第8話

文字数 857文字

 唐突に強烈な吐き気に襲われ、身を折って織先は、その場に吐いた。嗚咽と体液の弾ける音が、周囲に響いた。海城の気配は先程から何故か、感じられない。肩に手が添えられていたにも関わらず、存在が無かった。
 一頻り吐き出すと、織先は少し落ち着いた。
 よろよろと立ち上がり、左手の小指の爪にペンチを噛ませる。力を加えると、指先に引きつる様な痛みが走った。予想以上の痛みに、織先は叫んだ。
 そして──獣の様に叫びながら──一気に、引き千切った。
 ぶちぶちと肉が切れる音が、体に響く。未だ嘗て体験した事のない、凄まじい痛みが襲う。ドクドクと左手の小指が脈打つ。激しく震える右手に握られたペンチの先には、織先の爪だった塊が、挟まっていた。
 右手が硬直して、ペンチが離れない……このままでは、あの朱色に彩られた盃に、奉納出来ない──
 痛む左手でこじ開けようとするが、どうにもままならなかった。
 あ……あ……あ……あ……
 織先の右手を、そっと優しく包む手があった。
 爪のない手──海城の、大きく優しい手だった。
 唐突に昔を思い出した。
 幼き頃、そう──この公園で怪我をして、織先が今と同じように震えていた時、介抱してくれたのも海城だった。
 ペンチが右手から離れ、カランと盃に爪が落ちた──
「先ずは、一本」
 ──奉納なさいませ、と神主が繰り返す。
 海城が手早く織先の左手の小指に、強くハンカチを巻きつけ止血する。そして、無言でペンチを左手に握らせた。
 見えなくても織先には分かっている。
 旧友は──泣いていた。声を殺し、涙を流している。
 ──僕だってわかるよ。お前が僕を見つけたように。
 織先は、躊躇なく、右手の小指の爪を引きちぎった。
 何故か、先程よりも辛くなかった……
 
 カラリと二枚の爪が、朱色の盃に転がった。
 ──承りました、と神主は不気味に笑うと、ぎこちなく雑木林の中に消えていった。
 脱力した織先平(おりさきたいら)は崩れ落ちる。多くの血飛沫と、欲望にまみれた悲鳴を、幾重にも吸い続けた地面に膝をつくと、あの不愉快な音がぬちゃりと傷口に響いた。
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