第1話 天使の分け前

文字数 1,969文字

 厚い一枚板のウォルナット製のカウンターテーブルを拭き上げ、バスケットに色鮮やかな果物を美しく盛り合わせた。
柑橘類はまるで弾け笑うようにお日様色に輝き、真っ赤な苺や出始めの桜桃(サクランボ)宝石(ルビー)のよう。
これからは桃や葡萄(ぶどう)が出回るのが楽しみだ。
生の果物を使ったカクテルが格別に美味いと喜ばれるので、果物は切らさない。
生のパイナップルや大粒のマスカットを白ワインに漬けてきゅんと冷やしたものは、女性ばかりではなく男性にも人気。
野菜である新鮮なトマトのカクテルもある。
ちょっと強いジンやウォッカに、採れたてのトマトを皮ごと絞った野生味のある風味、グラスの縁に粗塩をパラリ。
これはクセになりますよ。
ペアリングのフードは、そうだな。
林檎(りんご)の蜂蜜とマスカルポーネ、それから生ハムと刺激が強すぎないデンマーク産のブルーチーズ、せっかくだから新鮮な生のイチジクを手でふわっと半分に()いて、白味噌と柚子胡椒(ゆずこしょう)を少し添えて。
これは絶対酒に合うな!と嬉しくなる。
お客様にお出しするお皿はコレで行こう、と決めた。
うん、今日もきっときちんとうまいはず。
この店の店主でもあるバーテンダーは、何か減っていないかな、と怖々(こわごわ)と、それから興味を持ってずらりと並んだ酒の瓶を眺めた。
"天使の分け前"という言葉がある。
ウィスキーやブランデーを熟成する過程で、アルコール分や水分の2〜3%が揮発してしまう。
目減りしてしまうその分を"天使の分け前"と言うそうだ。
なんとも小粋な表現である。
この店は繁華街から少し離れた場所にあるオーセンティック・バー。
自分は12年目のバーテンダーだ。
会社員時代、上司に連れて来て貰ったこの店で、店主だった兄弟子に誘われてこの道に入った。
その兄弟子が昨年のある日「そろそろ俺、店出るわ」と突然言い出し、自分に店を譲り、区役所を早期退職した妻と焼き鳥屋を初めてしまった。
ここはもとは今は亡き伝説のバーテンダーが腕を振るった店。
兄弟子はそのまた兄弟子に、そしてその兄弟子は伝説たる師匠から譲り渡されて来た。
兄弟子が店を出て新たに店を始める伝統があるらしい。
今ある安定した店を出て新たに出店と言うのはかなりリスキーと感じるが、一人育てて一人前という師匠の方針らしい。
さて。兄弟子が言い残したのは2つ。
一、自分もまた弟子を取り、時期が来たら店を次の世代に譲り、出て行く事。
一、この(バー)はどんな系統でもいいが酒を出す店のままにしておく事。
1番目は、分かる。伝統だし、それは覚悟だ。
2番目が、よく分からない。
賃貸契約上の問題かと聞くと兄弟子は少し困ったように口を開いた。
「いや、あのな。いるらしいんだよ、このビル」
「いる?何が?」
だからさ、コレ。と兄弟子が両手を前に少し出した。
オバケ、というジェスチャー。
まさかと吹き出したが、兄弟子の表情は険しいまま。
飲兵衛(のんべえ)(やつ)らしくて。ほら、このビル、酒を出す店は繁盛するのにそうじゃない店はすぐ潰れるだろ?」
このビルは5階建で1階部分が店舗になっている。
このバーと寿司屋とイタリアンとスナックは老舗の域に入るが、その他は開店してもすぐに辞めてしまった。
今までも、美容室、花屋、ネイルサロン、パン屋が営業不振で閉店。
全部、酒類を扱わない店。
「先輩!そんな話聞いたら怖いっすよ」
霊感なんか無いが、兄弟子が出ていけばこれからは一人になってしまう。
「うん、わかる。だからさ。お前も早く弟子探しな」
ああ、そうか。
だから、昔、初めて客としてこの店に来た時、バーテンって憧れる、カッコイイと言った自分に、兄弟子は、じゃあ見習いからやってみる?と割に簡単に言ったのか。
今まで自分にはわかる人にはわかる才能があるんだと思っていた。
「先輩は、見た事あるんですか?もしかして師匠なんじゃないですか?」
「いや、俺だって霊感とか無いからわかんないよ。まあでもさ、師匠だったらいいなとは、俺も俺の先輩も思ってるよ。姿を見た事は無いけど、店の酒がたまに減ってるんだよな。(こぼ)した訳でも無く。例えば、ほら、あのレミー・マルタン。先週開けて1杯しか出てないのに、もう半分しかない」
上半身が人間、下半身が馬のケンタウルスのメダイユがモチーフの高級コニャックの瓶を示す。
確かに、瓶には褐色の液体がきっかり半分の量。
「まあ、アレだ。"天使の分け前"みたいなもんだな。酒出してれば繁盛するのは間違いないからさ。ありがたいもんだよ。あ、きちんとしたうまい酒、だからな」

きちんとした、うまい酒を出す。
兄弟子たちもそう心がけて来た。
不思議な事に、お客様が(こと)(ほか)喜んでくれた日は、天使の分け前の減りも多い気がする。
そして、必ずお客様とのいい出会いがあるのだ。
天使様。もしかしたら、兄弟子の師匠。そろそろお店開けますね、と小さく呟く。
さあ、今日もいい時間、おいしいお酒を楽しんで貰えますように。
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