第8話 消すな

文字数 2,104文字

 飲み屋で知り合った初老の男、何度か顔を合わせているうちに妙に仲良くなり、その日は店の看板まで一緒に酒を酌み交わしたが、思った以上に酔ってフラフラの自分を店にほど近い彼のアパートに泊めてくれると申し出てきた。
 酔いも手伝い、一人暮らしだと言うその男の部屋に上がり込むことにして二人で千鳥足のまま古い鉄筋アパートの三階に上がって行った。廊下には妙に明るい蛍光灯が輝き、壁のくすみが良く目立つアパートだった。
 男の部屋は家財道具も少なく、六畳一間だがかなり広く感じられた。
 部屋に入ると男は、丸めていた布団を酔っているとは思えぬ器用さで素早く敷いた。
「布団だけは二組みあるから、気兼ねなく横になってくれ」
 そう言うと男は着替えることもなく広げた布団に潜りんだ。
 自分も寝ようと電灯の紐を引き電気を消そうとした。すると、男がガバッと起き上がり自分の腕をガシッと掴んだ。
「電気は消すな!」
 男はそう強く言い、恐ろしく鋭い眼光で睨んできた。
 その様子が異様だったので、思わず尋ねた。
「なんで消してはダメなんです?」
 男は少し思案の表情を浮かべたが、細い声で話し始めた。
「長いこと、本当に長いこと、電気を消すことのできない場所で夜寝てきたので、暗闇だと眠れないんだ」
 男は、かなりシドロモドロな口調でそれだけ言うと顔を逸らした。
 電気を消して眠れない場所がいったい何処なのかわからないが、とにかく男が必死なので仕方なくそのまま寝ることにした。
 だが自分は明るいとどうしても寝付けない。布団に入ったが、眠りに落ちることなくかなりの時間を過ごした。
 気付くと隣の男は寝ている。寝息がスースー聞こえてきていた。
 自分も眠らないと、そう思った時だった。急に男の息が激しく乱れるのがわかった。
 どうしたのか、そう思い寝返りを打って男の方を見てみた自分は、思わず息を呑み身体を硬直させた。
 男の上に血まみれの女が跨りその首を締めていた。
 しかも、その女の姿はなかば透けており、反対側の壁のカレンダーがハッキリと女の身体を透かして見えていた。
 幽霊というものを初めて見た自分は、喉の奥から呻き声を漏らしたが、それを聞いたのか透明な女はこちらに顔を向けると、いかにも悔しそうに舌打ちし、いきなり忽然と姿を消した。
 自分は慌てて男を起こし、今見た顛末を話して聞かせた。
 すると男はため息をつきながら話を始めた。
「あれは、自分が殺した女なんだよ。そうですか、電気が点いていても私の首を締めていたか、ただ現れているだけじゃなかったのか」
 男は自分の首を擦りながら続けた。
「今までも同房の仲間が何度か見たと言ってはいましたが、怨念というのはいつまでも消えないものなのですな」
 冷たい汗が流れるのを感じながら自分は聞いた。
「あの女が来るから電気を消さなかったんですか?」
 だが男は微笑みながら首を振った。
「電気が点いていても貴方はあれが来たのを見たじゃないですか。電気を消さないのは、本当に長年電気のついたままの部屋で暮らしてきたからですよ。刑務所の監房は、夜中でも見張りの刑務官が受刑者の寝顔を確認できるように灯りが消えないのです。そもそも受刑者は自分で電灯には触れないんですよ。網で覆われてますし、スイッチは室内にありめせんから」
 自分は、まったく知らない世界の話に驚くと同時に、ある疑問が湧き男に聞いた。
「もし、電気を消して寝たら、あの女はどうなると思います?」
 男は少し黙って自分を見ていたが、小さな声でこう言った。
「きっと透明ではなく、しっかりとした姿で現れると思います」
 そして微笑みながらこう続けた。
「そうなったら私は、あの幽霊に絞め殺されるんじゃないですかね」
 だったら、やはり電気を消せないのは女のせいじゃないんですか?
 男は困った表情で答えた。
「そうなのかもしれませんが、死にたくないからではなく、本当に暗いと眠れないのです。真っ暗で心安らかに眠れるなら私はあいつに殺されたって後悔しません。本当にあの明るい刑務所の監房が私の人生の大半を過ごした場所で、明るい夜だけが自分には安心できる環境なんです」
 男はなんとも表現のしようが無い薄い笑顔を浮かべると自分の布団に潜り込んだ。
 自分に背を向けながら男は最後に言った。
「変な話ですが、今でもあれが自分の所に来てくれているのが少し嬉しくもあるのです。裏切られたとはいえ心の底から愛した女でしたからね。本当に生きるのに疲れたら、電気を消してあれが来るのを待っても良いかな」
 そう言った数十秒後には、男は寝息を立てていた。
 無論自分は、朝まで一睡もできなかった。それが幽霊が怖いからなのか、部屋が明るいからなのか、自分でも判断できなかった。
 それ日以来、私は男の通う飲み屋に顔を出さなくなった。だから、男がその後どうなったのかは知らない。
 今も煌煌と明るい部屋で透けた女の幽霊と邂逅してるのか、それとも暗い部屋で本当の意味での安らかな眠りについたのか、自分にはそれを確かめる勇気は無かった。
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