第7話 街灯の暗がりで獏を見た。④

文字数 3,250文字

「うう、ああああああああ!」
 ジェットコースターに乗っているみたいに、周りの景色が流れていく。思わず情けない声が漏れるが、それでも足は止めない。死んだように静まり返った住宅街を、全裸の私はバカみたいに突っ走る。
 市街地が近づくにつれて、夜道を歩く人の数も多くなる。蟻のように小さい人たちを踏んでしまうのではないかと、内心ヒヤヒヤしながらも、人々の間を縫うように器用に足を置いていく。特に急ぐ理由もないのに、少しくらい歩いたっていいはずなのに、私は足を止めない。何かに取り憑かれたかのようにどんどん、どんどん速度をあげて走っていく。
 目的地まであと少しというところで、見慣れたあいつが邪魔をする。一級河川と名高い鴨川である。偉そうに若いカップルを等間隔に侍らせて、呑気に京都の街に横たわる、厚顔無恥なあいつである。
 残念ながら目の前に橋はないので、このままでは鴨川に飛び込むことになる。時間はかかるが、上流の橋まで回り込むしかない。ざまあみろ、と鴨川が舌を出しているような気がした。
「なめんなぁ!」
 躊躇したのは一瞬で、私はスピードを落とすどころか、体を前に傾けさらにスピードを上げる。走り幅跳びはやったことないが、たぶんできる。だってこれは夢なんだし。
 いち、に、さんと最後の三歩だけは心のなかでカウントする。三歩目で地面を強く蹴り、私の体は宙を舞う。時間はゆっくりと流れ、風が耳もとで鳴る。
 半分も行かないうちに、私はこの跳躍がうまく行くと確信した。どんなもんじゃい、と足下で寝そべる鴨川に心の中で悪態をつく。
 ……でも、着地はどうすればいいんだっけ?
「ぐえっ」
 乙女らしからぬうめき声とともに、ごろごろと私は地面を転がる。痛くはないが、こうも無様な着地だと、心に来るものがある。ほれ見たことか、と後ろからか鴨川の呆れた声が聞こえた気がした。
 いつまでも地べたと仲良くしているわけにはいかない。体中についた土を軽く払うと、私は目的地へと急ぐ。鴨川を渡るともうすぐだ。多分あの人はまだあそこにいる。
 いくつか通りを走る間も、たくさんの人の頭上を飛び越えるが誰も気づかない。私だけが仲間はずれみたいでなんとなく寂しいが、それ以上に得も言われぬ解放感に心が弾んでいた。
 京都御苑の少し先にある4階建てのビルの前で私は足を止める。周りの建物は真っ暗で、死んでいるみたいに静かなのに、その建物の3階だけは明かりがついている。大きな私からしたら、吹いてしまえば消えそうなちっぽけな明かりの中に、その人はいた。誰もいないのに、パソコンを睨んでぶつぶつと独り文句を垂れている。
 ここでやっと、周りの人のように彼女も私に気づかないのではないかと不安になる。ただ、ここまで来て何もせずに帰ることはできない。ダメ元でありったけの大きな声を出す。
「あ、つ、こ、せん、ぱあああああああいっ!!」
 通いなれた会社のビルは私の声を聴いてくれているみたいで、窓ガラスがビリビリと震える。その中にいる敦子先輩にも私の声は届いているみたいだ。目を丸くして、半開きになった口はいつまでたってもふさがらない。少しの沈黙の後、突然電源がついたみたいに敦子先輩は窓へと駆け寄り、ガチャガチャと慌ただしく開ける。
「あ、あんたっ。なんて格好してんのよ!」
 私の大きさよりも、全裸でいることを先に注意するのは敦子先輩らしくて面白い。
「ちょっと、言いたいことがあって」
 へへ、と笑いたいわけではないが薄っぺらい笑いがつい出てしまう。心の底の緊張を取り繕うかのように、私はゆっくりと噛みしめるように続ける。
「えっと、敦子先輩、昼間仰いましたよね、私がいてもいなくてもたいして変わらないって。」
「……」
 敦子先輩はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、私が話始めたので、言葉を飲み込む。
「それを言われてから、ずーっと心がもやもやしてて、なんでだろうって考えてたんです。」
「ずーっと考えてて、さっきやっと気付いたんです」
「あの、今日の、今日の敦子先輩の言葉に私とても傷ついたんだって。」
 ――あんたがいてもいなくても、たいして変わんないわよ
 会社での敦子先輩の言葉が頭の中に響く。
 私がやりたかったこと、やりたくてもできなかったことはこれだ。自分の心のもやもやを言葉にする。そうすることで何か変わるかもしれない。
「いくら、ミスが多いからって、そんな言い方ないじゃないですか。私だって、気を付けてるんです。敦子先輩に見せる前だって、何回も見直して、見直して、見直して。それでもミスはなくならないんですよ。しょうがないじゃないですか。」
 最初はたどたどしかった言葉も、重ねるにつれてとめどなくあふれてくる。ほとんど私の甘えとか我儘のようなものだが、敦子先輩は黙って聞いている。
「いつもみたいに言ってくれたら直します。何度だって直します。私はそうやって生きてきたんです。これからもそうやっていくしかないんです。それなのに。それなのに――」
 目の奥からあふれてきそうなものをこらえようとして、言葉が詰まる。のどの奥が締め付けられるように痛い。
「わかってますよ。先輩が私のミスのせいで残業してることくらい。私のミスのせいでいろんな人に頭下げてることも」
「私が入社する前に、先輩が女だからって昇進できなかったことも。私が女だからって苦労することがないように、先輩が頑張ってくれていることも、全部わかってるんです。」
「私のせいで先輩が苦労しているのはわかってます。でも、でも――」
 ――私も先輩の力になりたいんです。
 最後の言葉はかすれていて自分でも驚くほどに小さな声だった。
「……せめて、足を引っ張りたくないんです。だから――」
「ああ、もう!」
 突然、敦子先輩は私の言葉を遮るように声を荒げる。
「私の力になりたいですって?あんたよくそんなこと言えたわね。いまだに書類の一つもまともに書けないくせに。コピーすらちゃんとできないくせに」
 先輩の言うことは正しい。視界はぼやけて、のどの痛みはどんどんひどくなる。それでも今は泣いちゃだめだ。
「ただでさえ、女だからって馬鹿にされることばっかりなのに、女だからってだけで損することばっかりなのに、そんな些細なミスばっかりじゃあ、認められるものも認められないじゃない」
 私の会社では、男性と比べると女性は圧倒的に少ない。ましてや、敦子先輩のようにそれなりの役職につくような女性はほとんどいない。そのせいで敦子先輩が悔しい思いをして来たことは、いくら鈍感な私でもなんとなく感じていた。同じ職場で働く同性として、敦子先輩は私をどんな目で見てきたのだろうか。
「あたしだって、いつまでもあんたの面倒見れないわよ。あんたさあ、私がいなくなったらどうすんの?」
 敦子先輩は言い終わると私の目を射抜くように見つめる。いつもだったらここで目をそらしてしまうが、今回は違う。今、私はこの世界の誰よりも大きいのだ、と鳴滝さんの言葉を思い出す。負けるわけにはいかない。
 長い長い沈黙が続く。二人で睨み合ったまま、このまま朝になってしまうのではないか。
「あああ、もう!」
 先に沈黙を破ったのは敦子先輩だった。
「……わかったわよ。あんたがそんなに言うならやってやるわ」
 がしがしといつもはきれいに束ねている髪を乱しながら、敦子先輩は観念したように呟く。
「わかったわよ。あんたのミスがなくなるまで付き合ってやるわよ。その代わり、完璧になるまで帰さないから。」
 覚悟しときなさいよ、と私を見る敦子先輩の目はいつもより少しだけ優しいように感じた。
「はい!」
 ありがとうございます、の言葉が言い終わらないうちにふわりと、浮遊感が私を襲う。いつの間にか私の体は元の大きさに戻っていた。恐怖を感じる間もなく、私は硬い地面に向かって自由落下を始めるのだった。
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