文字数 2,063文字

「清、もう落ち着いたか」
「はい、なんとか」
「そうか……。幸子も君が帰ってきてくれて嬉しいと思うよ」
 子供の頃から私を息子のように可愛がってくれたおじさんは呟くように言った。頬はこけ、髪も白く薄くなっていた。たった四年間でおじさんも、郷里も、日本も歴史的に変わってしまった。
 一九四五年の十月末、生まれ育った山形へと戻った私の身体は祖国の冬にまだ慣れていないようで小刻みに震えた。薄い皮膚の下に脂肪はなく、骨に張り付くせいか身体の芯まで凍ってしまうのではないかと思った。
 帰還してまだ新しい服がない私は色褪せた緑色の軍服を着ていた。ポケットに手を突っ込み、身を丸めながら、おじさんと肩を並べて紅葉と寒樹が混ざり合った山道を進み続けた。
 幼かった頃、幼馴染の幸子と笑い合いながら歩くことで短く感じた道も今では長く感じた。永遠にこの道を歩き続け、目標へと辿り着かなければいいのに。私は叶わない想いを心で念じた。
 気付けば、小さな鳥居の前に突っ立っており、整理されていない石畳がこぢんまりとしたお寺へと私達を導いていた。会釈をし、奥へと進んだ。
 お寺の裏に目指していた場所はあった。灰色の墓石が点々とある墓地だ。
 おじさんは迷うことなく進み、私は後をついて行った。
 足を止めると「遠藤家」と大きく彫り込まれている墓があった。そして、その下には亡くなった遠藤家の人達の名前が一回り小さく彫ってあった。
 その中に彼女の名があった。「幸子」と私の初めての友達であり、恋人であり、将来妻にもらおうと思っていた人の名があった。
 私はここに来るまでの道で摘んだ数本の黄色い花を私はそっと手向けた。彼女が好きだった黄色の花を。
「栄養失調だったよ」俯きながらおじさんは言った。「清も知っているとは思うが、都市部からの集団疎開があってね、数少ない支給品は更に少なくなった。私でもこの有様だ。到底、身体が強くなかった幸子が生き残れる状況じゃなかった。そして八月の頭、幸子は音も立てずに死んでいたよ。皆が寝静まった夜中に。」
 すまないな、清。おじさんは私の肩に羽毛のように優しく手を置いた。
 おじさんは一滴の涙も流さなかった。もうすでに泣き尽くし、どうすれば感情を殺せるかを学んだのだ。
 その傍らで、私は背負っていたリュックから折れ曲がった幸子の写真と彼女が慰問品として作ってくれた小さな人形を強く握りしめ、枯葉が枝から剥がれ落ちるように膝から崩れた。幸子という名を耳にするたびに積み上がった感情がいきなり音を立てながら崩れた。彼女がもうこの世には存在しない事を身に染みて感じた。その実感はやがて荒れ狂った波となり、涙を瞳から溢れ出させた。
 二ヶ月前に日本が敗北してから何回目の涙だろうか。
 どれだけ違う涙を流そうとも、心に積もる虚無感は同じだった。
 これが生き残った者への罰なのか、と私は思った。太平洋の中部、マーシャル諸島にあるミレ島に配属となった私は肋骨が浮き上がるまで痩せ細り、幻覚をみるほど飢餓して死んでいった仲間たちに何も出来なかった。慰めの一言もかけてやれなかった。ただ私たちが一目散に踏んできた草を一生懸命食べている彼らを横目で眺めていた私への報いなのだろうと考えた。
「すいません、すいません」
 私は正座をし、額を地面に擦り付けておじさんに謝った。それが私に出来る懺悔の形だった。幸子を守ってあげられなかった情けない自分への慚愧の念。
「清、止めないか! 止めないか……」
 私は口を噤んだ。だが、下げた頭は上がらなかった。
「君のせいじゃない。この村のせいでもない。もちろん疎開してきた人のせいでもない。悪いのは人間を殺戮の兵器にした思想と欲望だ。そのせいで国民の命が一つ消えようが国のためとかせり上げて、まるで美しかったかのようにしてしまう。それが当たり前のようになった時点で、大日本帝國は敗北していたのだ」おじさんは拳を強く握りしめた。「だが、清。お前は違う。こうして私たちの前へと帰ってきて、幸子のために泣いてくれた。それだけで君は人間だったことが分かるよ」
 おじさんは膝を曲げ、もう一度私の肩を撫でた。
「それとこれ」
 雑巾のように皺々の顔を上げると、おじさんは一枚の紙を手に持っていた。無作為に沢山の折り目がついた紙。
「幸子からだ。あの日、あの子が握りしめていた」
 私は紙を受け取ると、腕で涙を拭い、霞んだ視界で必死に読んだ。

 八月一日。
 清さんへ。
 私はもう長くはないでしょう。へやにいても星がみえるのです。きれいな星。きっとあなたも見ているでしょう。いっしょに見られたらどれだけ幸せか。
 好きです。愛しています、心から。
 幸子より。

 字は震えていた。
 だからこそ、一文字ずつ胸に溶け込んだ。真っ暗な中で、冷や汗を垂らしながら最後の力を振り絞って、これを書いている幸子の姿が頭に浮かんだ。
 それはまた波を呼んだ。だから、私はまた一筋の涙を頬に流した。


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