12

文字数 1,667文字


 そんなふうに忙しい日々が続いていたある日、帰宅したのは十一時を過ぎていた。玄関のドアを開けると陽介の靴があった。
 いたのか。
 最近は遅くなるもいわなくなった。ソファでくつろいだ様子でテレビを見ていた。
「ただいまー」
 おざなりにいって、簡単にシャワーを浴びようと浴室へ向かった。おかえりなんて期待してない。
 服を脱ごうとして、ぎくりと動きがとまった。
 目についたあるもの。洗面台の中の一本の髪の毛。ウェーブのかかった長い明るい茶色の髪の毛。
 自分のものではない。
 あの女のもの?
 家にあげたの?
 なぜ?
 なんのために?
 猛烈な吐き気に襲われた。えずくのを(おさ)えこみながら水で流した。ふろも使ったのだろうか。シャワーを最大にして、あらゆるものを洗い落とすように天井も壁もざあざあと流した。湯船にお湯が張ってあったが、さわる気にもならなかった。洗面器といすを大量の洗剤をかけてごしごしと洗った。
 それでも使う気にはならない。シャンプーもトリートメントもボディソープもあの女がさわったと思うと、もう使いたくなかった。しかたなく立ったままお湯だけで洗い流した。
 あした、新しいのを買ってこよう。体も心もさっぱりと汚れが落ちた気がしない。なぜここまで(おとし)めようとするのか。真意がわからない。自分はいじめの被害者なのだろうか。
 心がどす黒く汚れていく。悔しくて情けなくて涙がこぼれそうだ。
 ふと悠人の顔が浮かんだ。
 彼のとなりに立つために。
 こんなことに負けてはいけない。
 わたしはEVEだから。
 わたしがオトコをたぶらかすEVEだから。
 大きく息をついて振り切るように顔をあげる。さいわい、化粧品類にはさわった様子はなかった。お気に入りのボディクリームも使ってはいないようだ。
 気持ちを落ち着けるように、ゆっくり丹念にボディクリームをぬりこむ。香りを吸い込むとどす黒い汚れがすこし薄らいだ気がした。
 リビングに行くと陽介はまだテレビを見ていた。見ているふりをして玲奈の様子をうかがっているのだ。試すようにちらちら横目で見ている。
 玲奈は気づかないふりをしてキッチンに直行すると、プロテインを作りはじめた。わざとらしくしゃかしゃかと盛大にふる。時間をかけて作り終えると、ダイニングにすわって少しづつ飲みながら、伸びた爪にやすりをかけた。
 時間は十二時を過ぎいている。
「なあ」
 陽介が声をかけた。玲奈は顔も上げずに生返事をする。陽介はしばらく返事のつづきを待っていたが、玲奈にその気がないとわかると、つまらなそうに寝室に引っこんでいった。
 その姿を視界の端にとらえたけれど、嫌悪感しか感じなかった。
 一時になって、玲奈は除菌消臭スプレーを持ちだして、しつこいくらいソファに吹きかけた。それから寝室のクローゼットからブランケットを持ってきてソファに横になった。寝室に入るとき、吐き気を催しキリッと胃が痛んだ。
 陽介は、玲奈がこのベッドで寝るとでも思ったのだろうか。寝室を出るとき、陽介がごそりと動いたのがわかったけれど、知ったものか。
 もうこのベッドで寝ることはないし、必要以外寝室にも入らない。

 家の中はあの女の気配がどんどん濃くなっていく。置きみやげは多種にわたった。ヘアゴム。片っぽのピアス。パンスト。腕時計。洗面台の鏡にはりついたコンタクトレンズ。
 直接なんてとても触りたくないから、割りばしでそれらをとる。そして割りばしごとごみ箱に捨てる。
 陽介は帰宅するとかならず、メシは、と聞く。用意されていないのはわかっているのに。
 玲奈は自分の分しか用意しない。「いっぱしのモデル」のような食事だ。スムージーだとか。はちみつ入りのスムージーだとか。なんとかオイル入りのスムージーだとか。
「食べてくればいいじゃない」
 玲奈は冷たくいってやる。どこで、誰とまではいわないけれど。
「無理に帰ってこなくてもいいのよ。そのほうがわたしも楽だし」
 陽介は顔を背けて何もいわない。
「それともわたしが出て行こうか」
「バカをいうな」
 バカはどっちだ。胃がキリキリと痛む。
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