第1話

文字数 4,994文字

 私は魔法を信じない。
 物事には全て理由があり、原理がある。どうして海は青いのかとか、どうして小さな町に祖母と2人で住んでいるのか、とか。きっとそれらにも理由や原理があって、言葉で明確には説明できないけれど、頭の中では漠然と分かっているし、分からなくても生きてはいける。そんな曖昧な世界に住んでいると、魔法なんてものは何の効力も無いのだと思う。だから、私は魔法を信じない。魔法はなんてものは嘘だ。
 午後に降った強い通り雨は分厚い雨雲をこの町に持ってきた。その雨雲はこの町に居座る事を決めたかのようにここ1週間ずっとそこにあった。天気予報を見てみると積乱雲が短い間に出来たり消えたりを繰り返して、たまに大きな雷を鳴らしているようだ。
 その夜、大きな雷の音で目を覚ました私は、目を開けたまま雨の音を聞いていた。雨どいを伝う水音を聞いていると次第に目が暗闇に慣れてきて、周りの風景が浮かび上がってくる。その時、私は雷が苦手な祖母の事が心配になって、部屋を出た。障子戸を開けて長廊下を伝っていくと一番奥に祖母の部屋がある。歩いていると不意に辺りが真っ白になって、数秒の後に大きな音が鳴った。外を見ると雨脚は強くなるばかりで、湿気を含んだ空気は暑さもあって息苦しい。私は祖母の部屋に向かって歩みを早めた。
「おばあ」
部屋の扉を半分開けて中を覗いた。カーテンは閉め切られており、耳をつんざく雷も遠くの出来事のように思える。畳の上には布団が敷かれていて、私はゆっくりと近づいた。
「おばあ、雷だいじょうぶ?」
布団が山なりになっている部分に声を掛けても返事はない。枕元を覗くと祖母の姿がそこには無かった。
「おばあ?」
辺りを見渡しても祖母の姿はどこにもない。私は急いで部屋を出て祖母を探した。化粧室、台所、応接間のどこを探してみても姿は見当たらない。平屋と言っても小さなもので候補を探し切ると他に場所のあてはなかった。小さな洗面所をくまなく探し切ると、出窓が一瞬白く光って暫くして大きな音が鳴った。と、それと同時に家の裏にある井戸の事を思い出した。それは私の直感に近いものだったし、答えのような気もした。この雨の中で祖母がその場所に行くはずなど無いという気持ちと稀に冴える私の直感の不気味さがせり上がって来て、私は勝手口へ急いで向かった。勝手口を開けると雨は激しく打ち付けていて、目の前は白く煙っていた。雨の打ち返りがズボンの裾を濡らしながら、私は井戸を目指した。
 井戸に着いても辺りの事をはっきりと伺う事が出来ない。ぬかるむ地面に足を取られないように歩きながら井戸の周りを歩いた。
「おばあ、どこにいるの」
井戸の周りに生えている木が雨を受け止めて、葉をすり抜けてくる水滴は柔らかくなって地面に向かって落ちてくる。鬱蒼とした木々に囲まれた通り沿いの街灯の光は、木に光の塊が止まっているように見えた。私は吸い寄せられるようにそこへ赴くと、この場所だけ何故か時間の流れが違う別世界のように感じた。水分をじっとりと吸い込んだ苔を踏みしめると、草木の合間に細長い足のようなものが見えた。
「おばあ!」
 私は目を覚ました。
目覚まし時計を止めると午前7時を指していた。外には分厚い雲が垂れこめていて夜みたいに暗い。眠気眼で階段を降りると祖母が朝食の準備をしていた。祖母は「おはよう」と言ってこちらを向くとニコリと笑う。味噌汁の温かい匂いと白米の心地よい湿気が食欲を湧かせた。向かいで味噌汁を啜る祖母を見ながら、私は今朝の不思議な出来事を話すことにした。
「不思議な夢ね」祖母は話を聞き終わるとそう言って腰をさすった。「雷は苦手だけれど、昨日はちゃんと部屋にいたわよ」
 私はひどく記憶に残る夢を見たものだと思いながら、疑問を抱きつつ学校へ向かう事にした。家を出ると専門学校へ向かう細く入り組んだ坂を下る。途中、近所の大吉さんに挨拶をしながら進んでいくと、下り坂から町の景色を見渡せる場所に出た。私はこの場所が好きだ。段々と低くなって遠くに伸びる海の水平線が綺麗で、その先を想像するのが楽しい。教室からはビルに隠されてしまって見る事が出来ないから、海が見えるのはこの場所だけだ。
 専門学校では絵の勉強をしている。絵を描いていると思うことだが、普段は感じる事の出来ないくらいの遠い場所に連れていかれるようだった。それは俗に言う集中や没頭とかそう言う類のものなのかも知れなかったけれども、そう断言してしまうのも何だか違う気もした。もっと私にとって切実に近いものだった。
 時々、私はクロッキー帳を持って町へと出かけた。町の中心部には小さな商店街があって多くの人やモノを観察する事が出来た。人の歩く姿や薬局の看板、空を縫うように走る高圧電線。私は日常に根ざした現実的な絵を好んでいった。だから学校を終えてお気に入りの海が見えるこの場所に来たときは不思議と心が安らいだ。現実的な美しい景色に心が惹かれた。
 私はクロッキー帳を開いて絵を描き始めた。書き始めて暫く経つと、辺りは私だけをくり抜いて音を無くしたように静かになった。紙を滑らかに走る鉛筆が水気を含んだ場所で止まった。すると紙の表面にポツポツとまだら模様が次々と生まれて、一気に強い雨が降り出した。それに気付いたのは数秒遅れてからだった。
「通り雨だ」
私は慌てて軒下に入って雨が止むのを待った。雨が止むのを待つ間、如何に空が灰色で雨が降りそうだったかを久しぶりに知った気がした。
暫く景色を眺めていると、祖母が傘を差さずに坂を上ってくるのが見えた。祖母は雨に濡れていて、坂を上る足取りはぎこちない。
私は急いで祖母の元へ行くと、軒下へと連れて行った。
「急に降って来たわね」
 祖母は息を切らしながら笑うと何だか苦しそうに見えて心配になった。よく見ると体が随分と小さくなったように思う。持っていたハンカチを渡すと、祖母は軒下に立てかけていた私のクロッキー帳に気がついて手に取った。ページを捲る微かで大きな音を聞いていると、私は恥ずかしくなって雨音でそれを誤魔化した。そして、祖母の言葉を待った。
 祖母はクロッキー帳を見終えると私にゆっくりと目を見据えた。そして何も言わずに、優しく笑うと「雨なかなか止まないわねえ」と言った。私は期待していた祖母の言葉を得ることが出来ずに自分の大切な物を迂闊に見せたことを後悔した。少し腹が立った私は、それから無口になって雨が止むのを待った。
 数日も経つと、長いこと町に留まった雨雲は重い腰を上げて水平線の向こうへと消えていくと、雨はぴたりと止んだ。
 たまに私は、どうして祖母と2人で住んでいるのかと考える事がある。それは現状を不満に思っている訳では無く、むしろその逆で幸福だと感じる時に良く思うことで、美味しい味噌汁を飲んでいる時や横になりながらテレビを観ている時にふと思う。そこから更に決まって、私の父と母はどこに居るのだろうと考え出して、結局分からなくなって考えるのを止める。その繰り返しだった。祖母はきっと何か知っていて、いつでも聞き出せるつもりだったが、これを聞いてしまうと奇跡的なバランスで成り立っている私の世界が崩れてしまう予感があった。だから私は父と母の事は分からないままで、生きる事に決めた。分からないままでも幸福だった。
 専門学校ではますます絵にのめり込んでいった。熱心な練習を続けた甲斐もあり、講師に褒められたり、たまにコンクールに応募したりした。町へ繰り出し、いろんな絵を描いては、その都度コンクール入選を目指した。小さな成功体験が次なる具体的な目標と自信を与えてくれた。私はますます絵を描いた。そして、次第に結果を求めるようになった。けれども容易く結果はついてはこない。増える紙の枚数に反比例する結果は私を焦らせた。そして結果に固執するあまりに、私は自分の絵を評価しない人と衝突するようになった。それは、後に友情を予感させるような衝突では無くて、静かな衝突で孤独なものだった。学校で私は、一人になっていった。
 講義を終えた教室の隅で一人残っていると、講師が教室へやって来た。
「知り合いを名乗る方から学校に電話が来ています」
それは大吉さんからの電話だった。
「青ちゃんか。おばあさんが倒れた。すぐに病院へ来てくれないか」
私は町の外れにある病院に向かって走った。
 病院に着くと祖母はベッドの上で衰弱していて、予断を許さない状態だった。
「すい臓がんの末期らしい。別れが近いかもしれん」
 私は祖母の事を考えた。それは本能的なもので贖罪に近かったように思う。やたら腰をさすっていたこと。坂を上った後、とても苦しそうだったこと。そしていつの日に見た夢のこと。思い当たるどの風景も表情も自分が見逃した面がある気がして、祖母を救えなかったことをひどく悔いた。けれども何故か涙は出なかった。
大吉さんはパイプ椅子に腰かけながら風に揺られるカーテンの先を見た。
やはり、この場所からも海は見えない。
 それからは学校が終わるとすぐに病院へ行くようになった。時々、大吉さんも見舞いに来て、祖母との思い出を語った。祖母は変わっていないようにも見えたし、弱っているようにも感じた。そして、少なくとも快方へ向かう事は無かった。
 それから数日後、大吉さんの思い出話がゆっくりと尽きた時、祖母は亡くなった。祖母の傍で付き添っていた私だったが、そのあっけなさに驚いた。それが悲しさよりも先に来た感情だった。もっと劇的で悲劇的なことを想像していた私は、敢えて世界で起こる戦争のこととか、もっと不幸なことを考えて涙を出そうとしたけれど、それでも泣けなかった。涙は枯れたように詰まり、私はそんな自分をやはり悔いた。
とても大切な存在だった祖母なのに。
「そう言えば、最後に話したいことがあったんや」
大吉さんは病院を出た先にあるバス停でそう言った。
 入り組んだ緩い坂道を上り切ると大吉さんは私に手招いた。天井に昇る太陽は、どの場所も明るく照らしていて、私は何か一生の出来事が起こる予感がした。何故ならそこは、私の好きな場所だからだ。とても綺麗な海が見えた。
「この場所は良い場所やと前から思ってね。だから、青ちゃんとここで話そうと思うてな。今更やけれども、おばあさんは君のこと本当の我が子のように大切に思ってたんや。それだけは伝えたくてな」
「『我が子のように』って、どういうこと?」
大吉さんは、ひたすらに海を見ていた。太陽の光で表情が読めない。
私は頭が混乱して大吉さんの肩を掴んだ。
「どういうこと?」
「知らへん方が良いこともある」
大吉さんはそれきり俯いて何も言わない。私はこれまでの思いが走馬灯のように流れて、大吉さんにぶつけた。
「いつかの朝に見た夢は本当に夢だったの?」
「私の父と母はどこにいるの?」
「祖母が死んでも泣けない私は薄情者なの?」
私は大吉さんの胸を叩いた。大吉さんの胸は固くて頼りがなかった。大吉さんは、暫くして私の腕を取ると、まるで祖母との思い出を語った時のように優しく言った。
「知らへん方が良いこともある。それで君も今まで幸せやったはずや。知らないことを知らないままでいることを前提に、今までおばあさんも君も幸せやったんや。やから、どうか知らないままでいておくれ。それがおばあさんへの最後の弔いや」
奇跡的なバランスを保っていた私の世界がゆっくりと崩壊していくようで、何とかそれに抗おうと大吉さんに掴まれた手を振り解こうと力を入れた。
「私はどうすればいいの!」
「君は絵を描け」大吉さんの声は本人の声かと疑うくらい強い声だった。「おばあさん、一度だけ、君の絵を見て、それをずっと誇りに思ってたんやで。『あの子なら大丈夫』って」
 私はその場に座り込んだ。そして泣いた。色んなものを含めて泣いた。せき止めていたものが無くなったかのように涙が止まらなかった。
 祖母は私に魔法をかけた。それは幸福な世界を私に見せるための祖母の嘘だ。今となっては過去を知る事は出来ない。けれども、私はその魔法を信じないと決めた。
何故なら、祖母は唯一の大切な家族だからだ。



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