夢見る岩体

文字数 4,271文字

 腹が減った苛立ちから、休憩室の部屋を蹴って開ける。

「おい――新入り、交代だ」

 奴は居候みたいな存在だ。場所を貸すかわりに研究を手伝わせている。もうとっくに新入りではないのだが、呼び名として口が覚えてしまった。床でいびきをかいている新入りの背中を、靴先で転がす。

「乱暴じゃない?」
「起きないのが悪い」

 俺がそう言い放つと、やれやれと呟いて新入りは身体を起こした。寝癖で変に真っ平らになった頭をぼりぼりと掻く。

 今は天井になっている床から、重りが吊り下げられている。重りの向きを見れば空島の自転具合が分かるという寸法だ。新入りはちらりと重りを見て、ぼやく。

「1/4日しか寝てないじゃん。人手が足りないのが悪いんだ」

 空島が一回自転するのにかかる時間を一日と呼んでいる。ちなみにだが、一日の四分の一も眠れば十分すぎるくらいだ。ああ、空島というのは俺たちの住んでいる岩体のことだ。見渡す限り、観測限界まで広がるエーテルの海に浮かび、自転しながらゆっくりと落ちている、得体の知れない岩のカタマリだ。

 もっとも、落ちているということが分かったのはつい最近の観測結果だが。

「仕方ないだろう」

 俺は鼻から息を吐いた。

「……皆、空島に呑まれてしまったんだからさ」

 壁にかけた、奴らが残していった品々に手を合わせる。一瞬にして仲間の大半を失ったあの事故を、俺は死ぬまで忘れられないだろう。坑道の暗闇に消えていった断末魔を、今でも夢に見る。

 新入りは俺の言葉にハハ、と笑った。

「そうだった。アンタは呑み込まれないでくれよ。オレの仕事が増える」

 新入りが辛辣な冗談を投げてくる。まったく、ヒトの心を持っているのか分からない奴だ――といつも思う。しかしこんな奴でも、拾ったガキの世話をしたりしているのだから理解できない。

「無駄口を叩くな。観測に行け」

 俺は観測室の鍵を新入りに放り投げた。ぱし、と利き手ではないほうの手で器用に受け取る。

「はいはい。それがヒトの最後の希望だものね」

 肩を竦めて、やれやれと言わんばかりに新入りが呟く。俺たちのやっている観測は、ひたすらエーテルの海を眺める空虚な作業だ。とはいっても、誤解しないでほしいのだが、目的はある。

 それは、移住できる別の空島を探すことだった。

 エーテルの海には濃淡があり、その時々によって澄んでいたり霞んでいたりする。ふたりで交代して常に観測を行うことで、空島を発見できる確率を少しでも上げようとしているのだ。

「そういうことだ。頼むな」

 新入りを送り出して俺は仮眠を取ろうと思ったが、ふと忘れ物を思い出した。例の事故があってから、常に隣に置いていた、奴らの遺品である拳銃を観測室に置いてきてしまったのだ。仕方なく俺はブランケットを手放し、新入りのあとを追った。

 ***

 観測室のドアを開けた瞬間、「すげえ!」という新入りの歓声が耳に飛び込んできた。

 まさか、と胸が沸き立つ。

「おい、もしかして別の空島が――」
「おお、アンタ見ろよ!」

 差し出されるまま、俺は観測装置をのぞき込む。だが、そこに映っていたのは俺の想像とはかけ離れていた。

 視界に広がるエーテルの青。

 僅かな淀みのように、色の違う場所がある。はじめ、俺はそれが空島かと思って目を凝らした。

 だが、違う。

「あれは――アクアの海だ」

 俺は失意と共に言葉を吐き出した。

 アクアの海とは、空島が落ちる先にある猛毒を湛えた海で、数年前に発見された。エーテルの海の果てが見えて、それで初めて俺たちは、空島がゆっくり落ちていることを知った。空島がアクアの海との圏界面に接近していることはもう疑いようがなく、空島の表面に生息するヒトは、アクアの海に沈んで終末を迎えることが予言されている。

 喜んでいる新入りがガッカリするだろう、と思うと辛かった。だが、予想に反して新入りの顔に浮かぶ表情は色あせず、むしろさらに喜びの色を増していった。

「いやあ、綺麗だよなアクアの海って! 今日はずいぶん良く見えるじゃないか」
「な……何を言っている?」

 はずんだ声に追いつけず、俺は当惑して聞き返した。

「綺麗って――お前、何を」
「浪漫があるじゃないか。エーテルの海の外側にも、まだ世界は広がっていたんだ!」
「なあ……アクアは毒だ。あれは俺たちを殺すものだ」

 分かっているのか。いや分かっていないはずがないのだが、なのに新入りはきらきらした目で猛毒の海を見つめる。

「もちろんオレは死にたくない、が……それ以上に楽しい。わくわくするんだ、空島に比べれば随分と小さいオレだけど、世界のことをこんなに知ることができる」

 俺は平衡感覚を失い、床に膝を突く。
 眩暈がした。

「おい、寝不足かぁ?」

 新入りが声をかけてくる。

「……信じられん」

 俺は頭を抱えた。

「俺たちを殺そうとする、こんな世界を、どうしてそんなに好きでいられる」
「オレを生み出してくれたからな」

 彼は即答した。

「エーテルの海に浮かぶ、孤独な岩体が生み出した束の間の友人。それがヒトなんだ。もしかしたらオレたちは、空島が見ている夢でしかないのかもしれないが、それでもこんなに綺麗な世界を見せてくれる」

 青い光に照らされた、どこか夢見るような表情。これだけ俺たちを虚仮(こけ)にした世界を、まだ愛していると、そう言うのか。頭の奥がしびれて真っ白になり、俺は無意識のうちに、かつての仲間が使っていた銃を新入りの頭に突きつけていた。

「これ、何の真似?」

 怪訝そうに新入りが眉をひそめた。片手で銃身を退けられて、俺は我に返る。

「――悪い。俺は何をしてるんだろうか」
「アンタが何したいのかは、正直分かっちゃうよ。本当はもう絶望してるんだろ」

 新入りは哀れむような笑顔を俺に向けた。一瞬とはいえ、銃を突きつけられて死の危機に瀕したのに、焦る様子すら見せない。彼は慣れた手つきで接眼レンズに蓋をして、崩れ落ちた俺の向かいにあぐらをかいて座る。

 自暴自棄な笑いがこぼれた。

「仮に別の空島が見つかったって……どうやって移住するんだ、という話なのにな」

 俺は呟く。

 ずっと言葉にしていなかった絶望が、改めて両肩にのし掛かる。本当は、仲間が空島に喰われたあのときから、見ないフリをしていただけでずっと分かっていた。

 俺たちは空島もろとも、死ぬしかないのだ。

 どうせ死ぬのだ。それが早いか遅いかの違いだけ、与えられるか選ぶかの違いだけしか、俺たちには残されていない。

「お仲間の後を追いたいのか?」

 軽い口調のまま、新入りが俺に訊いた。

「どうしてもと言うなら止めないけれど、それならおひとりで。オレは死ぬ気はないし弟がいる」
「はは……どうやったって終末からは逃げられないだろう」
「いや、オレは空島を離脱してやるね。このでかい、生きている岩体をオレはまぁ愛しているが、一緒に心中してやるほどじゃない」
「お前の大口を聞けるのも最後かと思うと胸が熱くなる」

 皮肉めいた口調で切り返して、俺は銃を拾い直した。毎日、大切に銃の手入れをしていた仲間を思い出して、長くはない半生を振り返る。

「悪いが出て行ってくれ、観測はもう終わりだ」

 はいはい、と言葉を残して、新入りは扉を閉めた。俺はその扉にもたれかかる。内開きなので、向こうからはもう開けられないだろう。

 早朝。
 青い光に満ちた部屋。

「なあ、空島。夢見る岩体よ」

 虚空に向けて語りかけると、無音がそれに応えた。

 ――空島に意思はあるのだろうか。
 俺は生まれて初めて、その疑問を抱いた。

 ヒトを生産し、ヒト同士の関係によって築かれた秩序を見守り、しかしときに牙を剥く。ヒトより遥かに長い時間を生き、アクアの海に沈んでも、きっと空島は生き続ける。

「俺の死なんてお前には、爪先ほどの意味もないかもしれないが」

 空島に意思があるとすれば、奴は何のためにヒトを生み出したのだろう。新入りが言ったように友人なのか、それともやはり、敵なのだろうか。

「それでも、せめてお前の手の届かない場所で死んでやろうと思う」

 死んだ仲間たちは、岩体に飲み込まれた。

 坑道の壁は接触したものを自分の中に取り込む。彼らは空島に捕食されたのだ。捕食されたモノがどうなるのかは知らないし、考えたくもないが、とにもかくにもそれは空島の栄養になる。そして、またどこかで別の存在に変わるのだ。

「俺の死がお前の損失になりますように」

 ***

 男は銃声を聞いた。

 階段を登り、観測室の前まで行くと、扉の下にある僅かな隙間から血溜まりがじわりと広がっている。

「腹を割いて空気塊を頂こうかな」

 男はそう考えたが、躊躇いの末、実行には移さなかった。誰にも与えられない、自らで選び取った死。それこそ、彼の最後の希望であり、死体を暴くことは失礼にあたると考えたのだ。

「ここも潮時かなあ」

 男は下の階層に戻り、観測室に続く階段を封鎖した。長い板を交差するように打ち付け、誰も通れないようにする。

「結局みんな死んでしまったな」

 男はこの研究所の正規の職員ではない。職員の大半がなくなった事故に偶然居合わせたので、たったひとり生き残った彼についてきたのだ。終末が来るなんて、誰も思いもしなかったころに作られた研究所の終わりに、つかの間、男は思いを馳せる。

 物置からペンキを持ち出して、外に出た。
 看板の上に大きく、【閉鎖済】と書き付ける。

「まあ、もう少し間借りさせてもらうけど……所長さん、ここはアンタのものだよ。大したもんだ、空島すら、ここには手を出せない」

 強化ガラスの張り出した観測室の方に向かって、男はそう語りかけた。ありがとうな、と小声で添える。

 兄ちゃん、と後ろから呼ぶ声が聞こえた。

 男は振り返り、膝を折って、自分の胸くらいまでしか背丈のない子供に視線を合わせる。

「なあ、何て書いたの? いま」
「……【愛を込めて】」
「絶対ウソじゃん。そんな長くないし」

 嘘だけど、でも嘘じゃないよ、と男は子供に笑いかける。なんだよそれ――と言い合いながら、ふたりは研究所を後にした。
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