第26話

文字数 12,076文字

   ☆


 ぱせりんの特別授業が終わって、理科は文字通りフラフラになっていた。よろけながら、下野塗装店の奥に位置する廊下を壁にぶつかりながら進む。住居スペースに着くと理科は無断で冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中から取り出すのはペットボトルの大きなサイズのコカコーラ。寒い冬でもこいつでやっつける。疲れた時はコーラでリフレッシュ。それが理科のルール。ラッパ飲みで一気に飲み干す。
 うがー。生き返る。
 思えば朝八時にぱせりんの個人講義が始まり、午後一時に終わり、……と思ったら「あー、一言忘れてたぱせ」とかなんとか言うぱせりんに引き留められて、そこから午後六時までぶっ通しで補習というか、ぱせりんのアートトークが炸裂。アメトーク並。今、六時過ぎ。毎日こんなんだもんな。参ったわ。
 頭をぐるぐる回る現代アートの知識。それはそれでありがたいんだけど、と理科は思いながら、乙女らしくもないゲップなんぞをしつつ、飲み干したコーラのペットボトルのラベルをはがして中をよく洗い、ペットボトル用のくずかごに捨てる。
 仮眠用の畳敷きの部屋で横になる。しばらくここで寝てから帰ろうかな、と思う。
 そうして横になってるうちに、理科は眠ってしまった。
 ゆさゆさ揺さぶられて理科が起きたのは、午後八時。揺さぶっていたのは日和だった。日和の後ろにはバツ子もいる。
「はよ~んっ」
 日和は手を上げて笑顔で挨拶してくる。腕にはクロムハーツのブレスレット。その笑顔は天使。日和ちゃんマジ天使。エンジェル・ジャクソンじゃなく、この子が天使だったんじゃないかと思うほどだ。まあ、そういう問題じゃないんだろうけど。
「おっはよー」
 理科は目をこすり、左腕に巻き付けた安物の、スヌーピーがプリントされた腕時計を見る。時間を確認した後、ちはるに電話しないといけないな、忘れてたわ、等と今頃気づく。しかし何故に日和は私を起こすのか。もうちょっと寝ていたかったんだけどな。
「これから『ボム』だよ~っ」
「ふ~ん。そっか~、頑張ってね~」
「いや、頑張ってじゃなくてっ!」
 また寝入ろうとする理科を更に揺さぶる日和。うーん、もっと寝てたいにゃー。
 そこへ、理科の頭頂部に特大のチョップが振り落とされた。
 痛ッッッ!
 その上、仮眠用の毛布をはぎ取るモーションまで加えるこの暴虐な人間は勿論『ファーム』のリーダーである下野千鶴子。頭をさすりながら理科は上半身を起こす。
「なによ、も~」
「あなた、まさかここに来た理由、忘れていないでしょうね!」
「理由?」
 小首をかしげる理科に、歯をむき出しにして怒りを表現する千鶴子。舐めていたロリポップキャンディはガリリとかみ砕かれた。ロリポップの棒が床に落ちる。
「今夜、『ボム』を行うわ!」
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃーい、じゃないッ! あんたも来るのよ、理科。飴玉のごとく甘いわね、あなたの頭は! またど突くわよ!?」
「ひぃー、ど突くのは止めて」
「ひぃーって言うんじゃなくて、『ピース』であんたがみんなをひぃーひぃー言わせなさい」
「なかなかうまいコト言うわね」
「感心すんなッッッ!」
 また叩かれる理科。
 あれ?
 私、最近みっしーに似てきたかしら?
 ま、いっか。


 ……と、ここいらで。
 グラフィティの属する、『ヒップホップ・カルチャー』について、簡略式に、さくさくと説明しておこう。
『ヒップホップ』というのは、現代日本では『ラップ』と同義語として扱われているが、正確にはそれは正しくない。ヒップホップというのは、一九七〇年代のニューヨークで黒人が始めたブロック・パーティーにその起源を持つ文化の総称である。
 その文化には四大要素がある。言語表現である『MC』、音楽の『DJ』、身体表現である『ブレイクダンス』、そして視覚表現の『グラフィティ』の四つが、その四大要素を構成しているというわけだ。
 その中のグラフィティ・アートでは特に、地下鉄車両への落書きが、都市が抱える低所得者居住区の問題を浮き彫りにした。それによってかよらずかグラフィティは、一時期ニューヨークを象徴する風景の一部となったのである。ここに、グラフィティの華が咲いたと言えよう。
 しかし、八十年代前半には「けしからん!」と思う当局による撲滅キャンペーンが行われ、街の壁々に描かれていたグラフィティはその姿を消す。……だが、それと軌を一にして、発表の場を美術界に求める作家たちが現れたのであった。キース・ヘリングやバスキア等がその例である。
 更に過ぎて九十年代には、非黒人系を中心としたスケートボーダーたちとの関係性も深まってきた。そしてそのような紆余曲折を経て、現在に至る。
 ……それはそうと、コミュニティ用語を使用するグラフィティ独特の習わしをリスペクトして、千鶴子たちファームの人間も、制作者を『ライター』、作品を『ピース』、制作行為を『ボム』と呼んでいるのであった。
 例えば「今夜、『ボム』を行うわ」というさっきのファームでの発言はつまり、「今夜路上に落書きしに行くわよ」という意味なのである。また、理科が千鶴子たちと最初に会った時の名刺に書いてあった『ライター:ファーム』というのは「制作者:ファーム」という意味合いである。よそ者にはわからない実に共同体的な言い回しである。
 以上、簡単な説明であった。


 はじめてファームの活動に参加するコトになった理科は、どう準備をすればいいかわからず、逡巡する。その場でキョドりながらうろうろ部屋を回っていると、クローゼットを漁っていた千鶴子が、黒いパーカーを取り出し、理科に投げる。理科はそれをキャッチした。
「これに着替えなさい。着替えは、あっちの部屋で」
 千鶴子は隣の部屋へのドアを指さす。
「あ、このパーカーって」
「そうよ。あなたとはじめて会った時に私たちが着ていたパーカーよ。これが、ファームのユニフォーム。まあ、戦闘服ね」
 理科はそのナイロン製で安手の黒いパーカーをまじまじと眺める。これが、あの時の……。
「さ、時間なんて有限なんだから、早く着替えなさい」
 首肯した理科は、更衣室代わりの隣の部屋へと、入っていった。

 着替えのために入った部屋は、押し入れのような部屋だった。ペンキの缶や刷毛、塗装前の看板の鉄板などが、整理されていないまま、置かれてあった。
 部屋の奥の方を見ると、そこには下着姿の牛乳がいた。
「いやん、えっちぃ」
「…………」
 なんというか、いつもの牛乳だった。なので気にせず、着替えようとする理科。しかし、そこで理科は思い出す。ちはるに電話しないと、と。
 ケータイをポケットから取り出し、電話帳からアパートの自分の部屋の番号へダイアルする。間髪入れずに、ちはるが出る。
「理科だよ。ごめん、今日は帰るの、遅くなる。こんな時間まで電話しなくてごめんね」
「いいんだよ、お姉ちゃんは謝らなくても。ぱせりんさんの授業が、まだあるの?」
「いや、これからファームでグラフィティをやるのよ」
「グラフィティ? ああ、落書きね」
「ん? ああ、まあ、落書きだね。過多萩じゃこれも 認可されてるんだけど、落書きに変わりはないわね」
「どこでやるの?」
「んん~、どこでだろ? ちょっと待ってて」
 と言って理科は電話から顔を離し、牛乳に場所を訊く。
 それから、電話に戻る。
「なんか、御手洗公園だって。よくわかんないけど」
「あはは、わかんないんだ、お姉ちゃん。そこはね、成人式の前の日、私がお姉ちゃんと落ち合うのに指定した公園だよ。お姉ちゃんが、ステキパンダとはじめて遭遇した、あの公園。あの日も寒い夜だったね」
「ああ、あそこか」
「わかったよ、お姉ちゃん。じゃ、帰るの、待ってるから」
 ちはるはいつも私が帰るまで眠らない。今日もそうだろう。理科は、それがわかってるから、待ってると言うちはるに、先に寝てなさいとは言わない。ただ、頷くだけだ。
「うん、じゃあ、待っててね」
「愛してるよ、お姉ちゃん」
「私もよ。じゃ」
 そして電話を切る理科。ふう、ひとまず安心。
 と、思ったら黒くて派手な下着姿のモンスターが、目をぎらつかせながら理科に迫っていた。それはもちろん、源氏名でいう真琴ちゃん、つまり牛乳である。
 その目はぎらついているが、その動きはまるで触手モンスターのそれである。男性向け同人誌で美少女戦士を絡め取るあの触手の動きで、理科に、静かに、しかし確実に襲いかかるのであった。
 気づいた時には理科の身体を抱きしめている牛乳。有無は言わせない。
「理科……、誰と話してたのん」
 耳元でささやく牛乳。耳の中に吐息がかかり、理科は身体がむずかゆくなる。しかし、抱きしめられているので、動こうにも動けない。それを見て気を良くした牛乳は、息を耳に吹きかける。
「ちょ……、ちょっと! や、やめてよ」
「あら~ん、やめて欲しいようには思えないけどん?」
 牛乳に絡め取られながら、部屋の壁に背中がついた状態になる理科。牛乳は身体全体で理科を壁に押しつけながら、左手で壁に手を突いて、右手で理科の額の髪の毛をそっと掻き上げ、出てきたおでこにキスをして、深く吸い付いたまま額を舐める。水分を多く含んだその唇から理科の額に、いやらしくぬめる唾液がつき、牛乳が顔を離すと糸を引いた。それに快感を感じてしまった理科は「ん……」とうなり、身体を硬くして目を閉じてしまった。牛乳は思わずクスリと笑う。
「可愛いわ、理科。私ね……」
 と言って理科の髪の毛から右手を離す牛乳。次の動作が気になって、理科は瞳をあけ、牛乳の右手を無意識のうちに探す。一瞬わからなかったがその右手は、理科の硬直して動けない左手を掴んでいた。
「疼いてきちゃったんだ……。どうしてだか、わかるん?」
 理科の左手を自分の太ももに充て、それから内股まで這わせるように動かす。
 うっ……、湿ってる……。もしかして、本気なの?
 びっくりした理科が牛乳の顔を見ると、牛乳と目が合った。牛乳の目は、その太もも、内股と同じくらい濡れていた。うるうるとしてまるで夢見る少女の瞳のように湿り気を帯びているのだ。
 理科は気が動転する。目を逸らそうにも、目が逸らせない。尚も牛乳の手は理科の左手を動かし、その手はぱんつに到達しようとしている。そしてあろうコトか、じっと見つめた牛乳のコトがなぜか妖艶に映り、なんだか魔性の力に身を任せたい気持ちになってきてしまった。
 やばい、やばいわ私!
 理科は慌てるが、それを遮り、その気持ちの焦りを遮断して、牛乳は理科の唇を奪う。唇と唇が重なると、理科はもう、行くところまで行くしかないな、という諦観と期待が入り交じった気持ちがわき上がってきてしまうほど混乱してしまのであった。
 ああ、ダメ、私流されちゃう……。
 理科の手を持っていない手の方で、牛乳は理科の乳房を力強く押し込むように触ってきた。吐息と吐息が重なる。もうこれは、禁断の関係になるしかない。
 ……そう理科が思った矢先。
 部屋のドアが開いた!
 鍵を閉めていなかったのである。
「なにもたもたしてるの! 早くしなさい!!」
 ドアを開け、その場で仁王立ちして叫ぶのは千鶴子。二人があまりにも遅いので声をかけに来たのだ。
 海から空中に出る飛び魚のごとく飛び上がり、理科と牛乳は高速で離れる。
「あんたらまさか、変なコトしてたわけじゃないでしょうね」
「ち、違います!!」
 理科は顔を真っ赤にしてうわずった声を出す。
「ふ~ん、ならいいけど」
 ああ、そうよ、さっきのは気の迷いよ。私、そういうの嫌だもん。牛乳は友だちで、ファームの仲間。それ以上の関係ではないわ。
 首を振り振りさっきの出来事を否定して、理科は、ファームの活動に参加する準備をし、気持ちを落ち着かせるのであった。
 部屋を出る時、牛乳は「私ならいつでもいいのよん」と、流し目をしてきたのは、言うまでもない。牛乳は、いつもの牛乳だった。
「本気になってたのは私だけだったか……」
 理科はうなだれ、しばらくの間、ちょっとばかり自己嫌悪に陥ったのであった。


 そんなわけでやってきました、御手洗公園(みたらいこうえん)。ここが私とファームの馴れ初めの場所。私はここでファームのみんなが描くステキパンダに恋をしたの、うふ。
 笑顔の理科は公園の車止めの前に停まったライトバンから降りて、一月最後の日の、冷たい夜の空気を大きく吸い込んだ。
 一月九日に、理科が見たファームもここでグラフィティをしていた。なのになぜ、またここで絵を描くコトになったのか。それは、この過多萩の芸術に対するスタンスに拠る。芸術都市過多萩市では公共の場所での壁への落書きは禁止されていない。が、それはその落書きが「アートとして認められた場合のみ」許されるのである。市の『グラフィティ監視人』がアートとして認めないような絵のクオリティの場合、その絵は即座に消され、場合によっては普通の都市と同じように、描いた者への罰金さえ発生する。一月九日に描いたファームの絵は、罰金こそ発生しないものの、監視人から「アートとしてはクオリティが低い」とされた。理科が絶賛したあの絵でも、監視人には届かなかった。街のみんなが知っているファームでさえ、失敗があるのである。アートの道は、厳しい。だがシビアだからこそ、アートは一生を賭けるに値するものなのかもしれないと、理科は思う。
 ファームの得意とするパンダの絵は、日本の画家、できやよいの影響を受けている。できやよいという作家は、画面一杯におびただしいほどの人の顔を描く。その中に『ウォーリーを探せ』のようにひょっこりパンダの顔が混じる。ファームのステキパンダ、俗に『ゴールデンパンダ』と人々から呼ばれるそのパンダを描くのは、そのできやよいからインスパイアされたものである。言っておくが、パクリではない。

「よ~し、いっちょやってみっか!」
 理科は右手をぐるぐると回して気合いを入れる。
「ちょっと待ちなさい、理科。そんなドラゴンボールの悟空みたいな台詞で気合い入れてないで、落ち着いてまずは他のメンバーの描き方を観て、それを参考にしなさい。焦る必要なんてないのよ。この公園、夜は酔っ払いが頭冷やすためにあるんだから」
 確かに、人気がない。この前もそうだったけど、人がいない。危ない公園なんじゃないか、と理科は思案したが、しかしここは公園とは言っても緑地帯みたいなものだし、住宅地の中にある。危険は少ないか。そう結論した。
 落ち着いて、理科は他のメンバーのグラフィティを、観るコトにする。お手並み、拝見。

「ふふふ、来た来た、アレがファームの活動なのね、ふふ~ん」
 公園の植木の茂みの中からオペラグラスでファームを、いや、理科を熱心に眺めている背の低いメガネの女の子と、その女の子を心配そうに横で見ている学ランの女の子がいた。この二人はもちろん、ちはるとみっしーである。
「ちはるー、やめましょうですよー。理科なんて、家でいつでも見れるじゃないですかー」
「なに言ってるの、みっしー。お姉ちゃんの初落書きのその勇姿を見ないと。それに牛乳さんとかあの千鶴子とかいう奴、絶対お姉ちゃんを狙ってるんだから! 私がしっかり愛で包んであげないと、お姉ちゃんはほいほいとついて行っちゃって、あの中の誰かとねんごろになっちゃう」
「ねんごろ、ですか……。どこで覚えたんですか、そんな言葉。あとその愛のカタチがストーキングってのは、なんかダメダメっぽいです。言っておきますが、ちはるは理科じゃなくてボクを好きなればいいのです。ボクと一緒になれば、後悔なんてさせないですよ?」
 さりげなく告白を混ぜるみっしーであったがしかし、その言葉がちはるに通じるコトはなく、ちはるはオペラグラスをのぞき込みうなっているだけである。
「あー、まあいいです。ちはるもそのうちボクの愛に気づくですから。これも愛の試練です」
 みっしーは頭を掻き、ここに来る途中、スタバで買ったトールサイズの珈琲を飲むのであった。

 やっぱりファームは凄い、と理科は思った。なんでこのクオリティでボツを食らうのだろう。きっと監視人の目は節穴なんだわ。うーん、才能は時に認められないコトもある、みたいな?
 理科は他のメンバーがスプレーで壁に描きだす、ファンタジーなキャラの絵を、じっくりと観る。「躍動感がある」って陳腐な表現かもしれないけど、このファームの面々の作風を表すには、この「躍動感」という言葉こそがふさわしい。
 今にも動き出しそうな『ピース』。グラフィティ用語でいう『ピース』とは作品のコト。でも、元々は『断片』って意味もあるじゃないの。そう、一つ一つの作品は断片で、この描き出したキャラクターが揃った時に、それは作品の「全体」となって、そこで作品として完成する。「画面全体が躍動する」の。
 そして驚きなのは「これからは私の絵も揃わないと、『パズルのピース』は揃わない」ってコト!
「あなたの番よ、理科」
「まかしておいて!!」
 理科は水色のスプレー缶を手に持ち、フリーハンドで円を描く。ファームと言えばパンダ。他のものもファームは描くけど、でもやっぱり、最初に描くとしたらパンダしかないわ。ステキパンダに心を打たれて、入ったんだもの。やらないと。
 田山理科、一発イカせて頂きます!!
 円を描いた理科は、それから顔の中身を描いていく。身体全体を書く前に、顔を仕上げてしまうのが、理科の描き方だった。特に、目の表現には、細心の注意を払う。だって目は口ほどにものを言うんだから。
 理科の初めての『ボム』、つまり制作行為を見ながら、黒いパーカー姿のメンバーたちが微笑む。理科も今はユニフォームである黒いパーカーを着ている。そう、理科も今では、疑いようもなくファームの一員なのだ。みんなが理科の参入を祝福してくれている。だから理科は、幸せのさなかにいた。

 そんな至福の時がしばらくすると、遠くからバイクの排気音が聞こえてきた。
 バイクの音はどんどん近づいてくる。
「来たわね、邪魔者が」
 千鶴子が吐き捨てる。が、その声はすこし弾んでいるようにも聞こえる。案外、嬉しいのかもしれない。
 ものすごくはた迷惑な排気音を立てて五台のバイクが公園の車止めをすり抜け、ファームの前に躍り出る。ヘッドライトがまぶしい。理科は一瞬、まぶしくて目を逸らす。
 顔の方向を戻し細くした目で前方を見てみると、バイクはHONDAの『モンキー』であった。モンキーが爆音を出せるわけがなく、つまりそれは改造車であるコトを物語っていたのであった。
 モンキーに乗っている五人のうち、四人は白いTシャツを着たデブな男達。Tシャツにはそれぞれ、アニメ絵がプリントされていて、その絵は、ラムちゃん、メーテル、アラレちゃん、ミンキーモモで、その絵が肥っているが故にぴちぴちになっている。男どもに守られているように一番後方でモンキーに乗っているのは、ゴスロリの黒ドレスを身に纏った女。女は、オタクが好きそうなロリぷにフェイスだった。このロリぷに、理科たちが同人誌即売会で出会って一緒に打ち上げまでした、あの猫部犬子である。
 五人全員、ノーヘル。規則破り上等である。なんとなくヤバ気な雰囲気を醸し出しているのが、理科にも伝わってくる。
「来たわね、犬子の『ロッポンギ・ガールズヘル』が」
 千鶴子は忌々しげに言う。忌々しげだが、すごく楽しそうに聞こえるのはなぜだろう。
 理科は、
「ロッポンギ……、なんだって?」
 と、その名前の意味がよくわからず、よって上手く聞き取れず聴き返してしまうのであった。
 ロッポンギ・ガールズヘル。無論これは原くくるのファースト戯曲集『六本木少女地獄』からつくられたチーム名である。犬子は同書を読んでいたく感動したらしい。特に同戯曲集所収『うわさのタカシ』におけるト書き「エミリも、ネギを掴んで応戦。激しいネギの殺陣」というのにインスピレーションを刺激され、読了後ネギに取り憑かれた犬子はネギを素材にしたインスタレーションを作成したり、長ネギラーメンをむさぼるように食い歩いたという。
 犬子は戯曲が大好きで、小学生の頃つかこうへいの連作戯曲『熱海殺人事件』を読み、主人公の木村伝兵衛に恋をした。特にオリンピックの選手村においての伝兵衛の、やおい的エピソードに心ときめいたのであるが、これは思春期の腐女子として当然だと言えよう。私は伝兵衛と結婚するの、とか学校で口癖のように言うものだから、あだ名が「キム」になった。木村伝兵衛でキムラだから、キムである。だが、高校に進学した頃になると、同じクラスのリア充ギャルが「キム? ああ、アレっしょ、木村祐一のコトじゃね?」と発言。そこから犬子のあだ名が「木村祐一」になってしまった。確かに木村祐一は優れたお笑い芸人である。しかし悲しいコトに一般にはあまり知られていないお笑い芸人であり、犬子のあだ名の元ネタがわからないまま、人々は猫部犬子のコトを木村祐一という男の名前で呼ぶコトとなった。これは奇しくもつかこうへいが前述した『熱海殺人事件』のアナザーストーリーとした書いた戯曲『売春捜査官』において、主人公木村伝兵衛が、伝兵衛という名前であるにも関わらず女性であるという設定と軸を同じとするのである。ある意味、結婚するのと同じくらい木村伝兵衛に近づけた、と言えなくもないのであった。もちろん、変なあだ名なのでいじめを誘発するコトともなったのであったが、それはまた別の話。

 五台のモンキーがファームメンバーの周りをぐるぐる回る。十周ほど回って、犬子のモンキーが停まると、それに倣って他四台も停まる。
 モンキーから降りた犬子は腰につけたポーチから取り出した青のチョークを空中に投げ、それを自らキャッチする。
「いぬこたん!」「いぬこたんカワユス!」「いぬこたんギザカワユス!」「いぬこたん、ナイスナイス、ナイスキャッチ!」
 同じくバイクから降りた肥った男どもが、口々に犬子の名前を連呼する。
「あ、りがと、う」
 いつものぶつ切れの言い方をして、犬子はちょっと照れる。
 理科はその様子を「キモい」と思ったが、さすがに口には出来なかった。
 先ほど理科がスプレーで描いたパンダの絵の壁まで犬子は進み出て、チョークでそのパンダに大きくバッテンをつけた。そしてそのそばに、大きく猿のグラフィティを描き始める。
 スプレーのフリーハンドで描く絵と違い、チョークで描く絵は、さすがに緻密に描けるらしい。写実的な猿の絵が、そこに紡ぎ出される。
 千鶴子は耳打ちする。
「理科」
「ん? なに?」
「犬子は、アレでもこの街で一番のライターよ、自分の絵にバツつけられて気が進まないかもしれないけど、よく見ておきなさい」
「う、……うん、そうするわ」
 犬子の絵を眺めながら、男どもは目をきらきらさせている。ファームのメンバーも、犬子のグラフィティを、嫌そうな表情を浮かべながらも、注視する。
「しかし、なぜゴスロリでモンキーに乗って猿の絵を描くのかしら……、名前が猫で犬なのに」
 思ってたコトを思わず口に出してしまう理科。言ってから口を押さえるがすでに遅し。みんなに聞こえていた。ヤバッ、と焦る理科。
 すると意外なコトにそれに応えたのは犬子自身であった。
「モンキーに乗ってたっていいじゃない、……ゴスロリだもの」
「いや、全然相田みつをになってねぇからっ! つーかあなた普通にしゃべれるじゃんッッッ!」
 理科はいつものクセでツッコんでしまう。
「ま、あしゃべ、れるけ、どな。こっ、ちのほ、うがらくな、のよ」
「しゃべり方が戻ってる。わざとなのか……?」
「うむ、わ、ざとだ」
「わざとじゃないッ!?」
 化物語スタイルでそこにもツッコむ理科だった。
 ツッコミには全く無反応な犬子は、猿を描いたあと、その周囲にバナナの木を描いていく。風景も書き込む気だ。さすが芸術都市一番。芸当が細かい。
「でもさ、千鶴子」
「なにかしら、理科」
「さっきから描いてるの、犬子ばかりじゃない。男どもはなんなのさ。あと、グラフィティって、チョークもアリなんだ?」
「全く……」
 千鶴子はため息を吐く。
「寝言は寝てからほざきなさい。グラフィティにチョークを使うのは常套手段よ。あのキース・ヘリングだってチョークで描いてたんだから。あと、『ロッポンギ・ガールズヘル』はチームといっても、実際に描くのは犬子だけよ。男どもは取り巻きみたいなもの。犬子は浮かれやすいから、声援があると燃えるわけ。だから、男どもを子飼いにしてるのよ」
「ああ、そうなんだ……」
「犬子は直接的な声援があると燃え上がる、だから同人誌の即売会に顔を見せて、パワーをチャージしてる、というわけよ」
「うう、なんかリアルに怖いわ、その行動……」
 と、こそこそ喋る理科と千鶴子の私語に気づいた犬子の瞳が猫のように殺気できらりと光り、描くために持っていたチョークを超高速で投擲した。自分が描いてる時に雑談するのが気にくわなかったのだ。
 続いて二打目、ポーチからサッと取り出したチョークも野球のボールのように振りかぶって投げる。
 理科はポケットから取りだしたペインティングナイフでチョークを迎撃する。同じく千鶴子も舐めていたロリポップキャンディの棒を持ち外に出し、その棒を振りかぶってチョークを叩き落とした。
「や、るなお、まえら」
「ふん、飴玉のごとく甘いわね、犬子」
「全くなによ、ぱせりんみたくチョーク投げるなんて」
 千鶴子は理科に解説する。
「ああ、そうね、確か知らなかったわね、理科は。犬子の出身は過多萩大学文学部美術科。ぱせりんの弟子よ。特に優秀で可愛がられていた犬子は、ぱせりんからチョーク投げを含むいろんなコトを、直伝されたの」
「ふ~ん、なるほどねぇ」
 千鶴子と理科のやり取りを聞いていた犬子は一言、
「む、かしのこ、とだ」
 と、そっぽを向いた。その横顔は、ちょっと照れていた。犬子は、ぱせりんのコトが、大好きだったのだ、弟子ではなくなった今でも。

「ほらぁ、やっぱりいちゃついてる~」
 植木の茂みに隠れながら、横にいるみっしーに、オペラグラスを目にあてたちはるは言う。
「なにがですか、ちはる」
 みっしーはちょっと不快だ。暴れるのが好きなみっしーは、隠れるという行為が、好きじゃないのだ。
「お姉ちゃんとあの千鶴子とかいう奴! アレは絶対いちゃつきだよ!」
「ちはるにはあれがそう見えるのですか」
 と言ってスタバの珈琲をすする。
「あの耳打ちとか、もうピロートークの域にはいってるもん!」
「あれのどこが睦言に……?」
「みっしーにはわからないんだよ、女心が」
「ボクも一応レディなのですが」
 ちはるはぷんすかと頬を膨らます。
「みっしーは、私よりも年齢低いでしょ!」
「実年齢はそうカモですが、しかしながらちはるの背の低さは小学生並み……」
「みっしーだって背、低いでしょ」
「う、……否定できないです」
 と、屈みながら喋っていると、みっしーはお尻がむずむずしてきた。やはり屈んでいたからトイレがボクを呼んでしまっているのですね、と思い、後ろを振り返る。
 すると。
 そこには屈んだみっしーのお尻を、しゃがんだ体勢でくんかくんか臭いを嗅いでいるバツ子の姿があった。みっしーはびっくりして珈琲を地面に落とす。
 バツ子は真剣そうな面持ちで、みっしーに訴えかける。
「強烈なおならを、一発頼む!」
 みっしーは。
 思いっきりバツ子の顔を蹴り上げた。
「あべしッッッ!」
 両方の鼻の穴から鼻血を飛び出させながらバツ子はくるくる回転。吹き飛んで植木の中に撃沈した。
「油断も隙もないです、このケツ豚がっ!」
 大声を出してしまったみっしーに、ファームの面々や犬子が気づく。犬子は殺気丸出しになり、茂みにいる、そこから見えないみっしーに向かってチョークを投げた。
「うげらぼあ!」
 バツ子に気を取られていたみっしーのおでこに、ぱせりん直伝のチョーク投げがヒットした。
 降参したちはるとおでこを押さえたみっしーは、茂みの中から、出て行くのであった。
「バレちゃったじゃない」
「ごめんなさいです……」

 千鶴子は、ちはるに対面(といめん)すると、こんなコトを言った。
「あら、あなたもファームに入りたいのかしら、チビメガネちゃん?」
 チビメガネと言われたちはるは抗議する。
「私、チビメガネじゃないもん! それと……」
「それと? なにかしら」
 千鶴子はニヤリとする。次に来る言葉を、千鶴子は知っているのだ。
「私も……、お姉ちゃんと一緒に、お絵かきしても、……いいのかな?」
 その台詞に、みっしーは目を丸くする。
「ちょっ! なに言ってるのですか、ちはる! やめるですよ、ファームに入るなんて!」
「入らないよ。でも、たまにお姉ちゃんに付き添いたいの」
 それを聞いた千鶴子は一言、
「いいわよ、チビメガネちゃん」
 と言った。
「だから私、チビメガネじゃないもん!」
 ちはるがまた、頬を膨らます。

 その日は、まぶしいほど月が輝く夜だった。そう、はじめてファームと出会ったあの日のように。

 これが、一月の最終日。
 理科が思い出した、昨日の出来事なのであった。
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登場人物紹介

田山理科:ちはるの姉。絵描き。戦う武器はペインティングナイフ。

田山ちはる:田山理科の妹。優しいけど怒ると怖い一面も。自分の姉の理科のことが好き。

みっしー:死神少女。田山姉妹の住んでる部屋で居候をしている。武器は縁切りの大鎌〈ハネムーン・スライサー〉。ハネムーン中に離婚させるほどの威力を持つ。大鎌は刃物なので、普通に危ない武器。

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