第3話

文字数 13,261文字

 家に戻った私は自分の部屋に入り、優斗が好きそうな本を探した。彼の感性や作風からして、ボードレールやランボー辺りの作品が良いだろう思い、それぞれ一冊しかないランボーとボードレールの詩集を手に取り持って行く本にした。その後も本棚を眺め、私は萩原朔太郎の詩集と石川啄木の歌集。それにテキストに使っているコクトーの『恐るべき子供たち』と、東京に住んでいた頃に美術館で観たルネ・マグリット展の図録を加えた。全部で六冊。結構な量になったが構わなかった。私はそれをトートバッグに入れて、何時でも持ち出せるようにした。そして振り向いて本棚を見ると、抜き取られた本があった部分が抜け落ちた櫛の歯みたいにぽっかり空いて、小さな空洞をいくつか作っている。白骨死体の頭蓋骨の眼窩のようだと私は思った。
 私はそれから優斗と会う日を心待ちにした。まだ三回しか会っておらず、一緒に過ごした時間は一時間もないのに。お互いの事を理解したような気分だった。
 その日はそれから家から出る事はしなかった。父母がそれぞれの出先から連絡してきて帰宅時間を伝えると、私は帰宅時間を見越して風呂を沸かした。夕食はどうするかと聞くと、母から返信があり、新宿伊勢丹で何か買って来るとの事だった。弟は帰宅時間が不明だったので、弟の分は無いらしい。
 最初に帰宅したのは父だった。私は父に風呂が沸いている事を告げると、父は喜んで着ていたライダースウェアを脱ぎ、十二月の寒い空気によって冷やされた身体を温める為に風呂場に向かった。それから十五分ほどで母が帰宅した。私達はそれぞれの入浴を終えたあと、リビングでデパートの総菜を食べる事になった。
「今日は何をしていた?」
 父が私のグラスにブルゴーニュ産の赤ワインを注ぎながら尋ねた。私はグラスの半分ほどワインが入った所で注ぐのを止めてもらい、こう答えた。
「何もなかったよ」
 私は嘘をついた。優斗の事は家族の誰にも話したくはない。自分だけの存在にしておきたかった。
「この街にはもう慣れた?」
 今度は母が訊く。
「ええ、良さそうな場所もいくつか見つけた」
 私は答えた。お気に入りの場所を見つけたのは嘘では無かった。
 程なくして夕食はお開きになった。私は歯を磨き部屋に戻ると私は部屋の明かりを消して布団に入った。一日を終えて安らぎを得る時間になった筈なのに、どうも気分が冴えて仕方ない。部屋の闇は私の周囲を覆い、外の音は殆ど聞こえてこない。
 まるで優斗の瞳の中に入り込んだような気分だ。私はそう思った瞬間、頭の頭蓋骨の裏に優斗の姿がおぼろげに浮かび、ペンキでコンクリートに描いた人物画のように張り付いた。
 その張り付いた優斗の顔は私から消えなかった。何時しか私はその表情の固まった優斗の事を掴もうとしたが、頭の中に浮かんだ優斗に触れる事は出来なかった。私は胸が苦しくなり、自分の意識の中に浮かんだ優斗を追い求めた。だが優斗は表情を変えずに頭の中に観念として残っている。私は息が荒くなり、身体の芯に疼きを感じて手を己の女の部分に伸ばした。
 優斗は何も変化しない。表情はルネッサンス期の宗教画に描かれた天使かキリストのような澄まし顔で、何もせず、人間として生きている事をしない存在、信仰の対象の様なとして私の意識にあった。そして私は気が付くと、体中の強張っていた神経が一気に弛緩するのを感じて、ようやく落ち着きを取り戻した。それと同時に、頭の中に浮かんだ優斗は水の底に沈むように輪郭を曖昧にして、私の中から消えていった。それでようやく私は眠りに着く事が出来た。



 二日後、私は大学に行った。教室に入り憲法学の講義が始まるまでの間、私は無表情な優斗の事を朧気に考えていた。私の頭の中には優斗の事が本棚にある一冊の本のように収まっていたが、講義が始まると彼は頭の中の隅にある使わない部分に移動して、私を講義に集中させてくれた。
 そうして私は講義を終え、次の政治学の講義までの時間を見た。次の講義まで一時間半の余裕がある。私が今いる別の校舎から離れた所にある大学図書館に行って、優斗が好きそうな本を探そうかと思ったが、借りた本を入れるトートバッグを優斗の所へと持って行く本を入れてそのままにしている事に気付き、大学図書館の入り口に来たところで私は足を止めた。
 仕方ないので私は大学構内をうろつき、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出してロックを解除した。すると、知らない番号からのショートメールが一通届いているのに気付いた。メールを開くと、それは優斗からの物だった。

「香澄さんへ。初めてメールをします優斗です。お会いできるのは何時頃でしょうか?」

 私はスマートフォンの画面に表示されている時刻を見た。まだ昼の十二時四十七分。こんな時間にメールなど送れるのだろうかと思ったが、それよりも優斗から連絡が来た衝撃が、私を貫いて思考を鈍らせた。絵文字も何もない簡潔な文章は、モノトーンで彩られた優斗そのもの表している気がした。いつもとは違うですます調の言葉遣いも、私には新鮮だった。

「今東京の大学にいます。講義が終わるのが午後二時過ぎなので、戻る時間を入れるとそちらに着くのは午後四時ごろになります」

 私は絵文字も一切入れない文を作って返信した。その間に次の政治学の講義を受けなければならない時間になったので、私はスマートフォンを仕舞って次の教室に向かった。
 講義が終わると、私は再びスマートフォンを取り出した。ロックを解除するとそこには優斗からのショートメールが再び届いていた。

「わかりました。もどったら連絡をください。いつもの場所にいます」

 優斗からの言葉はそのように綴られていた。私は「了解です」と言う言葉を残し、バイク駐車場に向かった。
 バイクに乗り込むと、私は王子北から高速に乗った。首都高速と東北自動車道をいつもより早い一二〇キロ前後の速度で北上し、蓮田のサービスエリアでスマートインターから高速を降りた。
 家に戻りバイクをガレージに戻すと、私は自分の部屋に行き、優斗に読ませようと思って用意した本を入れたトートバッグを手に取った。私は優斗に戻ったから待ち合わせ場所で会おうと言うメールを送ると、戸締りをして家を出て、足早に道を歩いていつもの土手に向かった。
 スマートフォンで時間を確認すると、午後四時を少し過ぎた辺りだった。太陽は西側に傾き、空の色を淡いオレンジ色に染めて、街に憂いが滲んだような表情を与えている。新しく畑の中に出来た診療所向かいの、土手に植えられた桜の木々がある場所に、優斗は立っていた。その姿は制服姿ではなく、上は黒のダウンジャケットにズボンはブラウンのカーゴパンツと言う姿だった。
「お待たせ。待った?」
 私は優斗に言った。
「いいや、まだ来て二分くらいしか経っていない」
 優斗はメールの文体とは異なるいつもの口調で答えた。
「どうする?これから」
 私は返した。ここには二人で過ごせるような商業施設も、秘密の隠れ家になりそうな建物も無かった。
「香澄さんの家は、ここからどれくらいの距離?」
「歩いて十五分くらい」
 優斗が尋ねるので私は答えた。
「なら、俺の家より近いね。どうする?」
 優斗の提案に私は考えた。彼を家に招いても良かったが、家族が返ってきたりしたら少し面倒だった。
「折角だから、優斗の家に行ってみたい。どの辺りにあるの?」
「ここから田んぼを越えて工場のある所にある雑木林の中。少し歩くよ」
「問題ないわ」
 私は答えた。その言葉を優斗は承諾して、自分がここまで来たであろう道を戻り始めた。私はその後に続き、優斗の家に向かった。
 冬の冷たく乾燥した風が吹きつける道を、私は優斗の後に続いて進んだ。丁度西側にある太陽には背を向ける形となり、先程より濃さを増したオレンジ色が私と優斗の影を遠くに伸ばしている。
 それから工場がある地域を抜け、目の前に雑木林がある地域に着く。その雑木林はかつて宅地造成の際に切り開かれるのを免れた雑木林らしく、光が失われつつある今の時間帯では周囲に対し恨みを抱いたような雰囲気が漂う場所だった。良い例えではないだろうが、死体遺棄事件が起きるのは大抵この様な雑木林だ。
 その中に優斗の家はあった。築四十年以上は経過している日本家屋だ。家人が居ないのか、外灯はおろか玄関と部屋の明かりもない。優斗はガラスの引き戸の鍵を開け、横にひいて玄関を開いた。
「どうぞ」
 優斗は無機質に私を招く。
「家の人は?」
 私は浮かんだ疑問を素直にぶつけた。
「俺以外、ここには居ないよ」
 優斗はこの辺りに漂う冬の空気よりも冷たく言い放った。彼が家の中に入ると、私も吸い込まれるように中に入り「お邪魔します」と申し訳程度の挨拶をする。家の中は薄暗く空気が澱んでいて、私と言う外部の人間が入ったことでようやく空気が揺らめくような重苦しさに満ちていた。
 冷え切った床の冷たさを靴下越しに足の裏で感じながら、私は家の居間に通された。畳敷きの六畳の部屋には本や様々な物、布団や毛布などが散乱している。天井の照明はあまり強くなく、辛うじて気分が滅入らない程度の明かりしかなかった。優斗はここで普段を過ごしているのだろうか?
 私はこの俗世から隔絶された空間に一人で佇む優斗の姿を想像した。薄暗く辛うじて様々な物が判別できるだけの光しかない空間に、優斗が一人。周囲には様々な物が散乱しているが、彼にとって単なる演出の品に過ぎない。大切なのは優斗がそこにいる事なのだ。
「どうかした?」
 私が部屋の様子に見とれていると、優斗が背後から声を掛けた。
「ここに一人で住んでいるの?」
 私は優斗に尋ねた。
「そうだよ。だから自分の居心地がいい様にしているんだ。部屋を片付ける気分も起こらない」
 優斗はつまらなそうに答えた。自分がそのような特殊な環境でしか生きられないと、まだ若いながら自覚しているのだろう。
「ご両親か、家族の方はいらっしゃるの?」
「いない。両親二人は中学に上がる直前に居なくなった。残ったのはこの家と俺だけ。時々友達が差し入れをしてくれるくらいで、交流は無いよ。施設に連れていかれるかと思ったけれど、書類上はまだ両親と同居している事になっているから入れないんだ」
 優斗は続けた。この地球上に出来た小さな穴のような場所から、優斗は外を眺めているのだろう。それは間違いなく、社会や俗世から超越した場所に、彼が居住している理由に他ならなかった。
 それから優斗は私にインスタントコーヒーを用意してくれた。私はリビングにトートバッグを置き、中から優斗の好きそうな本を取り出した。持ってきたのは、ルネ・マグリット展の図録に、ランボーとボードレールの詩集、萩原朔太郎と石川啄木の詩集だった。本を並べて一通りの表紙を優斗に見せると、彼はランボーの詩集に手を伸ばした。
 優斗は文庫本のランボー詩集を手に取り、まだまだ子供の形をしたその白い指先でページをめくると、彼はそのまま本に書かれている言葉を目で追った。優斗の中に、日本語に訳したランボーの綴った言葉はどのように入って行くだろうか。新鮮で彼に新しい刺激を与えてくれるだろうか、それとももうすでに知っている知識か体験済みの出来事として捉えられるだろうか。私は文章を目で追う優斗の表情を見たが、彼の表情は出会った時と変化がなく、墓石のように生気が無かった。
 暫くして優斗はランボーの詩集を閉じて、畳の上に置いた。そして俯いたままこう答えた。
「この人は、一つの事を増幅させることが出来る人だね。俺は目に見た物を関連付けて文章にする事しかできないけれど」
「一つの事から数を増やす事も、大切な表現方法の一つだと思うけれど」
 私は自分の意見を述べた。
「俺は違う。一つの物は何事にも染まっていない一つの存在だからシンプルだし、本来の姿を隠してしまう気がする」
 優斗は答えた。私はその言葉に反論を用意していなかったし、優斗の言葉を検証して反論を作る気持ちにもなれなかった。優斗の言葉はそのままの形で残しておきたい。と言う気持ちが強かった。
 優斗は別の本に手を伸ばした。手に取ったのは萩原朔太郎の詩集で、ランボー詩集の二倍の厚さがあった。優斗はページを開き、再び書かれている事を目に移した。相変わらず表情は墓石のように固く無機質だったが、それがかえって私に安心感をもたらした。たとえ何があっても、優斗は優斗のままなのだ。
 それから暫くして優斗は本を閉じた。そして畳の上に並んだ本の表紙を眺めて、こう漏らした。
「まだ二冊しか読んでいないけれど、どの人も屈折した気持ちを抱えているみたいだね」
 その表情は冷たいままだった。彼の口から出た言葉が無機質な世界に瑞々しさを与えたが、すぐに消えてしまった。二冊読んだだけで用意した本の傾向を当てるなんて、彼の勘は鋭いものがあると思った。
「優斗の書く短文も、こんな系統よ」
 私はその事実を彼に言った。優斗自身はその事を意識していないだろうが、私には用意した本と彼の世界は親和性が高いと思っている。
「俺は誰かの真似をしたくて、いろいろ書き溜めているんじゃない。確かに穴の中から世界を覗くような視点で語っているかもれないけれど、世間は僕の事を穴の中にはまった人間として観ているばかりじゃないと思う」
 優斗はそこで区切り、私を見た。彼の瞳の中に私の姿が映ると、優斗は瞳の中に少年らしい熱を宿らせてこう続けた。
「香澄さんには、どう映るの?俺の事が。穴に入って外を眺めている存在か、それともそれとは違って見えるのか」
 私は頭が真っ白になった。優斗にそんな事を言われるなど、夢にも思っていなかったのだ。
「俺には香澄さんが普通の人に見えるけれど、香澄さんには俺がどう映るの?」
 再び優斗は詰めよると、自分の側にあったA4のノートとシャープペンシルを一緒に手渡した。それは彼の心の鏡であり、中に入る為の入り口でもあった。
「香澄さんの言葉で、俺の事を書いてみて」
 優斗は私に反論させなかった。私は口で何かを語る事を止めた事に気付き、声を出そうとして見たが出なかった。追い詰められた私は優斗のノートを受け取り、ページを開いてシャープペンシルを手に取った。そして私は自分でも不思議なくらいに、すらすらとペンを走らせて、彼に対するイメージをこう書いた。


「彼はいま一人でいる。彼が居るのは大地と空に挟まれ、近くに川が遠くに漆黒に近い色をした雑木林がある、艶の無い乾燥した寒い場所だ。その場所で唯一温もりがあるのは彼と、その彼を見つめている私だ。彼は私の方向を見ていないが、私には彼の事がはっきり見える」

 私は素直な気持ちを表した短文を書いた。彼の心の中に私の一部が侵入したような奇妙な錯覚に襲われたが、私はそれを消すつもりはなかった。
 私は優斗にそのノートを手渡して、書いた短文を優斗に見せた。優斗はその言葉を目で追って、こう答えた。
「香澄さんには僕が見えるんだね。一人の人間として。寂しい場所にいるけれど、僕は温もりを持った存在なんだね」
「ええ」
 優斗の言葉に、ようやく私の喉が言葉を発した。その時初めて私は真の意味で優斗とのつながり、同じ場所にいるという実感に気付いた。
「ありがとう。すごく救われたような気がする。俺の事を目の中に入れてくれている人が居れば、うれしいよ」
 私は優斗のその言葉を噛み締めた。甘さとも旨味とも塩辛さとも言えぬ複雑な味が、奥歯から後頭部に掛けて広がった。
 それから暫くして、私は優斗の部屋を出た。持ってきたランボーと萩原朔太郎の詩集は、優斗の為に残す事にした。
 廊下を進み玄関に向かうと、外はすっかり日が沈んで暗闇に飲まれていたが、ガラス戸の向こうに人影のようなものが写っている事に気付き、私は身構えた。そして優斗と一緒に恐る恐る玄関に近づいてゆくと、曇りガラスの戸の向こうからこう声が聞こえて来た。
「優斗、居るの?」
 声は若い女の声だった。恐らく十代だろう。優斗と大した年齢差が無いはずだ。
「美佳かい?今開ける」
 優斗は答えた。優斗が土間に降りてガラス戸を開けると、そこには優斗と同い年程度の少女が立っていた。丸くつぶらな瞳は白い肌の中に浮かび、顔も体形も全体的に曲線に包まれているのが印象に残った。
「優斗、差し入れを持ってきたよ」
「ありがとう」
 優斗は答えて、女子生徒が手に持っていたビニール袋を受け取った。すると彼女は視線をずらし、背後に居た私を見た。
「この方は?」
「この前に、この街に引っ越してきた香澄さん。いつもの場所で出会った」
「今度診療所が出来たあの土手で?」
 美佳と優斗に呼ばれた女子生徒は答えた。あの場所は優斗と私の場所だけでは無かったのだろうか。
「今日は俺が好きそうな本を持ってきてくれたんだ。いつも差し入れを持ってきてくれてありがとう。お母さんによろしく言っておいてね」
 優斗は礼を述べた。私は何をしていいのか話していいのか分からなくなり、ただ微笑んでその場をやり過ごした。
「学校に来なよ。嫌な事ばかりじゃないんだから」
「ありがとう」
 優斗は言って、家の中に引き返していった。残された私は美佳とその場に立ちすくみ、少し間を置いてからこう言った。
「それじゃあ、帰るね」
 私が言うと、優斗は「また会いましょう」と言い残して去って行った。私は靴を履き、玄関から外に出た。残った美佳も私の後に続き、家を覆い隠す雑木林の入り口に停めた自転車へと向かってゆく。
「優斗とは、あの土手で知り合ったんですか?」
 私の背後から、美佳が声を掛けた。私は美佳の方を振り向いてこう言った。
「ええ、良さそうな場所に一人で居たから」
 私が答えると、美佳は自転車のスタンドを解除して手で押しながら私と一緒に道路に出た。道路は広い間隔で立つ街路灯と車のヘッドランプ以外に明かりは無かった。私は田舎道を進みながら、初めて会った美佳と少し会話を交わすことにした。
「彼、あそこで時々物思いにふけるんですよね。小学校四年生くらいの頃から。五年生くらいになると、絵を描く代わりに言葉を書くようになったんですよね。前から少し変わっていた子だったけれど」
 美佳は自転車を押しながら私に話しかけた。街路灯の光が照らされた場所に来て彼女の事を見ると、襟元まで伸ばした癖のある髪がまず目に入った。肌は薄明かりののせいで青白く見えるが、身体つきは全体的にふっくらとしている。顔は化粧気がなく、目は丸くてはっきりしていた。寒いのに半開きになったあずき色のダウンコートの中には、毛糸のセーターに包まれていてもはっきりわかる大きさの乳房が膨らみを作っている。恐らく大学生の私より大きな乳房だろう。
「あなたは同級生なの?」
 私は美佳に質問した。
「はい。優斗とは幼稚園の頃から地元付き合いをしています。優斗のご両親が居なくなってからは、私の家族が彼の手助けをしています」
「そう」
 私は小さく答えた。すると美佳は私を見て、せがむような表情でこう言った。
「優斗は、友達も自分を理解してくれる人をあまり多く持っていないんです。良かったら、この街の住人として、優斗の事を見守ってくれませんか?」
「ええ、いいわよ」
 年頃の娘らしい、純で熱のこもった美佳の言葉に私は生返事をした。この街の住人として、と言う言葉が少し気になったが、気付かないふりをした。
「ありがとうございます。これからも彼を見守ってあげて下さい」
 美佳は深く一礼して、自分の家へと戻っていた。私は冬の夜空の元に一人佇みながら、自分の中に宿った熱と優斗の事を考えた。来た道を振り返ると、東京よりも広い間隔で立ち並ぶ街路灯の明かりが、冷たくなった道路を照らしているのが見えた。



 それから私は帰宅し、いつの間にか帰っていた弟とリビングで会った。
「お帰り、何処に行っていたの?」
 弟は怪訝そうな表情で、私に聞いた。
「ちょっとお出かけ、大したことないわ」
「お袋と親父はあと一時間で帰宅だって、大宮で会ってから一緒に帰るって連絡があったよ」
 弟の言葉に私は答えなかった。清らかな鏡、神社の奥に置かれているような、曇り一つと無い丸い場所に、小さな指紋が付いて目立つのだ。私はその指紋が気になり、何とかしたい気持ちでいっぱいなのだが、上手く行かない。鏡に指紋を付けたのは、優斗だろうか、それとも美佳だろうか。どちらにせよ、私の中には取り戻せない痕が付いてしまった。
 私は弟の視線を背中で感じながら、自分の部屋に戻った。あの美佳と言う同級生は何処まで優斗の事を知っていて、どこまで優斗の中に踏み入れているのだろうか。単に同級生という、漢字三文字で間に合う関係のままだろうか。それともその表現に当てはまらない関係だろうか。あれこれ考えると、私の脳裏に美佳と言う存在がこびりついた。その姿は私の脳の神経から各器官に疼きとなって伝わり、私の中で重く甘い感触に変換され私の中に蓄積されていった。
 その次の日から私には変化が起きた。
 私は大学に行くためにバイクに乗って高速道路を走っていたが、車間が開いて時速一〇〇キロ前後で流していると、心に隙が生まれたのか優斗の事が浮かんできた。目の前には大型トラックの後部が映っているのに、浮かんでいるのは優斗の事だ。学校にあまり通わず、自分の世界だけで過ごす日々。その世界に私がまず現れた。私は優斗の世界に何かをもたらそうとしたが、そこにはもうすでに美佳と言う別の存在が居たのだ。二番目と言う事実を知った私は驚き、優斗の世界に居座るべく必死になっている。その焦りをどうしようかとしていると、目の前の大型トラックのテールランプが明るく光って私はあわててブレーキを掛けた。血圧が上がって体中の毛細血管が膨張するのを感じる。その瞬間後続の車にクラクションを鳴らされ、私はウィンカーを左に出して一番左の車線に移動した。運転に集中しよう。と私は自分に言い聞かせた。
 それから私は大学に入ったが、昨日の優斗と美佳の事で頭がいっぱいになり、思考回路に重くのしかかっているのだ。その感覚は何気なく入れてしまったスマートフォンの容量だけ大きなアプリケーションか、良い曲だからと言って無節操にダウンロードしてハードディスクを圧迫しているネット配信の音楽の様だ。二人の存在は私の事を圧迫して、残った領域で他の事をさせようとしているから、処理能力に余裕が無いのだ。当然記憶容量も少なくなっているから、経済学と日本の伝統工芸に関する講義の内容は余り頭に入らなかった。
 午前中の講義を終えて、大学構内のコンビニでサンドイッチとサラダ、コーヒーを買って簡単な昼食を済ませた。
 今頃優斗はどうしているだろうか、学校に出ているなら今は昼時のはずだ。優斗の学校は給食だろうか、弁当持参だろうか。もしそうなら、彼は今どんな時間を過ごしているだろうか。美佳と一緒か、他の同級生と一緒だろうか。それとも学校には行っていないのだろうか。想像する事しかできない私は、優斗と同じ場所に居ない事、そして大学生と言う自分の存在を恨めしく思った。なぜ彼と同じ場所、優斗を瞳の中に捉えることが出来ないのだと気分が苦しくなった。
 午後のフランス語の講義は、気分が落ち着いたのか午前より集中して受ける事が出来た。その後私は教室を後にして、バイク駐車場に向かった。
 帰宅の道のりは自分でも驚くほど運転に集中していた。余計な事を考えると事故を起こすという自覚があったからだろう。しかし首都高速を抜けて浦和の料金所を抜けて埼玉スタジアムを通り過ぎると、周囲を流れる気の流れが変わって私の心が乱れたのか、再び優斗に対する気持ちが強くなってきた。
 その気持ちを私は押し殺そうと努力したが、上手く行かなかった私は岩槻で高速を降りて、下道で蓮田に向かった。そして自分の家に繋がる道へは進路を取らず、優斗の家に近づく道を選んで進んだ。そして優斗の家がある雑木林の方まで近づくと、私は昨日やって来た優斗の家の前までやって来てしまった。私は雑木林の前、優斗の家の玄関に繋がる小道の前にバイクを停めて、ヘルメットを脱いだ。
 改めて見ると、優斗の家は雑木林に囲まれてほとんど見えない。この中に民家がある事を忘れてしまいそうなほど、雑木林の木々は深く生い茂り、周囲からの拒絶を望んでいる。年月が経てば、優斗の住む家は木々に覆われ森の中で朽ちて行く死体のように、草木に飲み込まれて消えるだろう。そんな中に優斗は一人で住んでいるなんて、優斗は空と大地の間に生まれた存在なのかも知れない。
 私は入り口に立ち尽くし、優斗の家まで続く小道に入ったが、どういう訳だかそれ以上先に進もうとは思わなかった。この先に本当に優斗が居るのか、私の汚れた神経では知覚できなかったのだ。
 優斗は昨日と同じ状態だろうか、それとも学校に顔を出して昨日とは違う優斗だろうか。考えていると背後で自転車のブレーキが軋む音がして、その音を確かめる為に私は背後に振り向いた。
「ああ、昨日の人。確か香澄さんでしたよね」
 背後に居たのは昨日の美佳だった。昨日は私服だったが今日はジャージ姿で、ふっくら丸みを帯びた身体の線と、胸元にある大きな乳房の膨らみが強調されているが、中学生らしい謙虚さと初々しさのオーラを身に纏っていた。
「今日も優斗にご用ですか?」
 美佳の言葉は、私より年下であるはずなのに落ち着いていた。その事に、私はますます引け目を感じてしまう。
「近くに寄ったから、気になっただけよ」
 私は美佳の言葉に答えた。
「優斗は午前中には学校に来たんですけれど、昼休みの後に早退して、気になったから来てみたんです」
 美佳は私を見ながら答えた。私を見ながら説明してくれたという事は、私の事を信用のおける人物として認識しているからだろうか。
「早退したの、優斗は」
「はい。特に具合が悪い様子は無かったんですけれど」
 心配そうな表情と声で美佳は言った。どうやら彼の事が気がかりで様子を見に来たのだろう。彼女にとって、優斗はそれだけの存在なのだろう。
「心配でここに来たのね」
 私は言った。そして打ち合わせた訳でもないのに、一緒になって玄関に繋がる小道を進んだ。そして道の中ほどまで来た時、私は美佳にこう言った。
「あなたは優斗の事が好きなのね」
 単刀直入過ぎる言葉に、美佳は驚いて足を止めた。私も足を止めて振り向くと、そこには覗かれたくない秘密を覗かれた時に見せる表情をした美佳が、俯いて足を震わせている。その曇った様子の美佳を見て、私は小さな罪悪感と達成感を覚えた。
「好きと言われれば、そう言う相手です」
 美佳は俯いた顔の中で口を動かして、口元を強張らせながら発話した。
「そう」
 私は美佳との間を流れる空気よりも冷たく生返事を返した。
「優斗は幼稚園に入る前からの付き合いです。でも彼はみんなと遊ぶより本を読んでいるのが好きで、今思えばミステリアスな雰囲気を持っていた子供でした。それで色んな事をよく知っていて、子供なのに一部が飛びぬけた感じの人間だったんです」
 美佳はそこで区切ると、前に踏み出してこう言った。
「でも大きくなるうちにそれが他の人間とは違う決定的な何かになっていったみたいで、だんだん彼は疎まれる人間になっていきました。そんな彼を見ていると、私はすごく可哀そうな人間に優斗が見えて、彼の事を意識するようになったんです」
 美佳はそこでまた止まった。恐らく優斗に対する友情でも恐怖でも忌避でもない感情が美佳の心に流れていて、それが彼との交流や会話を通じて、恋愛感情に酷似した何かになったのだ。その気持ちは私にもある。優斗に対して、自分の内側にある触手のようなもの伸ばして優斗に寄生して、感情や意識、知覚などを共有したい気持ちを生み出す、小さな感情の集まりがうごめいている。
「わかった」
 私は前から優斗と美佳の関係を知っている人間であるかのように呟いた。そして無言で足を進め、優斗の家の玄関まで来た。遅れて美佳がやってくると、私は玄関の呼び鈴を鳴らした。
 程なくして、擦りガラスの引き戸の向こうに人影が見えた。鍵を開けて扉が開かれると、そこには、そこには部屋着のパーカーとジーンズに着替えた優斗の姿があった。
「ああ、香澄さん。美佳も一緒だなんて。何か用事ですか?」
 優斗は機械的に言葉をつなげて言った。口元の動きと瞬き以外に表情に動きはなく、いつもの無機質なままだった。
「私は近くに寄ったからここに来たの。美佳はあなたを心配して。学校を早引きしたんですって?」
「ええ、一応」
 優斗は悪びれる様子もなく答えた。彼にとっては特別でも異常な事でもないのだろう。すると、優斗は私の側で小さくなろうとしている美佳に気付いた。
「どうかしたの?」
 事情を知らない優斗は美佳に言ったが、美佳の表情に変化はなかった。
「何でもない」
 美佳はそう言っていつものように振舞おうとしたが、付き合いの長い優斗はその変化を読み取ったらしく、少し目元と眉を動かして表情を変化させた。
「何かあったみたいだね。どうしたの」
「何もない」
 美佳はなおも自分の心を隠そうとする。だがあふれ出た自分の気持ちは否定できない。人間とはそう言う物だ。と私は思った。
「ここで話し込んでも寒いから、良かったら中に」
 優斗が提案すると、私達二人は優斗の家に上がり込んだ。
 優斗は昨日と同じ部屋に私と美佳を招き入れた。薄暗い昨日とは異なり、今日は自然光が入り込んでいるお陰で昨日よりも生気があった。床には昨日と同じように色々な物が散乱していたが、私の貸した本は二冊一緒に棚に立てかけられていた。
 優斗に招かれたはずの美佳は飲み物を用意してくると言って台所の方に消えていった。残された私と優斗は部屋に立ったまま、美佳の背中を見送った。
「あなた。学校には行きたくないの?」
 私は先ほど美佳に言い放ったのと同じように、優斗に言った。だがもう無機質で温もりの無い優斗の心は変化を起こさずに、こう台詞を返してきた。
「僕を受け入れてくれる場所が無いから。無理に行っても指を差されるだけだし」
 優斗の言葉は抑揚や感情が無い分、私の心に冷たく触れる物があった。鋭利ではないが、何かの刃物に触れた時の冷たさがあった。
「だから、自分から離れていくの?」
「同じ学校に押し込められても、僕と他の人間に流れる時間は違うから」
 優斗は相変わらずそう言った。以前の私だったら感情的になったかも知れないが、優斗と会って会話するうちに、私の感情から熱が奪われていった為か、心に起伏が無くなってしまった。
「なんで美佳が優斗の家に来たか知ってる?」
 私は何の前振りもなく、優斗に話題を振った。優斗は停車している車のタイヤが横に切れるみたいに振り向いて、私を見た。
「優斗の事が好きだから、心配して来たんだって」
 私はそう言った。台所の美佳には聞こえているかも知れなかったが、構わなかった。
「良かったよね。心配してくれる相手がいて」
「ええ」
 不器用に優斗は相槌を打った。こういう事に慣れていないというか、自分とは全く異なる存在が起こす出来事だと思っているのだろう。私は優斗の手をつかむと、強引に抱き寄せた。それまで墓石のように冷たいと思っていた優斗の身体は表面こそ冷たい感じがしたが、体内には弱くとも熱があるように思えた。その熱を感じ取った私は身体の熱が優斗と同じ温度になって、頭の中が空洞になる感覚を覚えた。
「優斗の事は、私も好きよ。私の瞳の中にあなたの姿が映って以来、あなたは私の中にいるもの」
 私は続けて、淡い桜色の少年らしさを示す唇に自分の唇を重ねた。優斗の唇はまだのびのびと育つ若草のように柔らかく、甘さの中に青臭い苦みを感じた。私は優斗の背中に両手を回し、三回ほど貪って一旦唇を離した。
「私は優斗の世界に居たい。あなたは一人で自分の世界にいるけれど、私はそれを見つめて認識する存在になりたいの」
 私は元荒川の水面のように穏やかな優斗の目を見た後、再び優斗の唇を貪った。私は優斗を壁際に押し込んで、彼が逃げられないようにすると、背後で飲み物の入ったコップが落ちる音がした。優斗の唇から再び離れて背後を見ると、引きつった表情の美佳がそこに立ち尽くしていた。足元には三つのコップと飲み物を運んできたお盆が散らかり、コップに注がれていたジュースは血のように広がって畳の床に染み込んでゆく。
「美佳」
 私は美佳の名前を呼んだ。そして彼女の瞳を見ながらこう言った。
「あなたが優斗を愛しているように、私も優斗を求めているの。良かったら来なさいよ」
 私の奥で、表には出ない心の口が口角を上げて笑う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み