最終話 冷凍未完幻想曲「意味テーション」 END OF ALICE
文字数 3,030文字
日が暮れた頃、古城ありすの運転で、時夫達は貨物線の駅へ到着した。
石川ウーは、薔薇喫茶の開店準備に追われて来なかった。
そこは前に時夫が迷い込んだ路線だった。しっかりと駅まで存在している。いや、前からあったのだろうけれど。
その線路は中空界と化した恋文町と、現世を繋いでいた。
伊都川みさえの石から誕生した雪絵は、東京から恋文町へこの電車でやってきたらしい。けれど出て行くことができずに、恋文町に閉じ込められた。
一方で道路は東西南北の時空が塞がれているし、スト中のため恋文駅からも乗れない。ありすによると、恋文町から唯一外へ出られる路線だという。すでに第一便は出た後らしい。
「今日は次の便でラストよ。その次の予定は決まってない」
ありすは線路の向こうを見て、時夫の眼を見ない。
「ありがとう、ありす」
「もう……会えないかも。東京へ戻ったら、ここでの記憶は忘れてしまう。それでもいい?」
ありすは怪訝そうに訊いた。東京に帰れば、時夫はありすたちやこの町で起こったことを忘却してしまう。達夫も、きっとこれまでのことを時夫に言わないだろうという。
「それでもいい」
「……」
「二度と会えないよ」
「うん」
時夫は迷いを吹っ切るように答えた。
東京へ帰らない訳にはいかない。
もともとお互いに、別の世界の住人だったんだ。ありすは蝶となり、サリーも人間になり、時夫と雪絵は、貨物線で町を出る。それでいいのだ。何もかも、きれいに収まる。
「分かった」
ありすの方が、なんとなく未練があるらしかった。
「俺……君に何度助けられたか分からないよ。本当に……もう……。ずっと感謝している」
「何なの、今更」
「それなのに、何も恩を返せないうちに忘れてしまうなんてな」
「この冷凍みかんでひょっとしたら……」
幻想寺で凍ったままのみかんを、ありすはもぎ取って保管していたらしい。一つだけ残っていた白井雪絵の、雪の女王としての力の結晶だった。
「これ、『未完』という科術の果実の意味論を凍らせている。その意味論で、ひょっとしたら思い出すかも。車中で、冷たい内に食べてね」
THE昭和の、給食の定番メニューのデザートだ。
「みかん、未完か。終わらないという意味か?」
「恋文町の歴史書がみんな、途中で終わっているのと同じよ」
「さすがありすらしいな。ありがと」
貨物列車が到着した。巨大な茸状のタンクを連結している。人が乗れる車両はなかった。
「これじゃない。その次よ」
ほどなくして貨物列車は発車し、また白いヘッドランプが見えた。
到着したのは、眩く青白く輝く京成スカイライナーだった。
「東京まで直通で連れてってくれるわ。綺羅宮軍団の計らいで特別に手配してもらったの」
「凄い」
二人が乗り込んむと、ホームの発射のベルが鳴った。
「……ちゃんと思い出せるかな?」
「しょうがないなぁ。ならこれも持ってって」
ありすは、セピア色に焼けた自分の古い写真を渡した。終戦直後のものらしい。
今と全く同じ姿の古城ありすがそこに写っていた。きっと、達夫店長のニコンで映した写真だろう。
「写真を撮ると、魂を捕られるんじゃなかったっけ?」
「そんなの迷信よ。一枚だけ、師匠が撮ってくれたのよ」
ありすは言った。
「バイバイ、金時君!」
ありすの満面の笑顔がそこにあった。
時にうっとうしかったこのあだ名を聞くのも、これで最後だという予感があった。
闇に包まれて行く町を車窓から眺めながら、時夫は二人きりの車内で雪絵に言った。
「この町で、ずっと不安だったろ。雪絵。自分が人間か砂糖なのか、何も分からないで」
「ううん……? 時夫さんは、ずっと私のポラリスだったもの」
「人間になって、安心した?」
「たとえスイーツドールでも、時夫さんの恋人役になれたから悪くなかったって思ってる」
雪絵は時夫をじっと見た。
「進路、決めました」
「え?」
「東京で学生に戻ります」
雪絵は元気つらつだった。こんな子だったろうか?
「あぁ……テニス部がんばれよ」
「……はい!」
雪絵は、最初から本体のみさえその人だった。それが、恋文町に雪絵の姿を取って現れていただけなのだ。……というのが、色々と逡巡した古城ありすの結論らしい。
時夫はそうではなく、最初は分身でしかなかった雪絵が次第に意味を獲得した結果、本体と入れ替わったと考えている。けど、どっちでもいいか……。
車両の奥に、数人の客たちが乗っていることに気づいた。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
「あの荷物はなんですか?」
「あぁ、行商のおば……。いや、なんか人間ぽくないけど」
三人の行商のおばさんたちは、「スペース・コブラ」のクリスタルボーイみたいに身体が透けている。さっきまで完全に見えていなかったのかもしれない。
「それはわたしも同じですよ。いろいろな人たちが、いろいろな理由でこの列車に乗っているのでしょう」
そうだ。雪絵の言うとおりだ。……現世に戻るために。
二人は冷凍みかんを二つに分けて食べながら、黙々と外を眺めていた。
車窓から星空が見える。しかし、地上の町が見えない。ありすによると、外の世界へ戻るとき、一旦宇宙空間を通るらしい。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界の中に入っていくみたいだった。
時夫の、近所を舞台とした冒険が終わろうとしていた。
時夫は前に夢想したように、世界中を巡ったわけではない。けれど、「冒険したい」、でも金も時間もゆとりもないと思っているのなら、たとえ近所でも眼光紙背に徹すれば冒険はできる。
幼い頃、ありきたりな街も、何もかもが不思議の国で、冒険に満ちていた。昼があり、夜があること。地面に映った影ひとつとっても、面白い現象だった。いつかそれが見慣れていって、当たり前の現象になっていったのだ。
みんな、どれくらい近所のことを知ってるだろうか? 近所とはいえ、意外と同じルートを行き来しているだけかもしれない。
時夫は、近所を歩いてみて、ほとんど何も知らなかったことに気づいた。すぐ近くにある美味しい店、歩いて十分のところにある漢方薬局……。そこを訪ねるだけで新しいドラマが始まるかもしれない。ただし、何が起こっても安全は保障出来ないが。
列車の中に、蝶が迷い込んでいるのに気づいた。
「これ……ありすかな」
「そうかもしれませんね」
古城ありす。「不思議の国のアリス」の意味テーションである彼女の物語も、いずれ本家と呼ばれる時が来るかもしれない。ま、それはないか。
セピア色の写真をひっくり返すと、ありすの字で「美味しいたこ焼きの作り方」と手書きされていた。
美味しいたこ焼きの作り方
1・たこ焼き器を加熱する。凹みに油を塗る。
2・だし汁で溶いた小麦粉に薬味を加えた生地を流し込み、具のタコを入れる。
3・下部がカリッと焼けたら、先の尖った錐を凹みに差し込んで、たこ焼きをクルクルと回転させて球状にする。
4・焼き上がったら容器に移し、ソースやたれを塗る。マヨネーズ、青海苔、削り節などを振りかければ、完成!
時夫はふっと笑った。
「それくらい俺でも知ってるよ」
時夫と雪絵は、もう一度笑った。
冷凍未完
石川ウーは、薔薇喫茶の開店準備に追われて来なかった。
そこは前に時夫が迷い込んだ路線だった。しっかりと駅まで存在している。いや、前からあったのだろうけれど。
その線路は中空界と化した恋文町と、現世を繋いでいた。
伊都川みさえの石から誕生した雪絵は、東京から恋文町へこの電車でやってきたらしい。けれど出て行くことができずに、恋文町に閉じ込められた。
一方で道路は東西南北の時空が塞がれているし、スト中のため恋文駅からも乗れない。ありすによると、恋文町から唯一外へ出られる路線だという。すでに第一便は出た後らしい。
「今日は次の便でラストよ。その次の予定は決まってない」
ありすは線路の向こうを見て、時夫の眼を見ない。
「ありがとう、ありす」
「もう……会えないかも。東京へ戻ったら、ここでの記憶は忘れてしまう。それでもいい?」
ありすは怪訝そうに訊いた。東京に帰れば、時夫はありすたちやこの町で起こったことを忘却してしまう。達夫も、きっとこれまでのことを時夫に言わないだろうという。
「それでもいい」
「……」
「二度と会えないよ」
「うん」
時夫は迷いを吹っ切るように答えた。
東京へ帰らない訳にはいかない。
もともとお互いに、別の世界の住人だったんだ。ありすは蝶となり、サリーも人間になり、時夫と雪絵は、貨物線で町を出る。それでいいのだ。何もかも、きれいに収まる。
「分かった」
ありすの方が、なんとなく未練があるらしかった。
「俺……君に何度助けられたか分からないよ。本当に……もう……。ずっと感謝している」
「何なの、今更」
「それなのに、何も恩を返せないうちに忘れてしまうなんてな」
「この冷凍みかんでひょっとしたら……」
幻想寺で凍ったままのみかんを、ありすはもぎ取って保管していたらしい。一つだけ残っていた白井雪絵の、雪の女王としての力の結晶だった。
「これ、『未完』という科術の果実の意味論を凍らせている。その意味論で、ひょっとしたら思い出すかも。車中で、冷たい内に食べてね」
THE昭和の、給食の定番メニューのデザートだ。
「みかん、未完か。終わらないという意味か?」
「恋文町の歴史書がみんな、途中で終わっているのと同じよ」
「さすがありすらしいな。ありがと」
貨物列車が到着した。巨大な茸状のタンクを連結している。人が乗れる車両はなかった。
「これじゃない。その次よ」
ほどなくして貨物列車は発車し、また白いヘッドランプが見えた。
到着したのは、眩く青白く輝く京成スカイライナーだった。
「東京まで直通で連れてってくれるわ。綺羅宮軍団の計らいで特別に手配してもらったの」
「凄い」
二人が乗り込んむと、ホームの発射のベルが鳴った。
「……ちゃんと思い出せるかな?」
「しょうがないなぁ。ならこれも持ってって」
ありすは、セピア色に焼けた自分の古い写真を渡した。終戦直後のものらしい。
今と全く同じ姿の古城ありすがそこに写っていた。きっと、達夫店長のニコンで映した写真だろう。
「写真を撮ると、魂を捕られるんじゃなかったっけ?」
「そんなの迷信よ。一枚だけ、師匠が撮ってくれたのよ」
ありすは言った。
「バイバイ、金時君!」
ありすの満面の笑顔がそこにあった。
時にうっとうしかったこのあだ名を聞くのも、これで最後だという予感があった。
闇に包まれて行く町を車窓から眺めながら、時夫は二人きりの車内で雪絵に言った。
「この町で、ずっと不安だったろ。雪絵。自分が人間か砂糖なのか、何も分からないで」
「ううん……? 時夫さんは、ずっと私のポラリスだったもの」
「人間になって、安心した?」
「たとえスイーツドールでも、時夫さんの恋人役になれたから悪くなかったって思ってる」
雪絵は時夫をじっと見た。
「進路、決めました」
「え?」
「東京で学生に戻ります」
雪絵は元気つらつだった。こんな子だったろうか?
「あぁ……テニス部がんばれよ」
「……はい!」
雪絵は、最初から本体のみさえその人だった。それが、恋文町に雪絵の姿を取って現れていただけなのだ。……というのが、色々と逡巡した古城ありすの結論らしい。
時夫はそうではなく、最初は分身でしかなかった雪絵が次第に意味を獲得した結果、本体と入れ替わったと考えている。けど、どっちでもいいか……。
車両の奥に、数人の客たちが乗っていることに気づいた。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
「あの荷物はなんですか?」
「あぁ、行商のおば……。いや、なんか人間ぽくないけど」
三人の行商のおばさんたちは、「スペース・コブラ」のクリスタルボーイみたいに身体が透けている。さっきまで完全に見えていなかったのかもしれない。
「それはわたしも同じですよ。いろいろな人たちが、いろいろな理由でこの列車に乗っているのでしょう」
そうだ。雪絵の言うとおりだ。……現世に戻るために。
二人は冷凍みかんを二つに分けて食べながら、黙々と外を眺めていた。
車窓から星空が見える。しかし、地上の町が見えない。ありすによると、外の世界へ戻るとき、一旦宇宙空間を通るらしい。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界の中に入っていくみたいだった。
時夫の、近所を舞台とした冒険が終わろうとしていた。
時夫は前に夢想したように、世界中を巡ったわけではない。けれど、「冒険したい」、でも金も時間もゆとりもないと思っているのなら、たとえ近所でも眼光紙背に徹すれば冒険はできる。
幼い頃、ありきたりな街も、何もかもが不思議の国で、冒険に満ちていた。昼があり、夜があること。地面に映った影ひとつとっても、面白い現象だった。いつかそれが見慣れていって、当たり前の現象になっていったのだ。
みんな、どれくらい近所のことを知ってるだろうか? 近所とはいえ、意外と同じルートを行き来しているだけかもしれない。
時夫は、近所を歩いてみて、ほとんど何も知らなかったことに気づいた。すぐ近くにある美味しい店、歩いて十分のところにある漢方薬局……。そこを訪ねるだけで新しいドラマが始まるかもしれない。ただし、何が起こっても安全は保障出来ないが。
列車の中に、蝶が迷い込んでいるのに気づいた。
「これ……ありすかな」
「そうかもしれませんね」
古城ありす。「不思議の国のアリス」の意味テーションである彼女の物語も、いずれ本家と呼ばれる時が来るかもしれない。ま、それはないか。
セピア色の写真をひっくり返すと、ありすの字で「美味しいたこ焼きの作り方」と手書きされていた。
美味しいたこ焼きの作り方
1・たこ焼き器を加熱する。凹みに油を塗る。
2・だし汁で溶いた小麦粉に薬味を加えた生地を流し込み、具のタコを入れる。
3・下部がカリッと焼けたら、先の尖った錐を凹みに差し込んで、たこ焼きをクルクルと回転させて球状にする。
4・焼き上がったら容器に移し、ソースやたれを塗る。マヨネーズ、青海苔、削り節などを振りかければ、完成!
時夫はふっと笑った。
「それくらい俺でも知ってるよ」
時夫と雪絵は、もう一度笑った。
冷凍未完