第18話 小倉城を焼き香春(かわら)宿へ逃れた小笠原忠忱(ただのぶ)

文字数 1,154文字

中間市から田川方面を通り、行橋市観光に行くとき、途中に鉱山があるのか、大規模な砕石運搬の機械等が山の上に設置され、コンベアーが国道の上を跨いで、対面の工場へ岩石を運んでいた。興味が有り、下車して脇道を歩いてみた。街道歩くと神社があり、鳥居を前に老人が、腕組みして、柱を見上げていた。声を掛けると老人は、「この柱を十年に一度山から切り出してくる。来年、新しい木を探し、立てるつもりだ。長年、この仕事に携わっている」と話してくれた。数年前の出来事を思い出した。
 今回、香春宿を歩き、最後に辿り着いたのが、この神社と鳥居と老人がいた所だった。此処は秋月街道の香春宿の入り口だった。
採銅所宿から香春町に着き、役場に車を止め、金辺川の高架歩道橋を渡ると、街道らしき道に出くわした。まっすぐ行っても家並みがあるが、右の方にも家並みと道がある。迷ったが右の道を選んだ。
街道の両側の家並は、白壁土蔵も所々にあり、宿場の面影がある。男性二人が、個人宅を訪問していた。近づく選挙の候補者の挨拶回りだろう。香春宿の情況を尋ねると「この先に藩庁跡があり、宿場通りの史跡案内図があります。向かいに一の岳、廃城となった鬼ヵ城もあった」と説明した。「よくご存じですね」と感心すると「地元に住んでいますから」と応えた。状況を詳しくすらすらと語るのは、狭い町だからなのか、仕事柄なのか、説得力があった。
 道は、鍵の手のように、突き当たっては左右に分かれている。昔の戦の時、侵入してきた敵兵を迷わせる道造りである。香春陣屋は、慶応二年に小笠原忠忱によって築かれた。もともと小倉藩は、北九州小倉の紫川沿いに、堅牢な平城が築かれていた。慶応二年に第二次長州征伐を行う為、多勢の幕府軍が小倉城に集結していた。そこへ、将軍徳川家茂の死去が伝わり、幕府軍は、解散してしまった。
その時の小倉藩主は、小笠原忠忱であり、小倉城を自から焼失させて、家来と共に、香春御茶屋へ移動していった。長州藩の高杉晋作が病に臥せながら、小倉城が燃え上がるのを見て、自軍の勝利を確信したという。忠忱は、香春に小倉藩庁を移してしまった。翌年、企救郡を長州藩に譲り和議を結んだという。 
香春宿は、小倉藩の田川郡支配の拠点で、藩主の領内巡視の宿泊地であった。現在は、宿場の掲示板などは整備されていた。町並みも国道から外れているため、宿場の建物や歴史的街道が、かなり残されている。
香春宿は田川郡香春町香春にある。里程標、香藩庁跡、茶屋跡、石垣などが残り、鈎型道路も存在する。面影が濃く残る宿場である。
敵が攻撃してきても、分からないような迷路を作ってあるのは、江戸時代の前期の頃だろう。江戸時代の末期に倒幕の軍勢が攻めてきたときに、役立つとはご先祖さまも想像しなかったのではないだろうか。
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