風音

文字数 10,078文字

 涼月で氷月と会った日から、深雪は彼女と彼女の作品のことが気になって仕方がなかった。いつものように部室からカメラを借りて撮影に出ても、液晶を覗くたび、この被写体を氷月ならどう撮るのか、彼女の目には何が見えているのか、そういうことが気になって素直にシャッターが切れなくなった。

 モノクロの写真を撮ってみたいという思いも強くなって、カメラの設定をモノクロにしてシャッターを切ってみたりもした。撮れたものが氷月の作品の足元にも及ばないということは深雪の目にも明白だった。どこがどう違うのかはわからず、ただぜんぜん違うということだけがわかった。

 部室のコンピュータで撮影したデータを眺めていると小松沢がやってきた。

「お、それはモノクロモードで撮ったのかい?」

 画面に表示されたモノクロ写真を見て小松沢が声をかけてきた。

「はい。カメラの設定をモノクロにして撮ってみたんです」深雪は小松沢を見上げながら答えた。

 しばらく画面を眺め、たっぷりと間を置いてから小松沢が口を開く。

「ん。で、どう思う? 自分では」

「ええと、何が悪いのかよくわからないんですが、まるでだめだと思います」深雪は思っているままを答え、「どこがいけないんでしょう」と質問した。小松沢は深雪の顔を見てから講義モードに切り替わった。

「モノクロ写真の上手な人は初めてカラー写真を撮っても良いものを撮れる。でも逆はなかなか難しい。初めて撮ったモノクロ写真がバッチリ決まるのはもともとそういう目で物を見ていた人で、そうでないいわゆる普通の人はだいたいこんな風になる」

「目、ですか」

「そう。モノクロ写真を上手に撮れるようになりたいのなら、カメラの腕前を磨く前に目を鍛える必要がある。物の見方を変えるっていうことだ」

 小松沢は人差し指を振りながら説明して、「でもぼくはあまり上手じゃない。だからこれ以上の具体的なことは残念ながら教えられない」と付け加えた。

 そんなに難しいのか、と深雪は途方に暮れそうになった。それを同い年の氷月はあんなに上手にやっている。彼女は天才なのだろうか。彼女はどうやってその目を養ったのだろうという疑問がわき、今すぐ氷月に会いたくなった。彼女があの目でどんなふうにものを見ているのか。深雪はなによりもそれを知りたいと思った。

 氷月は隣のクラスにいる。高校でもあっという間に付き合いにくい人として有名になり、いきなり孤立していた。仲の良い友達らしい人はおらず、いつも一人で行動している。休み時間はいつも教室か図書室で本を読んでいて、話しかけられるのを拒んでいるようにも見える。そんな様子だからさすがの深雪も学校では声をかけないことにしていた。氷月と話をするなら涼月で会うしかない。あれほど写真が飾ってあるのだからきっと氷月は涼月に頻繁に出入りしているのだろう。深雪はそう思って何度か放課後に足を運んでみたけれど、あれ以来一度も会えていなかった。


 すっきりと晴れ、きんと冷えた日曜日。深雪は学校から借り出してきたカメラを手に、まっすぐな道を北へ北へと歩いていた。いつものようにベージュのダッフルコートを着込み、チェックのマフラーで顔の下半分を覆うようにして後頭部のあたりで結ぶ。コートとマフラーはおなじみのものだけれど、日曜なのでコートの下は制服ではなかった。やせ我慢もお休みにして、ひざ丈のスカートの下にはタイツを履いていた。

 東川の町は道路が碁盤状に直交していて、その碁盤全体が南北に対して少し傾いたようになっている。そのためまっすぐな道を北へ進むと、実際の方角としては北東へ進むことになる。涼月からもさらに離れ、クラフト街道と呼ばれているあたりまで足を延ばす。

 ときおり立ち止まって写真を撮りながら歩いていると、けっこうな距離をあまり意識せずに進むことができる。人も車もほとんど通らない道を進んで行くと、小川にかかる橋の上に、こちらに背中を向けておじぎをしている少女がいた。深いグリーンのコートに、それよりも幾分淡い色のマフラーを巻いている。深雪のように後頭部で縛るのではなく、ぐるぐると巻いて前へ垂らしているようだ。深雪の服装が平均値に近いとすれば、彼女の服装はそこからだいぶ離れたところに位置していた。

 深雪が近づいていく間もおじぎをしたまま動かなかった。不思議に思ってさらに近づいていくと、ぐるぐる巻きのマフラーの向こうに見覚えのあるサイドテールが見えた。

「氷月さん」

 深雪はめいっぱい遠慮して声をかけたつもりだったけれど、氷月は「うわっ」と声を上げてこちらを向いた。深雪は慌てて「ごめんなさい、驚かすつもりじゃなかったの。ごめん、ほんとごめん」と手を合わせて謝った。氷月は大きく息を吐いて深雪のことを足先から顔まで二度見渡しただけで怒りはしなかった。

 何をしていたの、と尋ねようとした深雪の目に、氷月の持っているものが映った。

「それ、カメラ、よね?」と深雪は聞いた。

 氷月が首から提げて両手で支えているそれは、レンズがついているのでカメラだろうと想像できた。ただ、深雪が知っているどのカメラとも違う形をしているようだった。

 氷月は「そう。見てみる?」と言って、深雪の方へ近寄り、手に持っているそのカメラを見せた。ほとんど立方体に近いような形の箱にレンズがくっついるようだった。箱の上の部分が開き、そこにレンズから見える景色が映っていた。

「すごい。大きい画面だね」深雪が感想を述べると、氷月は笑いながら「これは画面じゃなくてファインダー。このカメラはデジタルじゃないからね」と言った。

 深雪は氷月の顔を見て、再びそのカメラのファインダーを覗き込んだ。「ファインダー」と深雪は氷月から聞いた言葉を繰り返した。ファインダーは深雪が持ってきた一眼レフカメラにもついている。深雪の知っているファインダーはカメラに顔を寄せて片目で覗き込む小さな穴で、今覗き込んでいる画面のようなものとは違うものだった。

「こんなの見たことない」と深雪が言うと、氷月は「シャッター切ってあげる」と言って道路の真ん中に立った。長い直線道路は、前も後ろも、見渡せる範囲には車も人もまったくいなかった。

 氷月は左手全体でカメラを下から支えるように持ち、腰のあたりに構えてさっきのおじぎの姿勢になった。箱型のカメラを腰の高さに構え、その箱の上部にあるファインダーを覗き込むとちょうどおじぎをしているような姿勢になるのだ。箱の右側についているハンドルを素早く回す。深雪が少し離れて見ていると、氷月はファインダーを深雪の方へ傾けながら、首でもっと近くへ来いと促した。深雪が近づくと、氷月は肩を寄せるようにして構えているカメラのファインダーを一緒に見られるようにした。

 ファインダーの中央にまっすぐ走る道路が写っていた。氷月はカメラの角度を微調整して、「切るよ」と言い、シャッターを切った。バシュッというような大きな音がした。深雪にはシャッターボタンがどこにあるのかすらわからなかった。「ふふ」と笑いながら深雪の方へ向けられた氷月の顔は思ったよりもはるかに近くにあり、深雪は戸惑った。不思議な形のカメラ、大きな画面のようなファインダー、おじぎするような撮影スタイル、どこにあるかわからないシャッターボタン、写り込んだ自分の顔まで見えるほど近くにある氷月の目、初めて見るものが多すぎて脳の処理が追い付かなかった。

「あと一枚だ。最後の一枚はあんたを撮ってあげる」

 氷月はそう言うと少し離れ、深雪の方へレンズを向けた。ファインダーに目を落としながら距離を取り、顔を上げて微笑む。「撮るよ」と言っておじぎをした。撮らせていただきます、と言って頭を下げているみたいだった。その姿が妙におかしくて深雪はくすっと笑った。その瞬間、バシュッという音が聞こえた。

「今日はわたしのことあまり煙たがらないんだね」

 撮り終えたフィルムを巻き上げながら戻ってきた氷月に深雪が聞く。氷月は笑いながら「あんたの持ってるそのカメラ、レンズがね」と言った。何のことかよくわからず、深雪は自分が首から提げているカメラを見た。

「そのレンズ。ちょっと見直した」と氷月が言う。

「でもこれ学校のだよ。学校から借りてきたものだからわたしのじゃない」

「誰のだっていいの。学校で見かけるときもいつもそのレンズだった。あんた他のレンズ使ってないでしょ」

 深雪にはいまいち氷月が何を見直してくれたのかわからなかった。

「どうして見直してもらえるのかよくわからないけど、氷月さんが認めてくれたんならこれ一本で頑張ってきた甲斐があったよ」と深雪は言った。

「それ一本で撮れって誰かに言われたの?」

「小松沢先生」

 深雪が答えると、氷月は「へえ、写真部の先生か。さすがだね」と言った。

「このレンズ一本で撮れって言うのはさすがなの?」深雪はいまいち氷月の言うことが理解できなくて聞いた。

「あんたそう言われてずっとそれ一本で写真撮ってるんでしょう? それで何か気づかないの」

 深雪が答えに詰まっていると、氷月は自分の持っているカメラを深雪の方へ見せて「わたしもレンズこれ一本。これは80ミリ。涼月に置いてある写真はぜんぶこれ一本で撮ったものだよ」と言った。

 深雪は驚いた。これまでも氷月には驚かされ続けているのにまだ驚くことがあるのだ。あの写真がぜんぶ一本のレンズで撮られていたことにも驚いたし、氷月にとってそれは修行ではないらしいということも驚きだった。深雪はさまざまなレンズを使い分けるための下準備のような意味で制限を設けられていると感じていたのに。

「レンズは単焦点に限るよ。ズームレンズはだめ。レンズが動いちゃうなんてぜんぜんだめ。レンズが動かなければわたしが動くでしょ。わたしが動けば世界が違って見える。単焦点が世界を動かすのよ」

 深雪には思い当たることがたくさんあった。撮りたい絵に近づけるために、液晶を見ながら何度も位置を変えたりした。氷月の言っていることが、ぜんぶではないにしろわかるような気がした。

「ね、うち、来る?」と氷月が誘う。深雪が戸惑っていると、氷月は「近いよ、すぐそこだから」と言った。深雪はやっと「うん」とだけ答えた。

「わたしの家こんなとこだからさ。学校行くの大変なんだよね。雪が降ればもう歩くのもままならない感じになるしね」

 歩きながら氷月が言う。前に涼月で初めて言葉を交わした時とあまりにも様子が違い、深雪はどう接していいのかはかりかねた。このあいだは深雪に声をかけられることすら面倒だという顔をしていたのに、今日は晴れやかな笑顔で向こうから話しかけてくる。本当に同じ氷月だろうか。

「氷月さん、もっと暗い人かと思ってた」深雪が言うと、氷月はわずかに目を大きくした。一拍置いてから笑い出し、「なんで?」と聞き返した。

「だって学校でもいつも一人で本読んでるじゃない? こないだ涼月で会ったときも怒ってたし。そんな風に笑う人だと思わなかったよ」深雪は感じたままを伝えた。

「いつも一人なのは一緒にいたいと思う人がいないから。本を読んでるのは読みたい本がたくさんあるから。怒ってたのはあんたのことを誤解してたから」

「誤解?」深雪は氷月の言葉を拾って聞き返した。

「写甲写甲って騒いでるだけのばかだと思ってた。写真への思いとかぜんぜんないくせにただイベントに出たいだけの不謹慎な人だと思ってたよ。だから最初から嫌いだと思ってたし、わたしを誘ってきたことにも腹が立った」

「どうしてそれが誤解だと思ったの?」

「いつ見てもあんたはそのレンズ一本で撮ってるみたいだったから」氷月は深雪のカメラの方を見ながら言い、「写真にまっすぐ向き合おうって気持ちが無ければ単焦点一本で撮り続けたりしないでしょ。少なくともあんたがただの冷やかしじゃないってことはわかったよ」と続けた。

 氷月が認めてくれたことはとても嬉しかったけれど、それほどまっすぐな気持ちで写真に向かっているという自信はなかった。深雪はぎこちなく笑い、「ありがとう」と言った。

「それにね。単焦点から世界を見てる人となら仲良くなれる気がする」と氷月はすっと深雪の方へ顔を近づけて笑った。

 氷月の家はクラフト街道から一本裏へ入ったところにあった。隣の家まで何百メートルも離れている。雪原のようなところにぽつんとあるその家は黒っぽい外壁で一階部分にはほとんど窓がなく、二階は逆にかなり大きな窓がたくさんついていた。窓は橙色に光を反射していて中の様子は見えない。一階の半分は車庫のようになっていて、そこを占有しているはずの車は今はいなかった。主が不在の車庫を入っていくと、奥に真っ赤な扉があった。黒い壁に映える鮮やかな赤はひときわ目を引いた。

 氷月は二つの鍵を開け、その赤い扉を開くと「はいって」と促した。

 玄関は驚くほど広く、二台の赤いクロスバイクやスノーボード、大きなラジコンカーなどが置いてあった。正面には巨大な絵が掛かっている。力強い筆致の墨で描かれたようなその絵は、ほとばしるエネルギーと冴えわたる繊細さを兼ね備えていた。深雪は圧倒された。

「この玄関床暖房だから靴そのまま置いておけばすぐ乾くよ」氷月は先に靴を脱いで上がりながら深雪を振り返って言った。

「おじゃまします」と小さく言って深雪も後に続いた。氷月が差し出すハンガーを受け取って上着をかける。玄関のハンガーラックには、今は深雪と氷月二人の上着しかかかっていなかった。

「これ。現像しよ」と氷月はカメラを持ち上げて見せる。

 一階には部屋が二つあり、どちらも扉が閉まっていた。氷月は“幻像工房”と書いてある部屋へ入っていく。

「フィルムの現像はほんとは現在の現の字なんだけどね。お父さんがこっちの字のほうがいいって幻っていう字をあてたんだ。なんかいいでしょ」

 説明しながら部屋に入る氷月を追って深雪も部屋へ入る。その部屋には窓がなく、入った扉を閉めたら真っ暗闇になった。不思議な匂いが充満していた。氷月が壁のスイッチを操作すると赤い光が灯った。

 部屋の中には深雪が見たこともないような機器が並び、大きな流しもあった。氷月は奥のテーブルでカメラを降ろし、流しへ行ってやかんに水を入れ、卓上型のIHヒーターにかけた。「水は一度沸騰させたものを冷まして使う」と言ってカメラのところへ戻る。箱型のカメラの一部分を取り外す。取り外した部分からさらに筒状のものを取り出し、「これがフィルム」と言った。

 大きな黒いバッグを取り出し、チャックを開けてそのフィルムと銀色の容器とはさみを入れ、チャックを閉める。「これはダークバッグっていう袋で、光を通さないようにできてるの」と説明する。「この中で」と言いながら、その袋についている袖のようなところに手を入れる。「フィルムをタンクにセットする」と言ってごそごそと袋の中で手を動かしている。

「最初はぜんぜんできなかったけどね。手探りでリールにフィルムをセットして、タンクに入れて蓋をするの。そこまでぜんぶ手探り」と言って深雪の方を見る。手は相変わらず袋の中で動いている。しばらくごそごそとやった後で手を抜き出し、チャックを開けて銀色の容器を取り出す。「これが現像タンク。今この袋の中で、この中にフィルムを入れたの」と説明する。

「ここまで終わるとあとは明るい部屋でも大丈夫なんだけど、わたしはこの灯りが好きだからこのまま続けるんだ」薄赤い灯りの中で微笑む氷月はまったく知らない人のような、もうずっと前から知っている人のような感じがした。

 氷月はタンクをカメラの横に置き、「お湯が用意できたら使う液を作る」と言って理科室にあるようなビーカーを五つ取り出す。ビーカーにはそれぞれテープが貼られている。「ビーカーはぱっと見て区別できなきゃいけないんだけど、色違いのテープを貼っても暗室の中だと差がよくわからないのよね。だからテープの本数でわけてあるの。一本が現像液、二本のは停止液、三本のが定着液、四本は水洗促進液で何も貼ってないのが前浴用」と言い、流しの下の扉を開け、中からボトルを取り出す。テープが一本のビーカーを取り、そこにボトルの液体を注いだ。「現像液は粉をお湯に溶いて作るんだけど、うちではこうして作り置きしてあるんだ」と言って氷月はボトルを元あった場所に片付けた。現像液を入れたビーカーをトレイ状の機器の中に置く。

「これは恒温器。ここに入れておくと適温で維持してくれるの」と説明し、デジタル表示の温度計をビーカーの中に入れた。次にテープが二本のビーカーを取り出してボトルから液体を注ぐ。「これは停止液。酢酸。CH3COOH。化学で出てくるやつ」入れ終えるとそのビーカーを奥に移動させ、テープが三本のものを手前に出す。そこには湯冷ましを入れ、温度計を挿した。温度計は現像液に使ったようなデジタルタイプのものではなく、中に赤いアルコール液が入っているタイプのものだ。

「定着液を溶かすお湯は温度が高すぎるとだめ。だいたい三十度以下まで下げてから溶くの」そう言ってこれも温度計を挿したまま置き、テープ四本のビーカーを取る。そこには水を入れ、何らかの液体を垂らした。「これは水洗促進剤。定着をやった後洗い流すときに使うの。ただの水でもあまり問題ないけど今日はちゃんとやるね」それが出来上がると、最後の何も貼っていないビーカーと取り出し、水を入れて水洗促進剤をわずかに垂らした。「前浴用は水洗促進剤をめっちゃ薄めたやつ。これも普通の水でもいいんだけど、今日はちゃんとやる。いつもは水でやっちゃうけどね」

 深雪にはまったく理解できないことをしゃべりながら手際よく作業を進める氷月はどこか違う世界から来た人のように見えた。ぽかんとしている深雪にときおり笑いかけながら氷月は淡々と作業を進める。温度を確かめた上で定着液の粉末を溶き、それを終えると現像タンクを持ってきて、上部の小さな蓋を開けた。

「この小さい蓋はすごくて、開けても中に光が入らないようになってる」と言いながら、無印のビーカーで前浴液を注ぐ。「光は入らないけど液体は入る。すごいよね」液を注ぐと蓋を閉め、とんとんとタンクの底を台に軽く打ちつけた。「こうして中の気泡を取るの。フィルムの周りについた気泡がふわっと離れて上がっていくのが見えるみたいでしょ」と微笑む。タンクを持ち上げ、蓋を押さえながら逆さにする。向きを変えて起こす。「全体に行き届くようにね。向きを変えながら逆さにするの」と説明する。何度か繰り返したあと、現像タンクの蓋を開けて元のビーカーに中身を空けた。「これで前浴が終わり」タンクから液がしたたらなくなったのを確かめる。

「次はいよいよ現像。ここで失敗するとやり直しがきかないからとても大切」と言い、その割には実にあっさりとテープ一本のビーカーから現像液を流し込む。一気に流し込んだあとすかさず蓋を閉め、すばやくとんとんと底を叩く。

「ここで気泡がついてると写真自体にそれが残っちゃうからね。ちゃんと叩いておくことが大事。そして一分置く」そう言って壁の時計を見つめる。深雪もその視線を追って時計を眺める。「最初はすごく厳密にキッチンタイマーとか使ってやってたけどね。最近はアナログ時計眺めながらやるんだ。回る秒針を眺めてるほうがわかりやすい気がして」二人は回転する秒針を見守る。秒針が一回転すると氷月はタンクを逆さにし、向きを変えて起こすという操作を何度か繰り返した。その動きは複雑で、手品を見ているような感じだった。

「全体に行きわたるように撹拌する」と説明し、またタンクをとんとんと台に打ち付けた。「撹拌すると泡が立つから、それがフィルムに残らないようにするの」そう言うと氷月は再び時計に目をやる。深雪も思わず追いかける。「撹拌して一分置く。また撹拌して一分。最初に現像液を入れてから七分、それを繰り返すの」

 氷月は丁寧に説明しながら作業を進める。深雪には説明を聞いても氷月が何をしているのかさっぱりわからなかった。ただ、なんだかわくわくするということだけはわかった。氷月の細く白い指が巧みに現像タンクを回転させる。その撹拌作業はいくら見ていても飽きなかった。

 何度か撹拌した後、氷月はテープ一本のビーカーを取り出し、そこへ現像タンクから現像液を流し込んだ。「こうして元のビーカーに戻すことで、入れたのと同じ量の現像液が出てきたかどうか確認できるわけ。中に残らないようにぜんぶ出たか確認するの」そう言って現像液を排出した後、テープ二本のビーカーから停止液を流し込む。これもあっさりと注ぎ込んでとんとんとやり、例の複雑な撹拌をやる。

「停止液はとにかく撹拌するだけ。アルカリ性の現像液を酸性の停止液で中和して現像の化学反応を止めるのよ」氷月は説明しながらテープ二本のビーカーに停止液を排出する。終わるとテープ三本のビーカーから定着液を注ぐ。蓋を閉めてとんとん。気泡を取るとんとんはどうやら入れる液に寄らず毎回やるようだ。氷月の手が現像タンクと奏でるそのリズミカルな音は耳に心地よかった。

「定着は二分。よく撹拌して置く」と言ってくるくるとタンクを回す。定着液をビーカーに戻した後、流しでタンクに水を注ぎ入れ、あふれさせる。「定着まで終わったらあとは洗うだけなんだけど、洗うのもただ洗うだけじゃないのよ」と言いながら水道を止め、タンクを開けて中からリールを取り出す。リールには幅の広いフィルムが巻かれていた。氷月はそのリールをテープ四本のビーカーの中に入れる。「水洗促進剤は一分」と言って氷月は時計を眺める。

 深雪は、今度は時計ではなく時計を見つめる氷月の横顔を眺めていた。時間が来ると氷月はビーカーからリールを取り出し、蓋を開けたままの現像タンクに戻すと水道を開いた。

「あとは水洗い。この水も温度が低すぎるとだめだから少しお湯を混ぜてるの」そう言うと次はまた別の、金属製のビーカーを取り出した。「最後は水切り剤。洗いあがったフィルムの水滴を取るの」と言って細めの白っぽいボトルから液体を入れ、水で薄めた。その間も流しの中ではタンクの中でフィルムが流水にさらされていた。氷月は頃合いを見て水を止め、リールを取り出して水切り剤の中に入れる。水切り剤からリールを上げると、氷月はその細い指でするするとフィルムを外し、広げた。

「ほら、ネガが生まれた。あとは乾かすだけ」と言って作業台へ向かい、はさみでフィルムを半分に切った。「このフィルムは十二枚の写真が撮れるの。干すときは六枚ずつにわけて干してる。プリントするときは一枚ずつにわけるけどね」そう言うと氷月はフィルムの片方の端に重りを取り付け、反対の端を流しの上の紐に木の洗濯ばさみで止めた。写真六枚分ずつ二本に分けられたフィルムがつるされている。

 フィルムには色の反転した写真が写っている。こういうのをネガと呼ぶということは深雪もなんとなく知っていたけれど、本物を見たのは初めてだった。まして、カメラから取り出されたフィルムがネガになるまでの過程を間近に見るというのは想像も及ばない体験だった。しかもそれを目の前で披露したのは深雪と同い年の少女なのだ。

「すごいね」それだけがやっと声になった。「手順がすごくてわたしなんかとても覚えられない」

「もちろんわたしだってすぐ覚えられたわけじゃないよ。最初はメモを見ながら一つ一つ確かめて、時間が長すぎたり短すぎたり、手順が飛んじゃったり、いろんな失敗もしたよ。でも二日に一回ぐらいやるからね。さすがに覚えちゃった」

「ほらこれ」と氷月は干したフィルムを指さし、深雪を誘う。近づいて覗き込むと、それはフィルムの最後のコマに写った深雪の写真だった。

「ここにさっきあの橋のところで笑ってた深雪がいる。おかえりって思うでしょ」と氷月が笑う。その言葉が深雪の胸で画用紙に落とした一滴の水彩絵の具のように広がる。

「え? 氷月さん今、深雪って。名前で呼んでくれた?」深雪が言うと氷月は「風音(かざね)」と言い、深雪の顔を見て「わたしの名前は風音。風の音って書いて風音」と続けた。

「ありがとう、風音ちゃん」と深雪が少し照れながら言うと、風音は「ちゃんはいらない」と笑った。深雪も笑った。フィルムの上では風音の名前をまだ知らない深雪が微笑んでいた。
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