第27話「吹き荒れるピンクの嵐」(5) 

文字数 4,981文字

 場面変わって、再びヨルムンガルド――
「な、何が起こったんですか!?」
 丸太を押しのけて起き上がったライムは、ピンク色の霧に覆われた校庭を見て、ただ驚きの声を上げた。
「誰か、誰かいないんですか!?」
 数メートル離れれば、何も見えなくなるほどの霧の世界。
「っていうか、これは……なんなんです?」
 そしてこの霧、呼吸とともに体内に入るだけで、凄まじい不快感を覚えた。
 吐き気がしそう……というのともまた違う。
 神経の糸が解けていくような奇っ怪な感覚。
 最も近いもので言うなら、煮詰めた蜂蜜を鍋いっぱい飲み干したような、もしくは、口当たりは甘いが、度数がとんでもない酒を飲まされたような気分であった。
「あ、ゴブ田くん!」
 右も左もわからぬ状態で、さまよっていると、目の前に、クラスメイトのゴブ田の姿を見つけた。
「一体何があったんです? この霧はなんですか?」
「………………」
「他のみんなはどこです? ロッテやミシルティアはどこにいるか知りませんか?」
「………………」
「あの、ゴブ田くん?」
 答えるどころか、ゴブ田はライムに目を向けようとさえしない。
 まるで、魂が抜かれたような有様に見えた。
「す……」
 と、思ったら、ボソリとなにかをつぶやく。
「なんです? ゴブ田くん?」
「すて……すてらせんせぇえええええええ!!」
「ひっ――!?」
 思わず身じろぎしてしまうほど、あきらかに正気でない声で叫ぶと、ゴブ田は霧の中に走り去っていってしまった。
「な……なにが起きたんですか……ん!?」
 あちこちから、男子生徒の声が聞こえる。
 それはまるで、酔っぱらいのうめき声のような、もしくは、さかりのついた獣のような声。「すてらせんせ………」
「すて……らぁ……せんせぇ……」
「すてらぁ………」
 その全てが、ステラ・リアの名前を呼んでいる。
「こ、これは……」
 言いようのない恐怖に、動くことも躊躇するライムの耳に、ステラを求める以外の声が聞こえてきた。
「ライム……ちゃ~ん……」
「ロッテですか! ここです! わたしはここです!」
 今日ほどこの間延びしたゾンビ族の少女の声が聞けたことを、嬉しいと思ったことはなかった。
 しばしして、ピンクの霧の向こうから、ロッテと、移動式宝箱に乗ったミシルティア、そしてラーヴェルトが現れた。
「みんな……これは、一体何が起こったんで――ラーヴェルト先生!?」
ホッとしたのもつかの間、血まみれのラーヴェルトの手を見て、ライムは悲鳴を上げそうになった。
「一体それは! 誰にやられたんですか!」
「ああ、落ち着いてくださいライム君、これは……自分でやったんです」
「自分で?」
「はい、自分の体を傷つけ、痛みを与えなければ、理性を保てなかったんです」
 そう話すラーヴェルトの顔も、不自然なほてりに覆われ、足元もふらついていた。
「ステラ先生は……サキュバスだったんですよ」
「サキュバスって……あのサキュバス!? ステラ先生が!」
 淫蕩と欲望を体現せし者、サキュバス――しかし、美人ではあるが、露出度も低く、いつも地味めな格好をしているステラ・リアからは、想像もできない話だった。
「信じられないかもしれませんが、間違いありません。しかもこれは、その中でも直系クラスの力……」
 ラーヴェルトは、元魔王軍の中でも名うての騎士であった。
 故に、何度か“淫靡卿”アルア・ドネアの姿を目にしていた。
 普段のアルア・ドネアは、己の力で周囲を混乱させぬよう、実は何重ものガードを己に敷いている。
 しかし、それでも漏れ出す僅かな淫気だけで、自制心のない者は心を奪われていた。
 あの時に僅かに感じた気と、同じ流れのものがあったのだ。
「ステラ先生がなぜ自分の出自を隠していたかわかりません。でも、どうやら、自身の力の制御が、何らかの理由で外れてしまったようです」
 今までも、おそらくステラ・リアは、小出しに力を使っていたのだろう。
「性」は「生」に通じる。
 性欲は、生きようとする生命の根源欲求。
 それを支配するサキュバスの力を一時的に使い、ウンドウカイに積極的でなかったA組の生徒たちを奮起させたのだ。
「男子生徒全て……いや、この周囲一体のオスは、全てステラ先生に魅了されてしまっています。僕も……いつまでもつかわかりません。だから……」
 ラーヴェルトの手には、丈夫そうな縄が握られていた。
「まだ僕の理性が残っているうちに、これで僕をどこかに縛り付けてください。そして、君たちは早く逃げてください」
 ステラ・リアの力は、今は男性のみだが、そのうち女性にも影響をおよぼす可能性が高い。
「他の女子生徒は見つけられませんでした……君たちだけでも……早く!」
「でも……あの……クトゥー先生は?」
「………………」
 ライムに問われ、ラーヴェルトは重い顔をする。
 サキュバスの魅了の力は、人間にはさらに強力に作用する。
 よほど徳を積んだ聖人か、神の加護を得た聖者でもなければ、抗うことは不可能。
 ましてやクトゥーは童貞である。
 まともな恋愛経験もない、女慣れしていない喪男である。
「クトゥー先生が耐えられるわけがない……!」
「そんなぁ!」
 ライムは、見たくなかった。
 あの傲慢で傲岸で、人の話を聞かない、わがまま男が、だらしなく鼻の下を伸ばし、自分を“ニンゲン”と嘲り罵った女に支配される姿など。
「あのモテないクトゥー先生が! あの女子に手を触れられることすら罰ゲームという人生を生きてきたあの人が! こんな魅了の力に耐えられ――ごゔぇば!?」
 いきなり背後から、丸太でラーヴェルトを殴りつけられた。
「むきゅう……」
 ただでさえ理性を失いけていたところに、背後に現れた何者かからの丸太の一撃を食らい、ラーヴェルトは目を回して気絶する。
「自覚しているがはっきり言うんじゃねぇよこのイケメンがぁ!」
 現れたのは、いつもとまったく変わらぬ様子のクトゥーであった。
「クトゥー先生!」
「先生!」
「せんせー……」
 ライム、ロッテ、そしてミシルティアの三人が笑顔に変わる。
「あの、正気ですか……?」
「その聞き方はなんか違う意味に聞こえるぞ」
 ライムからの問いかけにもいつもと同じ顔で、いつもと同じ口調で返す。
「あの女サキュバスだったのか……まぁ、薄々そうじゃないかとは思ってたけどなぁ」
「なんで……効かないんですか?」
「そりゃオメェ……」
 クトゥーが説明しょうとする前に、ピンクの霧が、濃さを増した。
「うむぅ………!!」
 この霧は、ただの霧ではない。
 ステラ・リアの魔力そのもの。
 それがクトゥーよりも先にライムらに影響を及ぼし、彼女らはむせるようにうずくまる。
「来るなぁ! 来るなぁ!」
 霧が濃くなった原因は、魔力の発生源――ステラ・リアが近づいていたからだった。
 自分に群がる男たちをはねのけ、必死の形相で逃げている。
「アンタは……」
 クトゥーの姿を見つけ、ステラ・リアの顔がこわばる。
「ははっ……笑いなさいよ、これが私の本性よ……!」
 己にかけていた、二重三重のガードが解けてしまったのだろう。
 彼女の外見は、大変サキュバスらしいものへと変化していた。
 強大な魔力は、物質にまで影響を及ぼす。
 着ていた服は、露出度の高い扇状的なものに変わり、髪と瞳は霧と同じピンク色に、背中にはコウモリのような翼まで生えている。
「こんな体になんて生まれたくなかった! サキュバスなんて……男に依存するだけの存在としての生き方なんて、したくなかった! 私は、誇りある魔族として生きたかった!」
 クトゥーらは知らぬことだが、“淫靡卿”の娘として生まれながら、彼女はあまりにも、サキュバスらしくない性格だった。
 己の美しさと淫蕩さで男をたぶらかし、それを「成果」と誇る存在となることを、許容できないくらいに、彼女はカタブツ過ぎた。
「ちくしょう………」
 ステラ・リアの目から、涙がこぼれていた。
 己の淫気に理性を失い、己の体だけを目当てに殺到する男たち。
 その光景は、彼女からすれば、自分の内面などどうでもいい、体だけがあればいいと、その数だけ人格否定の言葉を叩きつけられているようなものだ。
「そこを退きなさいよ! それともアンタも、私を抱きたいの!」 
 吐き捨てるステラ・リア。
その背後に、何度も彼女にふっとばされたのだろう、頭から血を流し、骨が折れているのに、まるで死霊のようにステラ・リアを追う、男たちの大群が迫る。
「来るなぁ! あっちに行けぇ!」
 叫び、追いすがる男たちを魔力の放出で弾き飛ばしながら、ステラ・リアは走り去っていった。
「あの女が、高位魔族の誇りに固執したのは……自分で自分の生まれた種族を誇れなかったから、か……ま、そんな気はしてたけどな」
 弱い犬ほどよく吠える――という言葉がある。
 確固たる自分を持てなかった者ほど、他者を攻撃することで、弱い自分を補填しようとする。それが、人も魔族も共通するものであることを、クトゥーは知っていた。
「さて……逃げるか」
「え!?」
 我関せずとばかりに、その場から撤退しようとするクトゥーに、ライムは声を上げた。
「ほっとくんですか、あのステラ先生を!」
 ライムまで、血相を変えて訴えてくる。
「あのままじゃステラ先生……大変なことに……」
 何百人という、獣とかした男たちに、欲望のままに蹂躙される。
 それは同性として、見過ごせないものだった。
「なんとかできないんですか!」
「できねぇことはねぇ」
「なら――」
「だがしたくない」
「そんな!」
 ライムの訴えかけにも、クトゥーは嫌そうな顔で返す。
「大丈夫だよ。オマエらが思うようなことにはなんねーよ……」
 クトゥーには、現在ステラ・リアが陥っている状況を把握していた。
 その対処方法はあるが、そんなことをしなくとも、時間とともに沈静化することは確かだった。
 なぜなら――
「でも……それ、ステラせんせーは……どうなのかな……」
 宝箱の隙間から、ミシルティアがボソリとつぶやく。
「あの人……自分の生まれを受け入れられなかった……アタシと同じ………でもアタシは、せんせーがこの宝箱をくれた……」
 ミミックとして生まれた宿命は変えられない。
 だが、ミミックだから諦めなければいけないという運命には、逆らうことが出来る。
 それを、クトゥーは彼女に教えた。
「クトゥー先生、ステラ先生を助けてあげてください!」
 改めて、ライムは心を込めて、クトゥーに願った。
 ステラ・リアを見捨てることが出来ない……ということもあったが、それ以上に、苦しむ彼女を、見捨てるクトゥーを見たくなかったという方が、近かった。
「困っているからって、さっきまで敵だったやつを助けるなんて……今時人間でもやらねーぞ?」
 はぁ、と……深いため息をつくクトゥー。
「ま……“ニンゲン”ごときに恩を売られたって、悔しがるあの女の顔を見るのも、悪かねぇか」
 クトゥー・アインデルセンは、存在するだけで全ての人間から嫌悪と敵意を受ける暗黒式魔導師。それゆえに彼は、「誰かに期待される」ことに弱かった。
「ミシルティア……オマエのその箱で、回りのサルになったヤローども弾き飛ばして、あの女教師にギリギリまで近づけるか?」
「らくしょー……」
「よし!」
 マジカルエンジンを最大出力にまで高め、走り出そうとする自走式宝箱の上に、クトゥーは飛び乗る。
「オマエらは、あのイケメン連れて、どっかに避難してろ」
 気を失っているラーヴェルトを顎で示し、クトゥーはさらに言う。
「それと……俺がどんな姿になっても、うろたえるなよ」
「え………」
 クトゥーのその一言の意味がわからず、聞き返そうとするライムだったが、それよりも先に機械の獣の咆哮が響き、自走式宝箱は、ステラ・リアを追って走り出した。
「クトゥー先生……それ、どういう意味……?」
 後には、不安げな顔をするライムとロッテだけが残った。


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