Ⅲ チャペル

文字数 2,454文字

 夏の日の思い出、
 それがK教授との、たったいちどきりの思い出だった。
 あの階段は屋根裏部屋にでもつづいていたのか、
 それをたしかめることは、いまもできない。
 いま本館は冬籠り、堅牢な扉を鎖している。
 あのときの少年が私であることを、
 あのときのボーイが帰ってきたことを、
 私は声にだして言ってやりたかった。

  #チャペル

 本館の裏手をまわり、アーチェリー場をすぎると、西にひろがる森の入口にでる。そこには『礼拝堂』書かれた矢形の道標があり、矢尻の指す森の奥には煉瓦造りのチャペルがある。
 私はこの道しるべに見覚えがあるような気がした。くすんでひびわれ、落剥した白いペンキが、私の記憶を裏づけるように思えた。私は三十年前のパン屑を拾いあつめるように森の中へと入っていった。
 森の小径は一輪の(わだち)のように細くつづく。小径をはさむ下草も、踏みしめられた黒土も、次から次へと舞いおりる(はら)いきれない落葉に被われている。
 この森の奥、緑地公園と接するあたりに小さな池がある。直径十メートルにも満たない貯水池で、池の縁にある注水口からは水面が波立つほどの用水がそそぎこまれ、一方では金網を張った排水口が水面にうかぶ枯葉や小枝をたぐるように引きよせている。間断なく循環する水は、底にしずむ朽葉のかさなりも見透せる清流の透明度をたもっていた。(みぎわ)には水草が生え、そのなかをメダカがおよぎ、そのうえをミズスマシがすべる。一掬の水もしびれるくらい冷たかった。
 私はその池でザリガニやタニシやオタマジャクシを捕って遊んだ。水深も深いところで股下をこえない狭い池を、私は我物顔で歩きまわった。
 それまでオタマジャクシとは、黒くて小さいものだとばかり思っていた。が、水底の石をかえした瞬間、茶色い肢のはえた拇指ほどもあるヤツがあらわれた刹那、私は奇声を発して腰砕けになり、なおも水の中で手足をもがいていた。あんなのは生れて初めて見た。あのときのことはいまも忘れない。
 あのころ、この森にくるごとに、あの池にいくたびに、私は礼拝堂に立ちよった。特別なにをするわけでもなくただ、来て、見て、帰る、そんなことが多かった。ときには(なみだ)をふき(はな)をすすりながらチャペルに駆けていったこともある。泣きたいときの行場所はここと決まっていた。
 私がこのチャペルを知ったのは、初めて森の奥に入った八月のある早朝だった。夏休みのその日、S・A・私の三人はラジオ体操にいくと云ってこの森にきた。カブトムシを捕るのが目的である。よく捕れる場所を知っているというSを先頭に、私たちは森に分け入った。明方の道なき道を後れまいと私は必死にSの背について進んだ。ところがいるはずのものがそこにいない。私たちはさらに森の奥へと進むことになった。そのころから私はしだいに後悔しはじめていた。それは嘘をついたことへの後ろめたさともいえた。もうカブトムシなんかどうでもいい、早く家に帰りたい、そう思っていた。その時に見た礼拝堂──朝霧の(けぶ)るなか、細やかな露華(ろか)につつまれ、(しめ)やかにたたずんでいた礼拝堂。払暁の曙光に刻々と煌めいてゆくその容姿(すがた)に、私は救われる思いがした。
 ──チャペルはあのころのままだろうか
 私は森の中をいそいだ。

 行く手の木々のむこうに礼拝堂が見える。並んだ幹のあわいからその横顔を見せている。杪にすけた(くろ)い甍の二層屋根、葉にかくれた赤煉瓦の側壁、晩翠(ばんすい)にきわだつ対色も、冬の日景に黄味おびて深緑のなかに和諧(わかい)している。
 ここから望む礼拝堂は森の樹木に護られたようにも、閉じ込められたようにも見える。それほど周囲の立木は櫛比している。私は喬木に囲まれた小径を小走りに走り抜け、礼拝堂の正面に立った。
 チャペルは変わっていなかった。三つの尖頭アーチがならぶアーケードの入口、その奥にある三つの白い扉、いずれも桟を十字に組み、その上に半円形の飾り窓をのせ尖頭アーチの統一を果している。中央アーチの上には棟をこえて方形の塔屋が聳立し、高層には薔薇窓(バラマド)がもうけられ、塔頂には銀灰色の十字架がうちすえられている。
 私は窓に近づき中を覗いてみた。その窓には欠けた色硝子の代わりに、透明の板硝子が使われている。これも直っていない。堂内に人はいないようだ。扉の前に立ちノブに手をかける。鍍金(キン)の把手に無垢の光沢はない。たくさんの掌に握られた黄銅の光をかえしている。錠もあいていた。一瞬、躊躇したが思いきって扉をあけた。とたんに感じる抗しがたい力。静けさを静粛に高める神聖さも失われてはいなかった。
 私は一礼して中に入り静かにドアをしめた。堂内は懐かしいより新鮮だった。祭壇にむかう通路の両側には長椅子の信者席が置かれ、窓際に立つ左右の列柱は互いにアーチを架けあい穹窿の天井を支えている。柱の頭部から四方にひろがるアーチの稜線は、柱頭に彫られたアカンサスを(がく)に、合弁の花が天にむかって花冠を開いたように膨らんでいる。通路の奥には主祭壇が、その両脇には副祭壇がシンメトリーに安置され、いずれも可憐な花や銀燭のキャンドルによって鮮麗に演出されている。それはさながら中世ヨーロッパの壮麗な大聖堂の遠景のように、巧緻な彫刻と大小の尖塔をそなえ、抜きんでた中央の大尖塔にいだかれた黄金のクルスは、神さびた光背を放っている。その光の濫觴(らんしよう)は高窓から射る(さまた)げられることのない光。
 外界を遮断する漆喰の白壁にかこまれ、窓という窓にステンドグラスを嵌めた堂内は、宝石を欺くばかりの光彩を会堂いっぱいに撒き散らしている。青玉(サフアイア)紅玉(ルビー)黄玉(トパーズ)緑玉(エメラルド)紫水晶(アメシスト)──それは円柱の半面をぬらし、長椅子にあふれ、私が立つダイヤ張の通路の上にも、あわい(しずく)を飛ばしている。
 私は憑かれたように光をたどり、通路をさまよい、ひときわあざやかな金鑞(きんろう)(きらめ)くような光に手をかざした。きわやかな輪形の光は手の甲に、かえせば手の平に自在に移る。たとえ指を閉じたとしてもこの光をつかむことはできない。私は掌にある金色の光輪を見つめ陶然と佇立していた。
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