第二話 奇襲攻撃・中編

文字数 4,678文字

 東京都には、神代塾の本店が存在する。二十五階建てという贅沢な物件だ。それでも教室が足りないのか、いつも机が窮屈そうに並んでいる。一度だけ、十階にあるフリースペースでも講義を行うと言う計画を耳にしたことがあったが、生徒に猛反発されて流れたらしい。

「息の休める場所は欲しいわよね、やっぱり」
「あなたはいつもサボって家でのんびりしてるでしょう? 何が憩いの場なの?」

 講義の合間、一時間だけ暇である。二人はそこで夏穂が来るのを待っていた。

「お待たせしました…」
「ああ、こっちこっち。講義の方はどうだった?」
「あれなら私でも十分付いて行けそうです。ここに決めますよ!」
「それはよかった!」

 鏡子は、先生が厳しいとか、講義内容が濃すぎるとか、そういう心配をしていたが、いらなかったようだ。

「じゃあさ、入塾決定記念に誰かジュース買ってこない?」

 可憐が言った。記念とかはどうでもよく、純粋に喉が渇いたのだ。自分で行ってもいいのだが、フリースペースの自販機はいつも品切れで、確実に買うとなると一階まで降りなければいけない。
 公平にジャンケンで決めた。一発で可憐がパシることになった。

「私はお茶ね」
「私は、天然水お願いします」

 チョキを出した自分が悪いのだが、元を辿れば言い出したのは自分。今更文句は言えない。

「…わかったわ。お金は後でちょうだいね」

 可憐は立ち上がり、一階を目指した。こういう時に限って四つもあるエレベーターは全然上に上がって来ない。仕方なく階段で降りる。
 一階は、受付のフロアだ。夏穂のような入塾希望者はここで、手続きをする。他にも模試の結果の相談とかも行う。ある意味、公開処刑であるが。

「あらら、全然知らない飲み物ばっかり…。たったの半年で浦島太郎になるとは思わなかったわ…」

 頼まれたお茶と天然水はすぐに確保し、自分の分を品定めする。ペプシコーラにオレンジジュース、サイダー、ジンジャエールなど、どれも捨てがたい。

「決めかねるわ…。いっそのこと贅沢コースに…。でも全部はいらな…ん?」

 ほんの一瞬だけ、目がそれた。その視線の先に、その子はいた。

 特に変哲もない普通の女子生徒だった。自分よりは若そうだ。この塾には高校受験コースも存在するため、中学生がいても何もおかしくない。
 だが、可憐の目はその子から離れなかった。その子がとても深刻そうな表情をしていたからだ。しかも一人で、である。

(模試の成績が悪かった? でも、そんな感じじゃない。何か、やらなければいけないことを躊躇っているように見えるわ…。でも、一体何を?)

 そう思った矢先、その子はカバンから手鏡を取り出すと、地面に向けて思いっきり投げつけた。


 それが、この霊障と怪奇の戦争、その火ぶたが切って落とされる、まさにその決定的な瞬間だった。


 周りにいた人が、鏡がパリンと割れた音に反応して、その子に声をかける。きっと、間違えて落として割ってしまったと思ったのだろう。だがそれは違うと可憐はわかっていた。

(今の動きは、ワザと。でも何の意味が?)

 それがわからない。だが、このフロアに何かただならぬ気配が生じたことはすぐにわかった。恐ろしいことにそれは、可憐の目では見えないのだ。

「きゃっ!」

 その子が近づいてきた人を、蹴り飛ばした。蹴られた人が宙を舞い、可憐の方に飛んできた。

「けけけ、け…」

 さっきまでの深刻な面はどこに消え去ったのか、その子は笑っている。平然と人を傷つけ、楽しんでいる。
 また一人、今度は突き飛ばされた。エレベーターの扉にぶつかると、中で鳴り響いた緊急停止のアナウンスが外にまで聞こえた。

「これは…おかしいわ!」

 可憐は直感でわかった。さっきの割った鏡には、何か意味がある。その子=童が受付のカウンターの奥に飛び入ると、可憐はさっきまで彼女が立っていた足元に散らばった鏡の破片を拾い集めた。

「これは…どこにでもある普通の鏡? 儀式に使う特別なヤツ、とかではない?」

 手に取ったのだから、一瞬でわかる。百均で買える量産品。それ以上のことは何もわからない。
 だが、割った直後に童が暴れ出したのも事実だ。だとすると、霊的な何かを封じておいて、割ることで解き放った。そう考えるのが自然。

「ひひ、ひひっひ!」

 受付のコンピュータを持ち上げては、地面に思いっきり叩き付ける。職員が押さえつけようとしてもその腕を潜り抜け、逆にパンチをお見舞いする。そして椅子を投げまくる。童を止めることは不可能に近かった。

 逃げまとう人ごみでごった返す一階で、可憐は立ち上がると、

「私が止めるわ!」

 そう呟いた。
 不可能ではない。何者かに憑りつかれて豹変したのなら、除霊をすることで救出可能だ。それに聞きたいこともある。

(何で、何かが封じ込められているこの鏡を割ったのか。それも聞く!)

 可憐は一人、暴れる童がいる受付の奥に入った。そこは酷い有り様だった。チラシや資料が散乱し、椅子はねじ曲がり、机はひっくり返され、筆記用具がゴミのように床に散らばる。

「けけ!」

 椅子を持ち上げた童。目の前の逃げ遅れた職員に振り下ろそうとしている。

「ちょっと待った!」

 可憐は声をかけ、童の注意を引いた。その隙に職員は逃げ出すことに成功したが、代償として椅子が飛んできた。しゃがんでかわすとそれは入り口のガラス扉をガシャンと割った。

「ひょえええ! なんてことするの!」
「ひひひ!」

 もはやまともな表情をしていない。話し合うのはできそうにない。動く相手に除霊をしなければいけない。

 可憐が札を取り出そうとすると、それに気が付いた童がまた、椅子を投げつけてくる。だが避けられないわけではないので、可憐も余裕でかわす。
 すると、童は階段の方に走った。女子生徒とは思えぬスピードを出し、十数メートルもあり且つ障害物が散らばるその空間を、わずか一瞬で。

「獣の霊にでも憑りつかれた?」

 上の階に登っていく童を、可憐は追いかけた。


 誰かが押したのだろうか、それとも異常を感知したからだろうか、神代塾内部には、非常ベルが鳴り響いていた。

「何、何? どうしたの?」

 急に周りの人が、慌てふためいて逃げ出す。

「火事ですか?」

 事情を何も知らない鏡子と夏穂は、焦った。ここは十階。もし下の方で火が出たら逃げられない。

「落ち着いて、大丈夫だよ。まずは様子を探ろう? こういう時に偽情報を掴んでしまう人が命を落とすんだ。夏穂は私が必ず地上に届ける!」
「で、でも…」

 夏穂は今にも逃げ出したい気分だろう。何せ初めて来た場所で非常事態なのだから。

「私を信じて! とにかく可憐に連絡してみるから、待って」

 携帯を手に取ったその時、何かが階段の方からフリースペースに現れた。

「あれは、女の子? 下から逃げてきたの?」

 その子が凄い形相で現れたため、鏡子は下で何か起きているに違いないと思った。
 だがそれは間違いだった。その子がいきなり近くのテーブルをひっくり返すと、ブン投げたのだ。

「うわああ?」
「何だ、逃げろー!」

 みんなの悲鳴が上がる。だが鏡子の耳には届いていない。ありえないものを見て、思考回路が完全に止まった。
 災厄は、その子自身だった。ここでも童は、滅茶苦茶に暴れ始めたのだ。

「鏡子!」

 階段からもう一人、人影が現れると鏡子と夏穂の方に向かってきた。

「あ、可憐…?」
「ここにいたら危険よ、今すぐ逃げて!」

 事態を全く飲み込めていないが、鬼気迫る表情に鏡子は本能的に可憐の言葉を飲み込んだ。

「私が引きつけるから、その隙に夏穂を連れて下へ!」
「でも、可憐は?」
「いいから速…!」

 今度はテーブルが転がって来た。可憐は鏡子を夏穂ごと突き飛ばした。反動で可憐もテーブルをかわせた。

「ぐるるぐるぐぐぐる…」

 もはや暴れてるのを楽しんですら感じているようだ。不気味にニヤける唇がそれを物語っていた。

「私と勝負よ、この化け物!」
「ああ、あああ?」

 可憐と童の目が合った。

「え…?」

 声が漏れたのは、可憐の方だ。
 普通獣の霊に憑りつかれた人間は、獣の目をする。これは経験でわかることなのだが、童の目は、人間のそれだった。

「獣…じゃないの? じゃあ一体何が?」

 ますます答えを知りたくなる。

「やはりあなたには、除霊が必要みたいね…。必ず助け出すから、待ってなさいよ!」

 カバンに手を入れる。札を取り出そうとしたのだが、それよりも先に童が動いた。その辺に置いてあった観葉植物を掴むと、鉢ごと持ち上げて構えた。

「それで私と戦うっての?」

 童は、その気である。
 本来なら、逃げるか隠れるかすべきである。だが可憐はどちらもしなかった。カバンから取り出した札二枚を両手に構えて、睨み合う。童の目は人間のものだがどこか怪しげな輝きを放つが、可憐の目は紅の炎をたぎらせている。

「燃えてきたわ、やってやろうじゃない!」

 そして可憐が動き出した。守ってばかりでは勝ち目がないからだ。先に彼女の体に札を当てることができれば、絶対に除霊できる。
 童は観葉植物の幹を掴んで、フルスイングした。

「ゲ?」

 だが可憐は無事だ。札が、その霊気で植物を切り裂いたのだ。ドスンと転がり落ちる鉢。まともに喰らえば確実に死ねると確信させられる重さだ。その重い鉢を童は、蹴り飛ばした。

「危ない!」

 流石に札で防げる攻撃ではない。あと一瞬反応が遅れたら、ぶつけられていた。飛んで行った鉢は自販機に当たると、それを大きくへこませた。

「………」

 辺りを見回すと、フリースペースには投げれそうなものが多くある。そのほとんどが椅子やテーブルで、普通は飛び道具として使わないのだが、今の童には関係なかった。

(ここでやり合うのは不利だわ…)

 即座にそう判断したものの、下のフロアに行くことはできない。まだ逃げ遅れた人たちが多くいるし、何より鏡子と夏穂に被害が及ぶ。だが童は移動する気配を全く見せない。

「ならば、こっちから行くわ」

 可憐は背中を向けると、階段を上がった。

(何もないところと言えば…屋上しかないじゃない!)

 そう思っての行動だった。唯一の心配はちゃんと後を追ってくるかどうかであったが、一瞬振り返るとすぐ後ろを走っている姿が見えた。
 だが屋上の手前に来て、可憐は発想が浅はかだったことを思い知らされた。

「ええ、鍵いるの?」

 当たり前である。屋上に出るには、施錠された扉を突破しなければいけないのだ。

「こんな時に!」

 だがすぐに機転を利かせる。もう真後ろに童はいる。あの怪力を利用する。

「ほら、こっちよこっち!」

 振り向いて、手を振って馬鹿にしてみた。すると、

「…ッケケケ、ヒヒッヒ!」

 童は拳を握りしめた。

(乗った!)

 そして前もって体を動かし、解き放たれた右ストレートをかわす。その拳は扉を一撃で駄目にした。

「これで出られるわ。さあ、来なさいよ? 邪魔はなし、よ?」

 二人は屋上に出た。そこから見渡せる童は町明かりに驚いている様子だった。
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