影を慕う

文字数 926文字

 風見鶏の影が織り成す
 初夏の陽光の群舞に
 わたしは当たり前のように憑かれてしまった
 それからは通りを歩いても
 影の建築にしか心惹かれず
 美しい異性の顔立ちは覚えられなくとも
 闇で満たされた彼の輪郭は眼に焼きついた

 わたしは闇に向かって恋文を書いた
 言葉を飾り立て わざとのように感情を透かし ときには韻を踏み せいいっぱい影に気に入られようとした
 返信はなかった
 わたしがポストを覗くたび夢見た
 沈黙の茶封筒
 影の舌先が溶けこんだ切手
 泉下を薫らせる漆黒の便箋
 そこに書き記された
 まごころのこもった呪詛
 すべてむなしかった

 他界に憧れながら
 わたしはゆっくりと通りを歩いた
 昼間の街灯は卒塔婆のようだった
 静止を下知する赤信号が
 おりもの臭い点滅をまきちらしている
 わたしはゆっくりと影を引き剥がした
 薄皮をこそげた影は水彩画のようだった
 交わりを峻拒する影法師が
 食肉のようなわめき声をまきちらしている
 わたしはゆっくりと死にかかっていた
 他界に憧れながら

 影には魂がなかった
 魂には色彩がなかった
 色彩には沈黙がなかった
 沈黙には未来がなかった
 未来には希望がなかった
 希望には影がなかった
 影には魂がなかった

 影が耳もとでささやいてくれた
 そのいかものめいた吐息
 分裂的なその言辞
 彼の頭は死でいっぱいだ
 ささやきの内容物は
 ピーラーのようにわたしの脳をむいていく

 井戸の底のような影との日々
 仄暗い闇との睦み合い

 ふと影を見ると
 ほがらかな皺が眼にとまった
 影にも時は刻まれていた
 影にも死は近づいていた
 君も死ぬんだね と
 わたしは子どもっぽくはしゃいでしまった
 人間には数多くの死因がある
 影にはただひとつの死因しかない
 光への焦れ死に
 身分違いの恋を抱いて
 闇と別れた影は死んでいく

 影を野辺に送りながら
 わたしは故郷の歌をうたった
 影が口笛で伴奏してくれた
 死が静寂でハミングしてくれた
 即興でこしらえられた
 病者のアンサンブル
 風はわたしたちの音楽を憶えていた
 風はわたしたちの死を記憶していた
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み