尊厳缶
文字数 1,903文字
画像提供:@BlackCat_tw
「い、い、いいわけがましいん、だよっ!」
車両の中に老女の声が響いた。数十人が乗り合わせているが、反応する者はひとりもいない。
時刻は十七時三十二分。大宮に向かうこの電車に乗り込んだところ、老女と入れ違いになった。老女は空になった座席に向かって叫び、怒りを露わにしながら、ホームに降り立った。
車内には言葉の残響だけが残されて、老女がどこへ行ったのか知る者はいない。
みんなそれぞれ、用事があるのだろう。
私は彼氏との待ち合わせのために、この電車に乗り込んだ。
休日のデートだというのに、待ち合わせを昼じゃなくて夜に設定するのも嫌だったし、それに反論すらせず従ってしまう自分も嫌だった。待ち合わせ場所も、彼の最寄りである大宮駅を指定された。
でも、最近仕事を変えたばかりで、忙しいって言っていたから、それくらい我慢してあげるべきなんじゃないかとも思う。思うことにした。
――言い訳がましいんだよっ。
老女の叫びが、脳内でこだまする。
そもそも、何が『言い訳がまし』かったのだろうか。
老女が叫びをぶつけた座席には、ビールの空き缶が転がっていた。座席の色が変わっているのは、湿っているからだろう。ここに座っていた誰かは、車内でビールを飲もうとして、こぼしてしまったのだ。
車内で飲酒を敢行する人間と、その痕跡に向かって叫ぶ老女。埼京線の下りは無法地帯だ。
つり革に掴まりながら、湿った座席をぼんやりと眺める。
「あ、そうか、いいわけ」
思わず声が出てしまい、周囲の何人かが怪訝そうに私を見た。叫んだわけじゃないのだから、ひとり言くらい許して欲しい。
座席の色が変わっていたら、後から乗ってきた人はどう思うだろうか。においを嗅げば、ビールだとわかるかもしれないけれど、そんなことをする人はいない。
座席が湿っていれば、大半の人は、誰かが漏らしたと思うはずだ。
ビールか、尿か、においで確定させたところで、その座席には座れない。
座席を汚した誰かは、缶を残したことで言い訳をしたのだ。『これはおしっこじゃなくて、ビールです』と。
尿ではなくビールだと証明したところで、座席を汚しゴミを放置した罪から逃れられるわけではない。
――言い訳がましいんだよっ。
老女の言葉通りだ。言い訳がましい。
それで守られた尊厳は、幾ばくのものだろう。
缶の意味をすぐに見抜いた老女は、もしかしたらこの車両に乗り合わせた誰よりも聡明だったのかもしれない。
もうすぐ大宮に着くというとき、ケータイが震えた。嫌な予感の通り、彼氏からメッセージが届いていた。
『三十分くらい遅れそう』
ああ……。ため息が出そうになったけれど、先ほどのひとり言の件もあるので無理して呑み込んだ。そのついでに『全然だいじょうぶ』と、かわいいスタンプも添えて返信する。
気遣いという名の嘘をついて、私の尊厳も少しだけすり減った。
あの聡明な老女のように、感情を叫べたら、少しは楽になるだろうか。
隣に立っていたおじさんが、突然妙な動きをし始めて、身体がびくりと反応する。ほとんど無意識で、半歩距離をとる。
おじさんはそんな私をチラリと一瞥すると、何事もなかったかのように、カバンからペンを取り出して、先ほどまで読んでいた新聞に文字を書き始めた。
文字を書き終えると、そのままポンと気楽な感じで、濡れてしまった座席に新聞を投げた。このおじさんも車内にゴミを放置する無法者なのか、と愕然としていると、新聞に書かれた文字が目に入った。
そこには目立つ太い字で『使用不可』と書かれていた。
誰かが間違えて濡れた座席に座ってしまわないように、おじさんは機転を利かせて、行動したのだ。
私は、何もしなかった。
無法者に憤っていても、駅員さんに連絡したわけでもないし、缶を片付けようともしなかった。
次に座るかもしれない人のことなんて、考えようともしなかった。
いや、彼氏からのメッセージを返したり、感情を処理したり、私は私で忙しかった。見知らぬ誰かのために動けるような余裕はなかったのだ。
――言い訳がましいんだよっ。
老女の言うとおりだ。私たちはみんな、言い訳がましい。いや、私たちなんて群体になって逃げるのも言い訳だ。ここにいる全員、バラバラの目的を持って電車に乗っているのだから。私は言い訳がましい。
ごめんなさい。
隣に立つおじさんを盗み見る。新聞を手放してしまったので、やることがなくなってしまったのか、両手でつり革を掴んでもたれるようにぶら下がって、だらしなく体重を預けていた。
この車内で、尊厳を持った人間は、彼しかいない。