第2話

文字数 2,053文字


「事務所からみたいなので、すいません。仕事があるから、直ぐ戻るようになるので、また改めて連絡しますから」
優月はマネージャーとの会話を大袈裟な身振りで見せつけながら、背を向けてそのまま団地の階段を駆け上がり我が家へ逃げ込むのであった。冷たい錆びた鉄の扉にもたれながら、フーっと軽く息を吐いて落ち着くと。
「すみません。いろいろ、ご迷惑をお掛けしてしまって」
気を取り直してから再びマネージャーとの会話を進める。
「はい、もう無事に済みました。こちらで一日泊ってから、始発で帰ります。無理して入れて頂いたことは承知していますから、迷惑は絶対にかけません。はい、はい。直で会場に向かいます。すみません、よろしくお願い致します」
通話を終えスマホをバックに収めた途端、目の前の重い匂いが優月の胸元に固まった。
「明日は事務所の新人デビューイベントのゲストじゃないか。このまま帰らなくても、どうにでもなるのだけれど」
部屋にこもっている生乾きしたような匂いは悲しみよりも情けなさを浮き上がらせる。
「無様だ。無理してねじ込んでもらった仕事よ。恩を仇で返すことなんて駄目だ。才能がないなら人間との繋がりぐらいもう少し大切にしろってんだ」
優月は人目を警戒する犯罪者のように目を下へ落とす。無感情に傷んだ母のサンダルをずらしながら遺骨を左腕で抱え、位牌をその上に置いて顎で支えながら右手で脱いだ靴を揃えて置いた。
「心を無理やり整理してでもやるしかないじゃないか」
ふと、その横の下駄箱には優月がプレゼントしたロウヒールの靴。全て利用目的にそった配列で大切なコレクションのように並べられていた。整理整頓した家主は既に骨ツボの中に押し込まれもう履くことも出来やしないのに。
そう、小さいツボにパンパンに入っているのだから。
優月の脳内にまだ頭蓋骨をハンマーで叩いて、小さく砕いてツボに押し込む一連のながれのループ音が響いている。しかも、そのループの際に葬儀場の職員は少しニヤッとした。そう見えた。丁寧な定型文を厳かに語りながらも口元をゆがめて力任せに大きな骨を砕く、初老の女性の労働で悲しみも捨てさせてくれて助けられた。
気分を変えたい衝動に、部活帰りの学生の頃のような声を出してみた。
「ただいま」
誰もいないと分っていながらも元気な挨拶で悪い空気を清浄化する為に。
「帰ったよ。疲れた疲れた」
そこには始まらなかった夕食のひとときが腐っていた。テーブルにある用意されたメニューは母親の好物ではない。アイツへの無償の愛情が込められた料理であったと優月は察した。
「意地を張らなければ私もそこに居た筈だった。もう少し素直になっていれば、母の未来を変えてあげられたのかしら。ちょっとした、体の不調も女同士なら分かり合えた筈」
優月は心の整理を付けるように、傷んでしまった食べ物を捨て食器を洗う。生ごみを入れた袋は二重にして玄関へ持っていく。これで、匂いの元は取り急ぎ隠され、テーブルの上は何もなく清浄化された。
「なのに何故、すっきりと何も置かれていないテーブルが、陰気な不安で迫って来て吐き気をもよおさせるの? 」
とぼけた己の顔が薄暗くガラス窓に映すのを目にして思わず唾を吐いていた。
「ふっ、血は争えないわね」
弟の顔が浮かんだ。
乾いた空気が喉の渇きを裂く気分にさせる。たまらずに速足で冷蔵庫に向かう。乱暴に扉を開けるとビールを探した。清涼飲料水しかない。今、買ってこようか、どうしようか考えながら部屋を見まわしていると、足りない何かが優月の心の欠けた場所で、遊ぼうよと誘っている感じがした。ニヤッと笑いながら、優月は洗った食器をまた出してきて最初に目に入った景色通りに並べた。最後に母を椅子にと思って骨壺を取りに行く。母がさっきより重くなった気がした。
脳溢血であっという間に逝ってしまったが、これまで特に大きな病気も怪我もせず、骨も丈夫だとよく言っていた姿が蘇った。
優月は弟の席の正面に自分のお茶碗、箸、味噌汁のお椀を置き座った。時間がグイッと優月を押しつける。平面はゆがんで、テーブルにしがみ付きながら堪える自分がいた。優月は無理して立ち上がって、定まらぬ視界は彷徨して、母の部屋の敷きっぱなしの布団に滑るように泣き崩れて沈む。記憶の順番が争いながら眩暈の中で嗚咽していた。
枕は母の匂いがした。
体を起こして枕を胸に引き寄せ抱きしめようとした時、何かに当たった。母の日記と様々な資料を集めたかのような積まれたファイルが崩れていた。母の日記をめくってみる。目に入ってくるのは、優月のことも僅かには有ったがほぼ全てが弟のことばかりが書いてあった。
「言われたことをしっかりやってきたのはいつも私よ。
見本に倣えない弟なんか。何が凄いの?」
ノートの隙間から挟まったプラスチックが見えていた。メモリーカードだった。その時チャイムが鳴り、慌ててなんとなくポケットに突っ込むと、返事をしながら玄関へ向かった。
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