5/7 あかりは絶望的な気持ちで
文字数 3,750文字
あかりは絶望的な気持ちで、目を覚ました。あまりに悲しくて、涙があふれた。このまま、真っ黒になってしまう自分が可哀相だった。
そこは、病院のベッドのうえだった。蛍光灯の光が、あたりを白々と照らし出している。窓のそとは、すでに暗闇に包まれていて、雲の切れ間から月がのぞいている。
あかりは、黒い部分を確かめようと、右腕を顔の前まで持ってきた。それは、さらに大きくなっていて、直径五センチほどになっていた。
しばらくすると、母親と医者と看護婦が、病室に入ってきた。医者が脈を取ったり、ペンライトで目をのぞきこんだりした後、ゴニョゴニョと、看護婦に何かを話すと、看護婦がそれを記帳した。
母親の顔が近づいてきて、「もう、大丈夫だからね」と、あかりの手を握った。
一体、なにが大丈夫だというのか…
あかりは、何も知らない母親の気遣いをわずらわしく感じた。
「ヒカルくんはどこ? わたし、ヒカルくんに伝えなきゃいけないことがあるの」
母親と医者と看護婦は、何も答えず、曖昧にほほえみながら、あかりの顔を見ている。
「どうしたの? 何か、あったの?」
母親と医者が顔を見合わせ、母親が、わたしから話します、という目配せをして、医者も、それではお願いします、と目で答えた。
「あかり…お母さんのいうこと、落ち着いて聞いてね…」
あかりは、静かにうなづいた。
「あなた…ヒカルくんに、だまされていたのよ…」
あかりは、最初、母親が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「え…何を言っているの、お母さん…?」
また、医者が何かを看護婦に伝えて、看護婦がそれを記帳する。
「ヒカルくんが、白状してくれたの…あかりをだまして、土蔵のなかに誘い込んだって…」
そう言った母親の眉が、一瞬、醜くゆがむ。
「ヒカルくんが…わたしをだます?」
あかりは混乱して、そうつぶやいた。
「ミイラがいるって信じ込ませて…土蔵のなかを探検するんだって…あかり、言われたんでしょう?」
「えッ…ヒカルくんが、ミイラのこと、話したの?」
医者が、眉根を寄せて、母親に、ここからはわたしが、という目配せをする。
「あかりちゃん…きみは、ヒカルくんにだまされていたんだ…動くミイラなんか、そんなお化けみたいなもの、実在するわけがないだろう?」
この医者は何なのだろう、いきなり出てきて、何様のつもりなのだろうか…
「とにかく、ヒカルくんに会わせて…大事なことなの…はやく、伝えないと…」
「何を伝えると言うんだい? 代わりに、お母さんに伝えてもらうんじゃ、ダメかい?」
何なんだ、この医者は…
あかりは、しだいにイライラしてきた。
「お母さん!! ヒカルくん、どこにいるの!!」
母親は、困った顔をして、医者の方をうかがう。
「ヒカルくんと会わせることはできない…きみは彼のマインドコントロール下にあるんだ…」
マインドコントロール?…この医者は、さっきから、何を言って…
「お母さん!! ミイラはいるんだよ!! ほら、ここに黒い部分があるでしょ!!」
あかりが上体を起こし、母親に黒い部分を見せようとすると、医者がその肩をつかみ、力いっぱいにベッドに押さえつける。
「おとなしくなさい!! 暴れたって、何にもならないんだから!!」
あかりのなかで、何かが切れた。
「ふざけないで!! 何すんのよ!! 離してよ!!」
あかりは、医者の押さえつけている手を、何とかして払いのけようと、メチャクチャに暴れたが、医者の力は強く、どうすることもできなかった。
「鎮静剤!!」
医者が叫び、看護婦が注射器を取り出す。
「な、何をするの!! お母さん!! 何なの、これ!!」
あかりの右腕に針がすべり込み、透明な液体が押し込まれる。途端に頭がぼんやりとしてきて、思考をとりまとめることが出来なくなる。
こんなことって…こんなバカなことっテ…ヒカル…クン…タスケテ…
* * *
ヒカルは、あかりの声が聞こえたような気がした。ふっと顔を上げたが、そこには無人の公園があるだけだった。空を見上げると、雲のあいだから月が見えた。
土蔵で見つけた、ゴワゴワした、妙に分厚い紙。それは、ミイラとあかりのあいだで取り交わされた、契約書だった。
五年前のあの日、ミイラは、ヒカルをたしかに食い殺した。そのとき、あかりは、ヒカルを生き返らせるために、五年後、自分の皮膚をミイラに移殖することを条件に、契約をむすんだ。そのときの契約書が、五年ものあいだ、ずっと、土蔵のなかに保管されていたのだった。
契約書によると、三十日間かけて、あかりはもとの皮膚をうばわれ、黒い皮膚でおおわれていくことになっていた。いまは右腕だけが黒く変色しているが、ゆっくりと時間をかけて、それが広がっていくのだろう。レーザーで治療したところで、それを止めることは、きっと、不可能だ。
契約書にある、「水野あかり」というサインは、あかりの筆跡のようだったが、あかりは、この契約のことを覚えていなかった。ヒカルにしてもそうなのだが、あの日の記憶は、夢のようにぼんやりとしているので、きっと、この契約のことも忘れてしまっているのだろう。
あかりが覚えていないのであれば、あえて思い出させるまでもない…もし、あかりが契約のことを思い出したなら、犠牲的精神をもって、真っ黒になってしまうことを受け入れるにちがいない…そんなこと…俺には耐えられない…
ヒカルは、ゆっくりとブランコをこぎ始める。ヒカルの身体に、ぐうううん、ぐうううん、と力が加わる。
こんな契約、破棄してしまえばいい…きっと、契約を破棄すれば、俺は死ぬことになるだろう…死ぬのはたしかに怖いけど、どうせ、一度は死んだ身さ…あかりには、感謝している…あかりのおかげで、五年も余計に生きることができた…今度は、俺があかりを助ける番だ…
「よッ」と声を出し、ブランコから身体を投げ出し、着地を決める。
ヒカルは、あかりの母親に、次のような、うその真実を告げた。
まず、周到な準備をして、あかりに、ミイラの存在を信じ込ませた…そして、探検と称して、土蔵に誘い込み、不純な思いを遂げようとしたが、アクシデントが起きて、あかりにケガをさせてしまった…意識が戻らないので、怖くなって、救急車を呼んだ…
あかりの母親は、おどろくほど、あっさりとそのことを信じた。
ヒカルは、自分の母親に対しても、あかりの母親のときと同様に、うその真実を告げた。母親は、真っ青になり、身体をガクガクと震わせて、「あんたって子は…なんて…」とうめき、手を振り上げるのだが、ヒカルの強い目を見ると、打つことができなくなり、台所に逃げかえり、食卓に突っ伏して、泣き崩れるのだった。
ヒカルは、階段を上がり、部屋のドアを閉めて、ベッドに腰を掛ける。ふう、とひとつ息をはき、ポケットに入れておいた、契約書を広げる。
そこには、ミイラとあかりのあいだに取り交わされた、契約の内容と、ミイラを呼び出す方法が書かれてあった。ミイラを呼び出すには、まず、完全な暗闇を作り出す必要があったが、それは、土蔵の暗闇を使えば事足りるだろう。
あとはミイラの名を呼べば、それだけで、そこにあいつが現われると書いてある。ミイラの名は、契約書に明記してあり、あかりの名前のうえに、「Deepness」と署名されていた。
父親が仕事から帰ってきて、階下で母親と何かを言い合っていたが、しばらくすると、ふたりで自動車に乗り込んで、出かけていった。おそらく、あかりが入院している病院に向かったのだろう。ヒカルひとりになって、家のなかは、静かになった。ヒカルは、固く目を閉じ、「よし」とひとつ気合いを入れて、階段を下りた。
土蔵の扉は、昼間の騒動のときのままで、開き放しになっていた。そのなかに、静かに身体を滑り込ませて、後ろ手に扉を閉じる。
あたりは完全な暗闇に包み込まれて、まったく何も見えなくなる。ザラリとした手触りの壁をつたい移動していくと、固い棚のようなものに触れたので、それをつたって、契約書を見つけたあたりに移動する。
昼間に散らかしたものが、あたりに転がっていて、何度かそれらにつまずきそうになったが、何とかたどり着くことができた。
一度、深呼吸をして、気持ちをしずめてから、ヒカルはミイラの名を呼んだ。
「出てこい!! ディープネス!!」
一瞬の間があった。
次の瞬間、身体中の毛穴が開いたようないやな感じが、ヒカルをおそった。途端に、目の前に何かの気配を感じた。その姿はまったく見えないのだが、そこにいるのは間違いなかった。
「ディープネスだな?」
ヒカルは、声がうわずらないように注意して、そう言った。そいつは、乾いた臭いのする息を吐くと、しわがれた声でヒカルにこたえた。
「そうだよ…わたしに何か用かい?」
ヒカルは、心底、いやな声だと思った。
そこは、病院のベッドのうえだった。蛍光灯の光が、あたりを白々と照らし出している。窓のそとは、すでに暗闇に包まれていて、雲の切れ間から月がのぞいている。
あかりは、黒い部分を確かめようと、右腕を顔の前まで持ってきた。それは、さらに大きくなっていて、直径五センチほどになっていた。
しばらくすると、母親と医者と看護婦が、病室に入ってきた。医者が脈を取ったり、ペンライトで目をのぞきこんだりした後、ゴニョゴニョと、看護婦に何かを話すと、看護婦がそれを記帳した。
母親の顔が近づいてきて、「もう、大丈夫だからね」と、あかりの手を握った。
一体、なにが大丈夫だというのか…
あかりは、何も知らない母親の気遣いをわずらわしく感じた。
「ヒカルくんはどこ? わたし、ヒカルくんに伝えなきゃいけないことがあるの」
母親と医者と看護婦は、何も答えず、曖昧にほほえみながら、あかりの顔を見ている。
「どうしたの? 何か、あったの?」
母親と医者が顔を見合わせ、母親が、わたしから話します、という目配せをして、医者も、それではお願いします、と目で答えた。
「あかり…お母さんのいうこと、落ち着いて聞いてね…」
あかりは、静かにうなづいた。
「あなた…ヒカルくんに、だまされていたのよ…」
あかりは、最初、母親が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「え…何を言っているの、お母さん…?」
また、医者が何かを看護婦に伝えて、看護婦がそれを記帳する。
「ヒカルくんが、白状してくれたの…あかりをだまして、土蔵のなかに誘い込んだって…」
そう言った母親の眉が、一瞬、醜くゆがむ。
「ヒカルくんが…わたしをだます?」
あかりは混乱して、そうつぶやいた。
「ミイラがいるって信じ込ませて…土蔵のなかを探検するんだって…あかり、言われたんでしょう?」
「えッ…ヒカルくんが、ミイラのこと、話したの?」
医者が、眉根を寄せて、母親に、ここからはわたしが、という目配せをする。
「あかりちゃん…きみは、ヒカルくんにだまされていたんだ…動くミイラなんか、そんなお化けみたいなもの、実在するわけがないだろう?」
この医者は何なのだろう、いきなり出てきて、何様のつもりなのだろうか…
「とにかく、ヒカルくんに会わせて…大事なことなの…はやく、伝えないと…」
「何を伝えると言うんだい? 代わりに、お母さんに伝えてもらうんじゃ、ダメかい?」
何なんだ、この医者は…
あかりは、しだいにイライラしてきた。
「お母さん!! ヒカルくん、どこにいるの!!」
母親は、困った顔をして、医者の方をうかがう。
「ヒカルくんと会わせることはできない…きみは彼のマインドコントロール下にあるんだ…」
マインドコントロール?…この医者は、さっきから、何を言って…
「お母さん!! ミイラはいるんだよ!! ほら、ここに黒い部分があるでしょ!!」
あかりが上体を起こし、母親に黒い部分を見せようとすると、医者がその肩をつかみ、力いっぱいにベッドに押さえつける。
「おとなしくなさい!! 暴れたって、何にもならないんだから!!」
あかりのなかで、何かが切れた。
「ふざけないで!! 何すんのよ!! 離してよ!!」
あかりは、医者の押さえつけている手を、何とかして払いのけようと、メチャクチャに暴れたが、医者の力は強く、どうすることもできなかった。
「鎮静剤!!」
医者が叫び、看護婦が注射器を取り出す。
「な、何をするの!! お母さん!! 何なの、これ!!」
あかりの右腕に針がすべり込み、透明な液体が押し込まれる。途端に頭がぼんやりとしてきて、思考をとりまとめることが出来なくなる。
こんなことって…こんなバカなことっテ…ヒカル…クン…タスケテ…
* * *
ヒカルは、あかりの声が聞こえたような気がした。ふっと顔を上げたが、そこには無人の公園があるだけだった。空を見上げると、雲のあいだから月が見えた。
土蔵で見つけた、ゴワゴワした、妙に分厚い紙。それは、ミイラとあかりのあいだで取り交わされた、契約書だった。
五年前のあの日、ミイラは、ヒカルをたしかに食い殺した。そのとき、あかりは、ヒカルを生き返らせるために、五年後、自分の皮膚をミイラに移殖することを条件に、契約をむすんだ。そのときの契約書が、五年ものあいだ、ずっと、土蔵のなかに保管されていたのだった。
契約書によると、三十日間かけて、あかりはもとの皮膚をうばわれ、黒い皮膚でおおわれていくことになっていた。いまは右腕だけが黒く変色しているが、ゆっくりと時間をかけて、それが広がっていくのだろう。レーザーで治療したところで、それを止めることは、きっと、不可能だ。
契約書にある、「水野あかり」というサインは、あかりの筆跡のようだったが、あかりは、この契約のことを覚えていなかった。ヒカルにしてもそうなのだが、あの日の記憶は、夢のようにぼんやりとしているので、きっと、この契約のことも忘れてしまっているのだろう。
あかりが覚えていないのであれば、あえて思い出させるまでもない…もし、あかりが契約のことを思い出したなら、犠牲的精神をもって、真っ黒になってしまうことを受け入れるにちがいない…そんなこと…俺には耐えられない…
ヒカルは、ゆっくりとブランコをこぎ始める。ヒカルの身体に、ぐうううん、ぐうううん、と力が加わる。
こんな契約、破棄してしまえばいい…きっと、契約を破棄すれば、俺は死ぬことになるだろう…死ぬのはたしかに怖いけど、どうせ、一度は死んだ身さ…あかりには、感謝している…あかりのおかげで、五年も余計に生きることができた…今度は、俺があかりを助ける番だ…
「よッ」と声を出し、ブランコから身体を投げ出し、着地を決める。
ヒカルは、あかりの母親に、次のような、うその真実を告げた。
まず、周到な準備をして、あかりに、ミイラの存在を信じ込ませた…そして、探検と称して、土蔵に誘い込み、不純な思いを遂げようとしたが、アクシデントが起きて、あかりにケガをさせてしまった…意識が戻らないので、怖くなって、救急車を呼んだ…
あかりの母親は、おどろくほど、あっさりとそのことを信じた。
ヒカルは、自分の母親に対しても、あかりの母親のときと同様に、うその真実を告げた。母親は、真っ青になり、身体をガクガクと震わせて、「あんたって子は…なんて…」とうめき、手を振り上げるのだが、ヒカルの強い目を見ると、打つことができなくなり、台所に逃げかえり、食卓に突っ伏して、泣き崩れるのだった。
ヒカルは、階段を上がり、部屋のドアを閉めて、ベッドに腰を掛ける。ふう、とひとつ息をはき、ポケットに入れておいた、契約書を広げる。
そこには、ミイラとあかりのあいだに取り交わされた、契約の内容と、ミイラを呼び出す方法が書かれてあった。ミイラを呼び出すには、まず、完全な暗闇を作り出す必要があったが、それは、土蔵の暗闇を使えば事足りるだろう。
あとはミイラの名を呼べば、それだけで、そこにあいつが現われると書いてある。ミイラの名は、契約書に明記してあり、あかりの名前のうえに、「Deepness」と署名されていた。
父親が仕事から帰ってきて、階下で母親と何かを言い合っていたが、しばらくすると、ふたりで自動車に乗り込んで、出かけていった。おそらく、あかりが入院している病院に向かったのだろう。ヒカルひとりになって、家のなかは、静かになった。ヒカルは、固く目を閉じ、「よし」とひとつ気合いを入れて、階段を下りた。
土蔵の扉は、昼間の騒動のときのままで、開き放しになっていた。そのなかに、静かに身体を滑り込ませて、後ろ手に扉を閉じる。
あたりは完全な暗闇に包み込まれて、まったく何も見えなくなる。ザラリとした手触りの壁をつたい移動していくと、固い棚のようなものに触れたので、それをつたって、契約書を見つけたあたりに移動する。
昼間に散らかしたものが、あたりに転がっていて、何度かそれらにつまずきそうになったが、何とかたどり着くことができた。
一度、深呼吸をして、気持ちをしずめてから、ヒカルはミイラの名を呼んだ。
「出てこい!! ディープネス!!」
一瞬の間があった。
次の瞬間、身体中の毛穴が開いたようないやな感じが、ヒカルをおそった。途端に、目の前に何かの気配を感じた。その姿はまったく見えないのだが、そこにいるのは間違いなかった。
「ディープネスだな?」
ヒカルは、声がうわずらないように注意して、そう言った。そいつは、乾いた臭いのする息を吐くと、しわがれた声でヒカルにこたえた。
「そうだよ…わたしに何か用かい?」
ヒカルは、心底、いやな声だと思った。