第1話

文字数 3,763文字

想像することが好きだ。考えることが好きだ。
想像の中では様々な自分に出会える。
幸せに浸っている自分、怒り狂ってる自分、悲しみに暮れている自分。

昔から、一人でいることが好きだった。一人でいるときは空想がはかどる。友達と遊ぶよりも
友達が遊んでいるのを見るほうが好きだった。だから小学校でも周りと遊ぶより、一人で本を
読んだり、ぼんやり空想したりする時間の方が多かった。そんな生活が変わったのは中学校に
入ってからだ。いつでも一人でいる人間がボッチと呼ばれ、裏で哀れまれバカにされるという
ことを中学校に入って初めて知った。嫌だ!金をもらっても同情されたくない!と、少し
後ろ向きな理由で友達作りを始めた。しかし、人間関係において小学校では完全に受け身だった
ため、どうやって友達をつくっていけばいいのかも分からない。

とりあえず、人気者になろう。そう思った。

とりあえずでなれる程、人気者への道は易しくないだろうが、当時の私はやる気に燃えていた。
アホだったが。そして私は手始めに、自己紹介を成功させようと考えた。容姿や頭脳も人並みでとりわけ目立った特徴も無かった私は、面白みに溢れ、且つ聴衆達の心を掴んで離さない
スピーチを考えだした。元々ユーモラスな少女であった私は、そんなスピーチを考えるのに
さして苦労しなかった...はずだ。曖昧な記憶ではあるが「真面目そうなイメージを植え付けたかったのに、丸メガネにしてしまって後悔している」だとか「ピーマンとゴーヤが食べれない」とかいうことを話した記憶がある。今思えば何が面白いのか大して理解できないが、きっと
私の知性の高さが感じられる話し方と愛くるしい内容とのギャップに、皆微笑ましく思ったの
だろう。クラスで3番目ぐらいには大きな笑いが起こっていた。あの笑いを大きいととるかは
個人の問題だが、あれは確実に大きな笑いだった。記憶は美化されるものだけど...。

ともかく、この自己紹介で私に声をかけてくれる人が何人か現れた。その時私は、
「私に声をかけるとはなかなか分かっているな、此奴ら...。」
と思った。嘘だ。膝から崩れ落ちるほど安心した。
これで失敗して「なんかちょっと変な人」で終わったらどうしようかと心底怯えていたのだ。
私のクラスの人は良い人ばかりだ。有り難い。

まあ、こんな調子で私は友達と共に過ごす学校生活を開始した。特定の人間と学校でいるほとんどの時間を一緒に過ごすのは初めてだったが、
これはこれで楽しかった。そういえば、小学校のときも女子はそういう風に過ごしている人が
多かったかもしれない。もっと早く気付くべきだったか...。いや、気付いてはいたのだが、
自分の周りの女子が特殊なのだと思っていた。実際に特殊だったのは私の方だったが。カルチャーショックだ。

このように順調に友達を作っていた私の学校生活に暗雲が漂い始めたのは一年の冬だった。人間生活で問題があったわけではない。そう、成績が悪かったのだ!わざわざ感嘆符をつけるほどのことでもないが。無論、最初は博学多識で品行方正な秀才だったのか、と聞かれれば、明後日の方向を向くしかなくなるのだが。

私の学校では最終的な評価において、定期テストの点数よりも提出物などの課題が重視される。私はその提出物を3割程度しか出さなかったのだ。いや、3割出しているかどうかも怪しいところだ。なにしろ、私は夏休みの宿題を五行日記しか出さなかった猛者なのだから。今思うととんだ自殺行為だ。恐ろしい。だが私は全く重く捉えていなかった。能天気なんていうレベルじゃない。心底興味がなかったのだ。成績に。なにか特別な分野で才能を発揮しているならまだしも、私は副教科の存在意義を常に疑っているような生徒だ。

そして、そんな私を心配した両親は私を病院に連れて行った。精神科だ。驚いたが流れに身を任せていたら、いつの間にか私たちの順番が来ていた。診察室に通されると、異様に目力の強い医者が待ち構えていた。こういうと大げさだと思われるかもしれないが、私は本当に最終決戦のような気分だったのだ。緊張しながら小一時間ほど会話した。話しているだけで他は何もしなかったが、どうやら診察が終わったらしい後、ADHD(注意欠如・多動症)だと診断された。ADHDとは発達障害の一つで、不注意や多動症、衝動性などの特徴がある。
衝撃が走った。
私は典型的なADHDだったのだ。正に絵に描いたようなADHD。絵に描いたようなADHDを見たことは無いが、きっと私のような人間のはずだ。それほどまでに腑に落ちたのだ。同時に少しだけ救われた気がした。病気が原因なら、改善する、ということだ。それに自分が少しだけ特殊で特別な人間になったような高揚感があった。自分でも馬鹿げているとは思うが、いつも変わらない私の人生においてようやく変わったことが起きてくれたようなそんな気がした。

これをきっかけにADHDや学習障害、知的障害などに興味を持った私は、様々な書籍を読んだ。
社会的な成功者にADHDの人が多いと知るたび、私は舞い上がっていった。いや、あくまでも成功者の中に発達障害だと思わしき人が多いだけで、発達障害の人の中に社会的な成功者が多いとは誰も言ってないが。当時の私は恋する少女の如く盲目だったようだ。自分でも相当浮かれていたと自覚している。
だけど母は、
「薬を飲めば良くなるから。大人になれば飲まなくても大丈夫になるから。」と何度も私に言って聞かせた。確かに病院からの帰りは眠くて普段よりも静かだったが、それを母は落ち込んでいる、と判断したらしい。いや、まあADHDと診断されて喜ぶのもおかしいし、今更明るく振舞っても、母を心配させまいと気遣う健気な娘ぶっているみたいだ。私は元から母を気遣う健気な娘だ。ここでわざわざアピールする必要もあるまい。それに、むしろ落ち込んだとしたら、母の発言が原因だ。

私は自分を可哀そうだとは思わない。高揚感を感じている程だから当然だ。だけど母からは気の毒に思われていると思うと、自分が惨めな存在のように思えてくる。良くも悪くも母の力は偉大だ。薬にすら嫌悪感を抱くようになってくる。
処方されたストラテラという薬は不注意や多動性、衝動性を抑え、落ち着きが出てくるらしい。私が改善したいのは注意欠如多動症という障害であり、この性格ではない。だが落ち着きは性格と密接に関わっているのではないか、と思う。落ち着いている、と言われる人は大人っぽい人や真面目な人は多いが、ユーモア溢れるクラスのムードメーカーは見たことがない。私はどちらかというと後者を目指しているし、実際の性格も後者に近いはずだ。
震える足を抑えてユーモア溢れる自己紹介をして、ようやく得られた友達が離れて行ってしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。私の努力が水の泡だ。そう思いながら薬を飲んだのだ。

凄まじかった。プラセボ効果かもしれないがいつもより頭が冴えるような冷静になるような不思議な気分になった。まるで自分が人生を達観したような気分だ。実際に体験したことはないが。副作用なのか心拍数が100を超えてしまう日もあったが、それ以外は効果抜群だった。

しかし、一つだけ失念していた。薬を飲むことを忘れるのだ。忘れないようにするための薬を飲み忘れるなんて救いようなない気もするが、そこはしっかりした母が毎朝のように言ってくれる。変わり者の父と恋愛脳の妹に囲まれ、もはや頼れるのは母だけだ。残念ながら、私は父に似ているらしいが。

薬を飲み始めて、もう一年が経過したが、友達が減るかもしれないという私の不安は杞憂に終わった。隠すことでもないと私は考えていたため、周りにADHDであることを伝えた。自分から言うことでもなかったかもしれないが、遅刻した理由を下手に誤魔化さなくても良いと思い、結局全て言うことになってしまった。ADHDは知名度が乏しいらしく、中にはDHA?と聞き返してくる子もいた。それはドコサヘキサエン酸である。ともかく、思っていた反応とは違っていたが、友は増えるばかりで、減ることはなかった。本当にいい人ばかりだ。

こうして中学に入って、2年がたった。相変わらず成績は平均より少し上ぐらいだし、人前で話すことも、自分から友達を作ろうとするのも苦手だ。だけど自分のことは好きになっていくばかりだ。ADHDであることは私が悪いわけではないし、当然家族のせいでもない。この障害もまた「私」という人間を形作っている要素の一つだ。ADHDじゃなければ現在とは違った未来もあったのだろうか。もちろんあっただろう。有名な進学校に入れたかもしれない。英語が堪能だったかもしれない。素敵な恋人が何人もいたかもしれない。何人もいるのは良くないかもしれないが、進学校に入ってなくても、英語が堪能じゃなくても、

私は自分が好きだ。私の生き方に満足している。

ADHDは冷え性と同じようなものだ。良いことは特にないけど、それによって人生を狂わせられることもない。つまり、ADHDは冷え性だ。いや、違うけども、ADHDだと診断されて悩んでいる人や苦しんでいる人はそう思ってほしい。

学校という小さな社会で、私は私を生きている。そしてこれからも、私は私を生きていく。











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