、キュモンを見ました」
上の最後の一行、「びっくりした
目で
」が、絶妙です。どこが絶妙?
このあたりから、地の文(語り)は、キュモンの視点に固定されるんです。
キュモンの心に密着する、ということです。
前のページで引用したあたりではまだ、パニュキスの気持ちも少し書かれていました(「気がつきませんでした」とか「喜びでした」とか)。
でも、このあたりから、すべてキュモンの目を通して語られるようになります。
「パニュキスはびっくりして」ではなく「びっくりした目で」。
これ以後、パニュキスの内面には、もう語り手は入り込みません。
そのおかげで(そのせいで)、私たち読む者は皆、キュモンとともに歩むことになります。彼の心の動きをつぶさに味わうことになるのです。
パニュキスを愛し、守りたいがゆえに、キュモンは口をとざしてひとり地獄の苦しみに焼かれるのですが、それがパニュキスには伝わりません。
渚の浅い水のように透明で、キラキラしているだけだった二人の関係が、きゅうに深く落ちこみ、影で底が見えなくなります。
まさに、湖そのもののように。
その闇と業火を、私たち読者はこれから体験していきます。