第2話 (二)北条勇気

文字数 9,337文字

(二)北条勇気(ほうじょうゆうき)
「北条先生。あの~、ちょっとご相談したいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか」
 勇気がパーティションの入り口の方に目をやると、岡崎遥(おかざきはるか)がうつむきながら立っていた。
 ハラダ事務所の弁理士にはパーティションで区画されたブースが与えられていて、周りから気を散らされないように集中して仕事ができる環境となっている。パートナーである勇気には少し広めのブースが与えられている。とはいえ扉があるわけでもなく、パーティションの高さも150cmほどなので、座っていれば周囲からは見えないが、立ち上がれば周りからも見えるし、また周囲を見ることもできる。
「はい。なんでしょう」
 勇気は座ったまま入り口の方に体を向けて答えた。少し妙だな。相談があると言われれば当然聞くのだけど、勇気は遥から相談される立場ではないだろう。たしか、岡崎遥は数か月前に派遣社員として国内出願グループに派遣されて来た人だったと思うが。
 遥は国内出願グループの事務担当なのだから、相談ごとは国内出願グループのリーダーである石田さんか、国内出願グループの担当パートナーである矢口先生にするのが普通だろう。勇気がリーダーを務めているA社の案件についての相談もあり得るが、遥はA社の事務担当をしていなかったはずだ。かといって個人的な相談を受けるほど遥と親しくもない。というより、事務所内で見かけることがあるので遥の存在は認識していたが、挨拶ぐらいはするとしても話をしたことすらない。
 岡崎遥は、勇気のブースの入り口に立ったままで黙っている。
「で、相談とはなんでしょうか」
 勇気が遥に促しても遥の反応はいまひとつで、なんともじれったい。岡崎遥は、膝丈くらいのスカートにニットを着ている。ニットの袖には3個ほどボタンが付いていて、シンプルながらも少し洒落たデザインとなっている。特別にオシャレというわけではないが、服装にはそれなりに気を使っている、といったところだろうか。服装や表情からすると、どちらかというと地味な印象を受ける。事務所内で遥があまり人と楽しそうに談笑している姿を見たことはないので、保守的でおとなしい性格なのだろうか。
「あの、ちょっと申し上げにくいというか」
 遥が困惑しながら答えるので、すこし厄介そうだな、と思いながらも、まあ仕方がない、とある程度の時間を割くことを勇気は覚悟した。1時間後には台湾からの来客があるが、30分もあれば十分だろう。仕事のスケジュールとしても問題はない。
「ここでは話しにくい内容でしょうか。それなら会議室でお聞きしますが、会議室にしましょうか?」
「そうですね。はい。会議室でお願いしたいです」
 勇気は受付に電話をして、空いている会議室をとってもらった。
 「第4会議室が空いているようなので、そちらでお話を伺いましょう」
 勇気は席を立ち、遥とともに会議室へ向かった。
 仕事の内容の相談なら遥のグループのリーダーの石田さんや担当パートナーの矢口先生にするはずだ。勇気に相談するというからには仕事の内容についての相談ではないのだろう。相談という体裁をとりつつ、勇気とお近づきになりたいということか。勇気は事務所内の女性からランチや飲みに誘われることもあるので、そういう可能性も考えた。グループリーダーや担当パートナーに相談できない仕事上あるいは職場での問題だとするとやっかいなことになりそうだ。可能性としては、遥の所属するグループのリーダーや担当パートナーからの嫌がらせ、あるいはセクハラとか。ちょっと面倒なことになりそうだ、と思いながらも自分の胸が少し高鳴るのを勇気は自覚していた。組織内で、自分だけが知っているトラブル情報というのは優越感をくすぐる。何にせよ、相談されるというのは悪い気はしない。特に異性から頼られるというのは悪くない。いや、そんなもったいぶった言い方ではない。嬉しいと認めよう。

 会議室で勇気は遥と対面して座った。
「いつも助けていただいてありがとうございます」
 助ける。勇気は遥を助けてあげた覚えはないが、相談を聞くのは助けると言えなくもないか。ただ、遥の言い方だと勇気が過去に何度か遥を助けたことになるが、日本語の使い方が微妙な人はたくさんいるし、まあ、そういうことだろう。弁理士という仕事をしていると、不正確な表現に必要以上に敏感になってくる。
「いや、別に助けるというほどのことではないかと。立場上、所員から相談があると言われれば聞きますよ。それで相談というのは何でしょうか。国内出願グループの岡崎さんでしたよね」
「あの、少し困っていることがあって。でも、もしかしたら私の勘違いというか、気のせいとか、考えすぎかもしれなくて」
 どうも遥の物言いはじれったい。勘違いでも気のせいでもいいから、とにかく遥が困っていると感じていることがあるなら、はっきり言ってほしい。
「なんと言うか、ある男性からモーションを受けているというか」
「モーション?」
 変な声が出てしまった。
「つまり、誰かからしつこく誘われていて困っている、ということですか?」
「いや、なんというか私の気のせいかもしれないのですが、ある男性からモーションを受けている状態にあるというか、そうことなのです」
 セクハラ案件ということだな。遥はモーションという言葉を使う。異性から誘われことを、モーションを受ける、と表現するのは初めて聞いたが、どうやら男性から誘われて困っているのだろう。遥のグループリーダーや担当パートナーに相談せずに勇気に相談するということは、遥を誘っているのはグループリーダーの石田さんか、担当パートナーの矢口先生か、というところだろうか。石田さんも矢口先生も既婚者だったはずだ。自分の上司にあたる既婚者からモーションを受けては、さすがに遥も困るだろう。
 過去にも、事務所内でセクハラ系のトラブルが発生したことはある。男性のパートナーが女性事務員を頻繁に飲みに誘っていたことを一部の人が不快に感じて、匿名で相談窓口に投書されたこともあった。また、あるアソシエイト弁護士が女性秘書につきまとい、女性秘書の自宅近くの最寄り駅で偶然を装って待ち伏せしていたこともあるらしい。20年くらい前までは、事務所員全員の住所録が作成されて、事務所員の全員に配布されていた。それで、そういったストーカーまがいの行為があったらしい。それがきっかけになり、今では所員の住所や連絡先などの個人情報を所員に開示しないことになっている。ハラダ事務所には数百人が勤務しているので、今でもセクハラの1つや2つは起きても不思議ではない。
 勇気は事務所内でセクハラ問題に遭遇したことはないが、慎重に対応しないといけないことは分かる。まず、遥からセクハラについて相談されたからといって、セクハラがあったとすぐにパートナー会議で議題に挙げて、セクハラした者を処罰する、という簡単な話では済まないだろう。セクハラをしているのがパートナーである可能性もあるし、当然、当人にも言い分はあるだろうから、遥の言い分だけで一方的に処罰することはできない。そうなると、具体的な行為について調査する必要もあるし、証拠も必要になってくるだろう。
 また、遥に対してセクハラがあったらしい、という情報が事務所内に漏れれば事務所内で噂になってしまう。それでは、仮に遥に対するセクハラが解消されたとしても、遥は事務所内で居心地の悪い思いをするだろう。遥は保守的でおとなしい性格だと思われるので、それでは解決にはならないだろう。そもそも、遥がセクハラをした相手の処罰を望んでいるのか。モーションを受けなくなれば、それで十分な解決かもしれない。
 こういったジェンダー的な問題だと、本人の意思から離れて勝手に周りが盛り上がって、当人を無視した喧々諤々の大論争に発展する可能性がある。そうなのだ、当人である遥の意志を尊重しながら慎重に対応しなければならない。勇気はそこに思い至ることができたことに心地よさを感じていた。なぜ遥が勇気を相談相手に選んだのかは分からないが、勇気はそれで正解なのだと思った。
「それで、岡崎さんは誰にどんな風にモーションを受けているのですか。岡崎さんが自分で相手の男性に迷惑だと言いにくいのであれば、私から注意してもかまいません。もちろん岡崎さんがそれを望むならです。岡崎さんの意志を無視して、私が勝手に動くことは控えようと思っています」
 勇気は、遥の意志を尊重しながら慎重に対応しようとしていることが分かるように気を付けながら言った。
「誰にというか。私の勘違いなのかもしれませんし、北条先生からその方に注意するとか、そういうことまでしていただかなくてもいいかと。ただ、モーションを受けている状態にあるので、私もどうしたらいいのかよく分からなくて、変に噂になったりしていないかも心配でして。おかしな相談をしてしまってすみません」
 遥は自信なさげにうつむきながら答える。遥はモーションという言葉を繰り返す。「モーション」という言葉を使うときに、遥ははにかむような、気恥ずかしそうな表情を見せる。迷惑行為を受けていれば、不快感や怒りの感情を持ちそうなものだが、遥の気恥ずかしそうな表情に勇気は少し違和感を覚える。モーションを受けるということは、それだけモテるということだから、迷惑ではあっても自尊心をくすぐられるので、それほど悪い気はしないということだろうか。勇気としても、こういった相談を受けることは面倒ではあるが、頼られることに悪い気はしないので、そういうものかもしれない。あるいは、自分からモーションを受けています、と言うと、自意識過剰な女だと思われてしまいそうで、それが恥ずかしいのかもしれない。
「もちろん、こういった問題の場合、岡崎さんがどういう方向で解決させていきたいのか、ということが一番重要だと思いますので、無理して言いたくないことは言わなくても構いませんよ。言える事だけで構いません。私は事務所内の噂には疎い方なのでなんとも言えませんが、いままで岡崎さんのそういった噂を聞いたことはないですね」
「変な相談ですし、分かりにくいことを言っているので、北条先生にそう言っていただけると嬉しいです」
 誰からどんなモーションを受けているのかが分からないので、勇気としては特に何もできることは無さそうな気がする。しかし、誰からセクハラを受けているか、ということを打ち明けるのはリスクのあることだとは分かる。もしも勇気が遥にモーションをかけている男性と仲が良い場合、勇気が遥の味方をするとは限らない。遥の立場になって考えれば、そう思うはずだ。誰からセクハラを受けているのかを打ち明ける相手は慎重に決定しなければならない。つまり、勇気は現時点において遥からそこまで信用されてはいない、ということだ。それはそうだろう。今まで遥と話をしたことすらないのだから。勇気に具体的にできることは、今のところ無さそうであるし、遥がこれ以上に詳しい内容を打ち明ける様子も無さそうなので、これくらいが切り上げ時だろう。
 勇気が時計を見ると15分ほど経過していた。
「岡崎さんが困っていることは分かりましたが、あまり具体的なことが分からないので、今のところ私にできることは何もなさそうですが、それでよろしいでしょうか。もちろん、具体的に何かして欲しいことがあれば、なんでもおっしゃってください。言える範囲で構いませんし、言えるタイミングで構いません」
「はい。ありがとうございます。変な相談をして申し訳ありませんでした」
 岡崎遥の件について、勇気にできることはなさそうだ。勇気としては誰が遥にセクハラをしているのかが分からなかったので、拍子抜けというか、残念な気持ちではある。


 台湾の弁護士とのミーティングが終わり、お土産に頂いたパイナップルケーキをフリースペースに提供しにいくことにした。ハラダ事務所には休憩用のフリースペースがあり、お菓子が常備されている。オフィスに定期的にお菓子を補充してくれるサービスを利用している。
「あっ、勇気先生。お疲れ様です」
 フリースペースでコーヒーを淹れていると潮田真希の明るい声が後ろから聞こえてきた。真希の声にはほのかな自信と素直さが混ざり合っていて心地よい響きを作り出す。真希の声を聞くと少し元気になれる。潮田真希とともに受付の藤田志穂が一緒にフリースペースに来た。
「藤田さん。先ほどの台湾の代理人とのミーティングが終わりました。ありがとうございました」
 会議室の予約や来客の連絡は受付を通すので、勇気は会議室の使用が終わったことを受付の藤田志穂に伝えた。
「先ほどの台湾の代理人からお土産でパイナップルケーキを頂いたのですよ。そこに置いておきましたので、よかったらどうぞ」
 潮田真希と藤田志穂は、岡崎遥と同じく派遣社員としてハラダ事務所に勤務している。もしかしたら岡崎遥へのセクハラについて何か聞いているかもしれない。勇気は、二人にそれとなく探りを入れてみようかと考えた。
「台湾のパイナップルケーキって美味しいですよね。いただきます」
 潮田真希と藤田志穂は仲が良いようだ。同じ時期にハラダ事務所に派遣されることになったので、同期といったところだろうか。歳も同じくらいだろうから、気が合うのかもしれない。
 潮田真希は、特許部の国内出願グループで仕事をしている。岡崎遥と同じグループだ。真希が昼休みに勉強しているところをよく見かける。おそらく弁理士試験の勉強だろう。ハラダ事務所にも弁理士や弁護士の資格を取るために勉強している人は、それなりにいるはずだ。それなりにいるはずだ、としか言えないのは、試験勉強をしている人はなぜかそのことを口外しないことが多いからだ。あえて隠している人もいる。悪いことではないし、なんの不利益もないのだから隠すこともないだろうに、と思うのだが。その点、真希は昼休みに自分のデスクで堂々と勉強している。勇気はそんな堂々とした真希に好感を持っている。あっさりと合格するのはこういう人だと思う。逆に、隠すような人はなかなか合格しない。だから隠しているのかもしれないが。
 藤田志穂は今風なオシャレな女の子という印象だ。話しかければ明るく対応するが、自分から積極的に話しかけるタイプではなさそうだ。仲が良い人とはよく話すが、あまり面識がない人とは話したがらない。だが、内気という程ではない。志穂は笑った顔が柔らかい。季節で言えば春、桜の花を思わせる。満開の桜ではなく一輪の桜の花だ。香りはしないし、一輪では強い印象はないが、それでも対面する者に優しい気持ちを与えるのだ。そう考えると、志穂は受付という仕事に向いているかもしれない。自覚はしていなくても、人はそれぞれ自分に合った仕事を選んでいるのだろう。勇気も弁理士という仕事を選んだのはたまたまではあるが、結果的に自分に合った仕事だと思っている。

「お二人とも、事務所には慣れましたか?」
 二人は同時期にハラダ事務所に派遣されてくるようになったので、二人とも半年くらいが経つ。事務所の環境にも仕事にも慣れてきたことだろう。二人とも仕事にも慣れてきて、ハラダ事務所での仕事を継続していく意向とのことだ。それは喜ばしい。
「ところで、仕事というか事務所で困っていることとか、嫌なことなどはないですか?」
 勇気がそれとなく探りを入れる。
「う~ん、特に無いですけど。矢口先生の機嫌が悪いときは、ちょっと仕事がしにくいとかはありますけど、困っているという程のことはないですね」
 真希は屈託なく答える。志穂の方でも困っていることは無いようだ。とはいえ、矢口先生の名前が出たので、もう少し探りを入れたい。
「矢口さんは機嫌が悪いときに態度に出ますからね。派遣社員の場合、立場が弱いというか、嫌がらせを受けたり、それこそパワハラ、セクハラなんかの標的になるかもしれないから、大丈夫かな、ってちょっと気になったので聞いてみたのです」
 勇気が踏み込む。
「いやいや、たしかに矢口先生は機嫌が悪いときは態度がちょっとどうかなって思うことはありますけど、パワハラとか、さすがにそういうことはないですよ」
「そうですか。それならよかった。私がハラダ事務所に来る前ですけど、事務所内でセクハラとかパワハラとかがあったらしいのですよ。今は無いと思いますけど、もし、そういう嫌がらせのようなことがあったら、我慢したりしないで相談してくださいね。ちゃんと対応しますので。ちなみに、前にセクハラ、パワハラがあったらしいというのは矢口先生ではないですよ、ずっと前に退職している人です。念のため」
 真希や志穂の様子からすると、遥へのセクハラの件は知らないのだろう。

 結局、岡崎遥へのセクハラについては、何も情報が得られず、何の進展もないまま数日が過ぎていった。そうしているうちにも遥へのセクハラが続いているのかもしれないと思うと気の毒だ。ただ、それ以上に、何の進展も得られない状態に勇気はフラストレーションを感じていた。


 拒絶査定に対して応答しない旨の指示がクライアントであるA社から届いた。特許出願の審査で特許しないという審査官の最終判断に承服するということだ。勇気は、審査官による拒絶の理由には先行技術の認定に誤りがあり、審判請求すれば審査官の判断を覆すことができると考えていたので、審判請求することをA社に提案していた。審判請求で審査官の判断を覆すのは勝負に勝ったという達成感が得られるので勇気は好きなのだが、クライアントであるA社がこれ以上の審査の継続を望まないのであれば仕方ない。
 「A社から権利化を断念する旨の指示が来ましたので案件終了をお願いします」
 勇気はA社からの指示のメールとともにファイルを事務担当者に渡した。
 ファイルを事務担当者に渡して案件終了の指示をした後に、それとなく遥の席の方を見てみると、遥の席に矢口先生が来ていて何か話をしている。勇気は自分の席に戻る途中に遥の席の近くをあえて通って、様子をうかがってみた。クライアントからのレターの配布のタイミングについて話をしていたようだ。矢口先生は国内出願の事務担当パートナーなのだから仕事上の話があるのはごく当然なことだ。岡崎遥から相談を受けてから、遥の様子をそれとなく観察しているが、特にセクハラを受けているような印象は受けない。人から見える環境で堂々とセクハラをする人もいないだろうから、そういう現場を見かけないからといってセクハラが無いとは言えない。むしろ人目につかないところでセクハラが行われているのであれば事態はより深刻だ。岡崎遥は派遣社員ということもあり、事務所内での立場は弱い。矢口先生の一存で岡崎遥の派遣契約を打ち切ることも可能だ。
 遥にセクハラをしている容疑者は現時点の状況では矢口先生なのかと思う。遥の直接の上司にあたる石田さんの可能性もあるが、石田さんが遥にセクハラをしているのだとすれば、遥は矢口先生に相談するはずだ。矢口先生は国内出願グループの担当パートナーだから、遥を採用するときに採用責任者として面接をしているから相談しにくいことはないだろう。また、矢口先生は遥や石田さんも含めて国内出願グループの担当パートナーとしての人事権を持っているから、仮に石田さんが遥にセクハラをしているのであれば、矢口先生の権限で石田さんを処分することもできる。そう考えると、やはり遥にセクハラをしている、いや、モーションをかけているのは、矢口先生と考えるのが妥当だろう。遥が担当パートナーである矢口先生ではなく勇気に相談したということが間接的な証拠といえる。

 どうしたら確定的な証拠を得ることができるだろうか。
 勇気はセクハラをする側の立場で考えてみることにした。もちろん、勇気はセクハラをしたいと思ったことはないので、セクハラをする人の気持ちで考えるというのは無理がある設定なのだが。当然、人前で堂々とセクハラをするはずがない。いや、セクハラと自覚せずにする人はいるか。しかし、そういう人は目立つし噂が立つはずだ。同じグループにいる真希も何も知らないようだった。遥へセクハラをしている人物は、巧妙に人目に付かないようにしているはずだ。だから、勇気がここ数日に渡ってそれとなく遥を観察していても、セクハラを受けている様子が見られないのだろう。となると、このまま遥の様子を伺っていても埒が明かない。
 やはりメールが気になる。他の人に見つからないようにモーションをかけるならば、メールだろう。ハラダ事務所では、各個人にパソコン1台が割り当てられていて、それぞれが自分のID,パスワードでログインして使用している。各個人にメールアドレスも設定されている。なので、個人宛にメールを送ることはできるし、そうすれば基本的には他の人に見られることはない。遥のメールを確認すれば、セクハラ容疑者を突き止めることができるだろう。しかし、遥が勇気にセクハラの相手を打ち明けない以上、勝手に遥のメールを見るわけにはいかない。それは、勇気を信頼して相談をしてきた遥を裏切る行為だ。
 となると、矢口先生のメールを確認するか。セクハラをする者に人権などはない。ならば矢口先生のメールを確認しても構わないだろう。ログインIDは社員番号で決まっているから矢口先生のログインIDは分かる。問題はパスワードだ。が、ハラダ事務所では入所したときの初期パスワードとして生年月日が設定されているのだ。もちろん、ログインパスワードは変更することが推奨されている。しかし、勇気は面倒だったのでパートナーに昇格するまでは初期パスワードを変更せずに、自分の生年月日の初期パスワードをそのまま使用していた。矢口先生がログインパスワードを変更していない可能性は十分にある。勇気はハラダ事務所を共同経営するパートナーの経歴や住所などの一覧は持っている。なので、パートナーである矢口先生の生年月日は調べようと思えば分かる。
 ただし、試すかどうか、それが問題だ。他人のパソコンに勝手にログインするのは、人として大切な何かを失うような気がする。セクハラをするような奴に人権はない。それはその通りだ。だが、現時点で矢口先生が遥にセクハラをしているという確たる容疑があるわけではない。冷静に考えれば、矢口先生以外に他に疑うべき人物が思い浮かばない、という程度のことだ。しかし、遥は自分の上司である矢口先生ではなく、話をしたことすらない勇気に相談をしてきた。この事実は非常に重い。自分の上司に相談できないとすると、セクハラをしているのは遥の上司である矢口先生だとしか考えられない。

 セクハラに苦しんでいる遥を思うと気の毒だ。それ以上に、なんの進展も得られていないことが耐えがたい。これでは、遥が勇気に相談した意味がない。遥が勇気に相談したのは正解なのだ。勇気はそれを証明したい。
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