第9章 海

文字数 11,024文字



「あっ、ガシェムさんのおじいさんだ」
 門前の道を歩いて来る老人を見て、アニスが声をあげた。夜の道を、野菜を積んだ荷馬車をひくロバを連れている。
「ガシェムさんのおじいさんは去年、市場に行く途中で亡くなったんです」
 アニスはガシェムじいさんをじっと見ていた。あまり怖いとは思わなかった。話に聞く幽霊は、恐ろしい目つきで睨むとか、不気味にニタニタ笑っているとか聞くが、じいさんは生きていた時と同じように、ただ黙々と歩いていた。
「死んだことに気づいてないんだ。あんなのいくらでもいるよ。放っとこう」
 ルシャデールは老人の方に背を向けて行こうとする。アニスはあわてて彼女の腕をつかんだ。
「待ってください。ガシェムさんはどうなるんですか?」
「どうなるって……」
 そのままだよ、とルシャデールは面倒くさそうに答えた。アニスは食い下がる。
「天の園に行けずに、ずっとああやってるってことですか?」
「そうだよ。言っとくけど」彼女はアニスの方へ向き直った。「おまえは初めて見るだろうけど、私はそういうのを今まで嫌ってほど、見てきたんだ。いちいちかまってたら、一晩あっという間に過ぎてしまう」
(でも、ずっとあのままなんて、かわいそうだ)
 アニスは恨めしそうにルシャデールを見た。
「そりゃ、ガシェムさんはあのままでも、別に困っていないかもしれないけど。僕は自分の家族が死んだことも気がつかず、土に埋もれて苦しんでるところなんて想像したくないです」
 ルシャデールはため息をついて、じいさんの方へ降りていった。アニスもついて行く。
「じいさん、どこ行くの?」
 ルシャデールは声をかけた。ガシェムじいさんは彼女の方を不審そうに見る。
「おめえさんはどこの子だね? 見たことねえ子だ」
「こんばんは、ガシェムさん」アニスがルシャデールの背中から出た。
「おお、おまえさんはアビュー様んとこの童(わらわ)じゃな」
「うん。どこへ行くの、おじいさん?」
「市場に野菜を納めに行くとこじゃ」
「おじいさん、今は夜だよ。それにおじいさんは……」アニスはちょっと言いよどんだ。
(はっきり言ってしまっていいだろうか? ショック受けないかな?)
 ためらっているうちに、ルシャデールが先に言ってしまった。
「じいさんはとっくに死んでるんだよ」
 それを聞いて、じいさんは大きく目を見開く。
「何を言うんだ、このあまっこは! わしはこの通りぴんぴんしている。どっこも悪くねえ。死んでるなんて、縁起でもねえ」老人は大きな声を出し、元気だと言わんばかりに腕を広げたり閉じたりして見せた。ルシャデールは、小馬鹿にしたようにそれを見やる。
「死んだもんは死んだんだよ」
 じいさんの白いもじゃもじゃ眉が吊り上ったのを見て、アニスがあわててルシャデールを制して前に出た。
「ねえ、おじいさん。おじいさんはいつからここを歩いているの?」
「わしか? けさ、夜明けに礼拝へ行ってから野菜を収穫して、朝飯を食って、それからじゃよ」
「おじいさん、周り見てごらんよ。真っ暗だよ」
 その時、老人は初めてあたりの景色に気がついたようだった。まわりをきょろきょろ見回した
「こりゃなんとした。いつの間に夜になったんじゃ」
「うん、だから、晩御飯食べに帰らなきゃ」
 アニスはルシャデールを見た。どこへ連れて行けばいいのかわからない。
「光を探すんだ」彼女はぼそっと言った。
 光? アニスはきょろきょろ見回し、頭上に月よりも明るい輝きを見出した。
「おじいさんあの光見える?」
 じいさんはアニスの指差す方を見上げた。
「ああ、あの光かね?」
「うん、そっちへ行けば家があるよ。きっとご飯の支度できてるよ」
「そうか、そうか。それじゃまた明日な。おまえさんも早くお屋敷にお帰り。悪い友達と遅くまで遊んでるんじゃないぞ」
 そう言ってガシェムじいさんは、ルシャデールの方をちらりとにらみ、ロバと荷車を連れて光へと向かって行った。
「大丈夫かな? ちゃんと『庭』に行きつけるんだろうか?」
「たぶん。途中、囚われの野にとっつかまらなければ大丈夫だよ」
「囚われの野……?」
 ルシャデールはうなずき、ぷいと背を向けて街の方へ移動する。
 音楽が聞こえる。広場にはケシェクスの踊りの輪が見えた。晴れ着を着た男女が手をとってくるくる回ったり、跳ねたりしている。
「灯りがきれいだ」アニスがつぶやく。
「うん。踊りの輪の上に、精霊が来ているよ」
 よく見ると、確かに青や白、黄色など小さな光の玉が飛び交っている。音楽に合わせるかのように、リズムに乗った動きを見せていた。アニスはルシャデールの方を向き、たずねた。
「一緒に踊ってるの?」
「そうじゃないかな。祭りのように浮かれた気分のところには精霊がよく集まるんだ。でも、あのうち半分は死んだ人間の魂だよ。祭りが懐かしくなって上から降りてきたやつもいれば、上にまだ行けていないやつがふらふらと寄ってきたのもいる。……さ、行こうか。こっちの風景はまた見れるよ」
 こんな鳥みたいに上から街を眺める機会なんて、そうあるもんじゃないけど。アニスはもう少し見ていたい気がしたが、ルシャデールに手をとられて上へあがっていった。
 あたりは再び先ほどの暖かな闇に包まれた。
「ここからが本当のユフェリだよ」ルシャデールが教えてくれた。「こっちの世界は何も見ようとしなければ見えない。肉眼で見ているわけではないから。波の音が聞こえる? ここは海なんだ」

 それは……大地と空がひっくり返るような瞬間だった。
 闇が一瞬にして消えた。
 浜辺に沿って松林が延々と続いている。
 その先には白い灯台が崖の上に見える。
 そして……海。
 見はるかす青い水。
 繰り返し打ち寄せる白い波。
 アニスは言葉もなく、ぽかんと口を開けて海に見入っていた。
「海だよ。見るの初めて?」
 アニスはうなずく。
(これが父さんが話してくれた海……)
「うわあー海だあー!」
 叫ぶや駆け出したアニスはまっしぐらに波打ち際に向かった。
 澄んだ海は手前が碧色、遠くになるにしたがって青緑、セルリアンブルーへと変化していく。波に足を洗われながら、アニスは海水をすくいあげ放るように飛ばす。
「子供じみたことしてるよ」ルシャデールは冷ややかにつぶやく。
〈子供だからな〉突然、カズックが向こうの世界から話しかけてきた。〈おまえはどうなんだ? 最初にここへ来た時、ああいうことはやらなかったのか?〉
〈……やった。だって、私は七歳くらいだったよ。おまえがここに初めて連れてきてくれた時〉
〈ああ。覚えているさ。七歳という年齢にしては、あまりにもやさぐれていたからな〉
〈……〉
 気がつくと、アニスはかなり遠くまで行っている。
〈あいつ溺れないか?〉
〈溺れない海だよ、ここは〉
〈そうじゃない。こっちの、カデリの感覚が染みついているんだぞ〉
 水の中では息ができない。高いところから落ちたらケガをしたり、死ぬ。空を飛ぶことはできない。火は熱い。氷は冷たい。
 そういったカデリでの常識は、ここではすべて意味がない。ただ、それを理解していないといけなかった。カデリの感覚を持ち続ける者には、やはり火は熱く感じるし、水の中では溺れてしまうのだ。
〈見ろ、すでに溺れている〉
 沖合でアニスは手足をバタバタもがいている。ルシャデールはあわてて走り出す。肉体がないから溺れ死ぬことはないのだが、放っておくわけにもいかない。しかし、彼女が着くより先にアニスを助けた者がいた。波の上へくいっと放り上げられている。
 イルカだった。
「うわあ!」
 空中で一回転し、再び海の中へ落ちる。だが、今度はつかまるものがあった。黒い肌の中に明るい瞳がアニスを見ている。キュキュキュキュキュルという鳴き声にかぶるように別の声が彼の頭の中に届く。
〈ようこそ、南の海へ〉
〈こんにちは、南の海っていうんですか、ここは?〉
 アニスはイルカの(くちばし)につかまっていた。
〈こんにちは新顔さん〉別のイルカが言った。〈単純な呼び方と思うかもしれないが、私たちはそう呼んでいる。あの灯台から向こうは「北の海」だよ。私たちは単純な方を好む。カデリから来る人間は複雑なものがお好きなようだね。ここに人間はあまり来ない。向こうでの生を終えた者はまっすぐ橋へ行ってしまうしね。来るのはユフェレンと麻の花で壊れた者……ぐらいかな〉
〈怪しげな者ばかりだ〉もう一頭のイルカが言い、キュルキュルと声がする。どうやら笑い声のようだった。
〈君のように普通の人間が来ることは稀だよ〉
〈おお、あの子も怪しげな類か〉
 ルシャデールが当たり前のように水の上を歩いて来る。
「馬鹿だね、おまえは。空を飛べるんだから、海だって溺れ死ぬことはないんだ」
「ああ、そうか」
〈二人ともしばらくここの海で遊んでおいき〉
 最初にアニスに声をかけたイルカが、嘴でルシャデールの足を打った。バランスを崩して、彼女は水中に落ちた。落ちる間際にアニスの腕をつかみ、二人の子は水の中へ潜っていく。
 鮮やかな赤や黄色の魚が、脇をすり抜けるように泳いでいく。もちろん息が苦しいなんてことはない。透き通った水の中はよく見えた。水面に陽光が銀色に引き伸ばされて輝いている。アニスがうれしそうに笑う。それを見ているルシャデールも顔がほころぶ。イルカたちはその横をすいすいと周り、尾で二人を水上に跳ねあげる。
(なんて自由で楽しいんだろう)
 放り上げられながら、アニスは思った。あの土砂崩れがあって以来、こんなに幸せな時間はなかった。
 ふと、空中に留まって、あたりを見回してみる。二人とイルカの他は誰もいない。あくまで青い空には、ふわりと綿のような雲が一つ。海の水面にはイルカたちが上を向いてアニスを見ていた。
 ルシャデールはと見れば、すぐそばに来ていた。彼女が手を差し出す。おずおずとアニスは手を握る。瞬時に二人は風になった。旋回し、上昇、下降を繰り返し、海面すれすれに波間をぬっていく。イルカが顔を出して、二人の上をジャンプした。
「すごい! すごいや!!」アニスが叫んでいた。「こんなことができるなんて!」
今度は上昇する。と、二人の手が離れた。「うわあっ! 落ちる!」アニスが急降下していく。
 ルシャデールが叫んだ。「落ちない!」
 キュッと降下が止まり、浮いていた。わかっていても、向こうの世界の感覚はしぶとく身にこびりついている。
 仰向けになったまま宙に浮いているアニスの手をルシャデールがつかんで起こした。
「行こうか」
 アニスはうなずいた。目的地はここではない。
「またおいで」
 イルカたちがジャンプして見送ってくれた。キュキュキュキュルと笑っていた。アニスはにこにこと手を振って別れた。
「ああ、なんて楽しいんだろう」
 アニスは海の方を振り返りながら言った。
「思いのままになる世界だからね。形があって、ない。自分の思い描いたものが現れる。それがユフェリなのさ」
 あれだけ、海中に入って遊んでも濡れてはいない。
「御寮様はフェルガナに来る時、船に乗って来たんですよね。向こうの世界の海もこんな感じですか?」
「ここまできれいじゃなかった」思い出しながらルシャデールは答えた。「水の色ももっと暗くて、波はずっと高かった」
 二人は浜辺を灯台に向かって歩く。海上に船は一艘も見えない。砂の上をカニがはっている。
「あの灯台は何のためにあるんです? 沖を船が通ったりするんですか?」
「見たことない。舟遊びくらいはするかもしれないけど。あれは『時の灯台』って言うんだ。時間のない場所だけど、あらゆる『時』につながる場所でもあるって、カズックが言っていた。」
「時間がない?」
「カデリ、つまり向こうの私たちが生きている世界では、時間は過去から未来に向けてしか流れないけど、あの灯台の中では、どの一瞬も同時に存在しているんだって。どの一瞬にも行くことができる。そう聞いたけど、私もよくわからない」
「うん」
 面白いところばかりだ。帰ったらシャムに教えてやりたい。そう思ったが、するとルシャデールに連れて行ってもらったことを話すことになる。そうなるとまた、変に心配させてしまうかもしれない。だいたい、信じてもらえるのかわからない。
 
 フェルガナ、そしてその周辺の国の人間も信心深い人が多い。日の出、日の入り、正午の礼拝には多くの人が集まる。僧が説く死後の世界やよい精霊や悪霊の存在も信じている。 
 だが、信仰としての信じることと、実話として信じることは違う。とりわけ、アニスのように、ユフェレンでもない者の話は、単にほら話になって終わりそうだ。
 おそらくルシャデールも他人にはあまり話さなかっただろう。こんなにも美しい世界を知りながら、他の人間とは共有できない。それは彼女の孤独の一端をなしていたに違いない。
 彼女の方を見ると、うっすらと微笑んでいる。アニスはまた鵺鳥の話を思い出す。島ぐらいはできただろうか?

 白亜の灯台の下は崖になっていた。それほど高くはないが、浜から崖の上まで石段がついている。
「何十段、いや何百段あるんだろう?」アニスは石段を見上げた。
「五百段」自信満々の顔でルシャデールが言う。「前に数えたんだ」
「すごい」
「ここを登りきって、少し行ったら運河の舟着き場に出るんだよ」
「運河?」
「そう、舟で『橋』まで行く。橋を渡ったら、荒れ野の道があって、その先が『庭』。おまえの家族がいる。」
(本当に会えるんだ)
 そう思うだけでアニスは胸が一杯になって溢れてきそうだった。ルシャデールが階段の方へ走っていった。アニスもそれを追いかける。
「上まで競争だよ」
「うん!」アニスも駆け出した。

(子供みたいだな)
 アビュー家のドルメンから、ユフェリの二人を見ていたカズックは笑った。
(いや、どっちも子供なんだが)
 穏やかだけど人の顔色をうかがってばかりの子と人の情を知らずに育った子と。どちらも甘える大人を持たない。
 特にルシャデールは、同年代の子供と遊んだり、はしゃいだりすることすらなかった。
(不憫なヤツだ。いや、今の二人は哀れみなんか無用だな)
 彼の前には、魂に置いていかれた二人の体が眠っているように、横たわっていた。カズックはそれをを穏やかな目で見守る。

 石段を上りきると、また違う景色が広がっていた。
 海の色はもっと暗さを帯び、冷たそうだ。波も少し荒い。空の色も白っぽい水色だ。
 海岸沿いの段丘には、ハマナスの木の群落が広がっている。花の濃いピンク色が空と海の青によく映えていた。奥の草原には黄色のキスゲやクロユリが花を開く。
 その草原の真ん中に竜がいた。
 銀色がかった水浅黄色の長い体はとぐろを巻いて、一番上に頭を乗せている。ごつごつとした顔に長いひげは風に揺らめく。雨竜は気持ちよさそうに目をつぶって鼻歌を歌っていた。
 その体に寄り掛かって笛を吹く者がいた。ルシャデールやアニスよりは五つ、六つ年長に見える。緑の羽がついたつばなしの帽子をかぶり、苔色のチュニックとズボンを身につけているが、少女とも少年ともつかない。
 笛の高い音色は樹のように暖かみがあり、よく澄んで、あたりに響き渡る。二人は立ったままその調べに聞き入っていたが、ふいに笛の音が止んだ。
「やっぱりこの音じゃ高すぎる。あの場所にはそぐわない」
 そうかな? と、竜はちょっと首をかしげた。そして笛吹きが再び笛にくちびるをあてた時、二人に気がついて立ち上がった。
「おお、お客人じゃな」
 竜は低く太い声で言った。
「やあ」
 にこりともせず、ルシャデールは挨拶を交わす。雨竜クホーンと楽師のラフィアムだと彼女は教えてくれた。
「何をしているんですか?」
「歌を作っていた。時々はクホーンにもらうこともあるんだけど」
 楽師のラフィアムは答えた。
「歌をもらう……?」
「僕は『囚われの野』にいる人たちが自らを解放できるよう、音楽を奏でるのが役目なのさ。あそこにいる人たちはみんな、何かに執着して自由な心を失っている。そのために『庭』まで行き着けないんだ」
 音楽であの人たちが解放されるというわけではないが、きっかけになれば、とラフィアムは話した。
「雨の主クホーンは音楽を司る者でもあるんだ。なぜって雷鳴と雨は創世の音楽だからね。『ユークレイシスの歌』にだってあるだろう。
 遠雷響くその中で
 ああ! それはまったく最初の音楽だった、とね」
 アニスの脳裏に再び土砂崩れの時の豪雨がよみがえる。とどろく雷鳴、暗黒の空を裂く稲光。苦しそうな家族の顔。彼は眉間に皺を寄せて、クホーンを見つめた。
「あの雨を降らせたのも、あなたなんですか?」
「そうだよ」クホーンは穏やかに答える。
「どうして、あんなひどい雨を降らせたんですか?」
 クホーンは慈しみのこもったまなざしを彼に向けた。それは同時に理解され難いことへの悲しみを映していた。
「それは君の大事な家族を奪ったことに対して怒っているのかな?」
「そうです」
「家族を亡くしたことで君は何を失ったのだろう? ここへ連れて来てもらったということは、君は死が無になることではないと知っているはずだ。人は死なない。ただ、生きる形が違うだけで」
「でも……向こうの世界ではもう、父さんや母さんと一緒にご飯を食べたり、お話をしてもらったり、一緒に木の実を取りにいったり、魚釣りに行ったり、そういうことはないんです」
「家族とのぬくもりや愛に満ちた生活ということだね」
 アニスはうなずく。
「しかし、彼らが生きていたとしても、その生活は永遠に続くものではない。どちらにしても、御両親やおじいさん、妹さんとは別れる時が必ず来るのだ。向こうの世界とこちらの世界にね」
 アニスはうつむく。それはわかっている。
「でも、それが早すぎた、と思うかな? 君が七歳で家族を失うのと、三十歳になって失うのと、何が違うだろう?」
 えーっと。アニスは考え込んだ。
「三十歳っていったら、もう大人だし……」でも、やっぱり家族が死ぬのは悲しいんじゃないだろうか。
「愛する者との別れは誰にとっても、いくつになっても悲しいものだ。まして君の場合は家族を一度に、突然失ってしまった。そのぶん悲しみが何倍にも感じられることだろう」
 クホーンは尻尾の先をなでるようにアニスの肩へこすりつける。固そうに見えるが、クホーンの皮膚は猫のように柔らかく暖かい。
「人は死なない。姿が見えず、声も聞こえないかもしれないが、彼らはいつもそばにいて、君を見守っている。それは、慰めのおとぎ話ではなく事実だ。しかし、私などに聞くより、父さんや母さんに会って直接聞く方がいいだろう」
 アニスはうなずいた。その瞳はまだ納得しきれていない。
「でも、やっぱり辛いし、寂しい」アニスの目からぽろりと涙がこぼれる。彼は袖で目をこすった。
「ああ、そうだね。辛いときはどんなに慰められても辛いさ。でも、一人ぼっちだった君には、もう仲間がいるじゃないか」
 クホーンはそう言って、ルシャデールの方を見た。彼女は少し離れたところで、にこりともせず睨むようにこちらを見ていた。まるで、そうしていないと雨竜がアニスを連れ去ってしまうとでも思っているかのように。
 楽師が今度は竪琴を爪弾き始めた。透明な音色があたりに広がっていく。歌い始めたのは『ユークレイシスの歌』だった。

「ユークレイシスの長たちが
 夜半に見たのは何だったろう
 幾千万の輝きをはらむ宇宙
 海の底より()づる泡
 トンボの記憶、蛙の歌
 すべては一つにつながって
 銀の鎖輪となる

 遠雷とどろくその中で
 ああ、まったくそれは最初の音楽だった
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よつと……
 水の子たちは地上へ向かう
 激しく吠える大気
 漆黒の空が分かたれる時
 彼らは目覚め、地に満ちる
 いつか再び天を目指す時まで

 ユークレイシスの長たちが
 夜半に見たのは何だったのか
 創世から終末まで
 ほんのわずかなひとときを
 ()()う小さな、小さなものたちのこと」

 ユークレイシスは天空の庭よりも遥か上層にある、神霊の世界だった。すべての魂はそこに発し、邂逅(かいこう)と離別を繰り返しながら、再びそこへ還っていく。
「それまでは、ユフェリとカデリを行きつ戻りつしながら、私たちは目指すのだよ」
 クホーンは穏やかに語る。
「何を目指すの?」アニスはたずねた。
「愛となることを」
「愛……」
「どの人生も目指すのはそれだけなのだよ。すべての魂は深いところでつながっている。人殺しも坊さんも、王も乞食も、パン屋も木こりも、子供も老人も、男も女も、みんな一つだった。カデリでは、そのことは忘れられてしまったね。そして、みんな他人より少しでもたくさん所有し、他人を意のままに動かそうと忙しい」
 クホーンとアニスが話していると、後ろから
「お茶はどうですか?」と声がかかった。振り向くと、若い女性と品のいい初老の男がお茶の用意をして待っていた。
 木のテーブルを囲んで、ラフィアム、ルシャデールは椅子に座って休んでいる。二人ともガラスの茶碗にお茶を飲んでいた。
「おお、これはありがたい」
 クホーンはとぐろを崩して、テーブルのそばに寄って行く。アニスも一緒に行く。
 男の人が彼にお茶碗を手渡してくれた。
「お砂糖はテーブルの上にありますよ」
「ありがとう」
 初老の男は灯台野の守番リシャルと名乗った。若い娘は運河の船頭ヴィセトワだという。
「こちらにお客様が見えることはあまりないのですが、いらした時のために私たちが案内人をつとめることになっています」リシャルはそう説明した。
 アニスは茶碗にお砂糖のかたまりを四つ入れた。普段、お屋敷で飲むお茶は砂糖なしだ。でも、本当は甘いものが大好きだった。
「運河はあまり使われていないけどね」ヴィセトワが言った。市場で腕輪や耳飾りの売り子をしていそうな、はすっぱな感じだが、明るい娘だ。「橋は知ってる?」
「いいえ、ここに来たのは初めてなので」
「橋は冥界の入口。ここからその橋へ向かう運河があるのよ。あたしはその運河を行く舟の船頭。ほら、お菓子もあるわよ」
 ヴィセトワはテーブルの上の蜂蜜菓子の皿を差し出した。アニスはそれを一つつまみ、口に放り入れる。蜂蜜の香ばしい風味と、ねっとりとした甘みが広がる。
「体がないのに、物を食べたりできるんですね」
「食べる必要はないけど、向こうから来た人にくつろいでもらうには、食べたり飲んだりが一番よ。他に聞きたいことは?」
 知りたいことはいっぱいあるはずなのだが、思いつかない。それより、この穏やかな空気の中に、ただ浸かっていたかった。潮の匂いが風に乗って、髪を撫でて行く。
 ややあって、アニスはヴィセトワにたずねた。
「どうして普通の人は、こっちの世界を見ることができないんですか?」
「あら、見てるわよ」彼女はさらりと言った。
「え?」
「眠っている時に夢を見るでしょう? ああいう時は、たいていユフェリに来ているのよ」
「でも、こんなきれいなところは見たことないです。僕が見る夢は意味のわからないものが多いし」
「だって、ユフェリは無限だもの。あなたが今見てきた海やこの野原なんて、ユフェリ全体からしたら……そうね、砂一粒よりも小さなものよ。居心地のいいところばかりじゃないし、ちょっと怖いところだってある。どんな夢を見るの?」
 アニスはちょっと考えた。たいていの夢は目覚めると霧のように消えてしまう。
「戦争で戦ってる夢。戦っているうちにお寺みたいな所に来て、今度は兵士じゃなく坊さんになってるんだ。そして恐ろしい顔の化け物に(むち)で打たれたり、火あぶりにされる」
「そりゃ楽しい夢だ」横からルシャデールが口をはさんだ。「前世の記憶かもね。きっとろくでもないことしていたんだ」
 アニスはむっとして彼女を見た。するとヴィセトワが言った。
「そうね、そういうこともあるわ。前世の記憶を夢に見ることも。そういう場合は、その前世が大きな意味を持っていることもある。だけど、ユフェリで見たことは、目が覚めた時、(ゆが)んでしまったり、忘れてしまうことが多いのよ。怖い夢ばかりじゃないでしょ?」
「赤ちゃんを抱いている夢もよく見るよ。すっごく幸せな夢なんだ」
「妹?」ルシャデールは控えめにたずねた。
 ううん、とアニスは首を振った。
「誰だかわからない。ハトゥラプルやピスカージェンみたいに石の家じゃなく、木の家だった。昔、あんまり幸せな夢だったから、父さんや母さんに話したんだ。大人になったらお母さんになりたいって」
 ルシャデールが軽く噴き出し、せせら笑う。
「バカじゃないのか」
「うん、大笑いされた」
 お茶を飲んだ二人は、再び『天空の庭』を目指す。ヴィセトワが舟で橋まで送ってくれるという。楽師やクホーンが船着き場まで来てくれた。
「帰りにもう一度寄るといい」クホーンが深みのある声で言った。「待っているよ」
 アニスはうなずいた。
小さな舟はゆっくりと運河を進んだ。霧の切れ間から、岸辺に咲く紫のアヤメがかいま見える。ときおり、鳥のさえずる声が聞こえた。鹿が草をはみながら舟を見送ることもあった。今のところ、彼らの他に人は全然みかけない。
 アニスはヴィセトワにたずねた。
「御寮様みたいに夢以外で……ここを訪れることができないのはどうしてですか?」
「ユフェレンは役割を担って生まれるから。でも、それ以外の人は……」ヴィセトワは考え込み、「どうしてだと思う?」と聞き返した。
「考えてもみなよ」ルシャデールが言った。「みんながユフェリにしょっちゅう来ることができたら、カデリに帰りたくなくなる奴がいっぱい出てくるじゃないか」
「ああ、そうか……」アニスもすでにそう思っていた。
 それもあるわ、とヴィセトワはうなずいた。
「『囚われの野』を除いて、ユフェリは光の世界よ。カデリには闇も光もある。場合によっては、闇の方が多いかもしれない。でも、光を光として理解できるのは、闇があってこそ。旅人にとって、闇の中に見出す人家の灯りがどれほど心強く、ありがたいものか。病気をしたことがない人には、健康のすばらしさはわからない。病人こそ、健康のよさをわかっているもの、そういうこと」
 もし、ダイヤモンドが石ころのようにその辺にごろごろ転がっていたら、誰もありがたがらない。
「幸せもそんなようなものだってことですか?」
「ええ。それを()るために、みんなカデリへ生まれてくるの。宇宙には無数の世界があるけど、カデリはいいってみんな言うわ。あんな冒険に満ちたとこはそうそうないものね」 


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