16の夜

文字数 1,993文字

厳しい寒さが和らいだかと思えば、その年の桜はすぐに散った。高校2年の新学期が始まった5月。文一が家で勉強をしていると、外から「キュウ、キュウ」と小さな鳴き声が聞こえた。

「イズミ」

文一は窓越しに呼ぶ。両親が、文一の誕生とともに飼いはじめた小型犬だ。一緒に年を取ってもう16歳になるが、文一はあまり、この老犬が好きではない。

イズミはキュウ、と鼻を鳴らしてこちらを見上げる。その情けない声をやめろ、と言いたいが、伝わるものではない。(もっと賢い犬がよかった)と、文一はため息をつく。

スマートフォンを手に取った。犬の鳴き声が気になるということは、集中が途切れたのだろう。

SNSを開く。インターネットの海には、刺激がつまっている。田舎でも、若者は巧みに素顔を隠し、赤裸々に日常の些事を吐露している。例えば、深夜までデートしていたカップルが補導されたとか。

ダイレクトメール欄に通知があった。数日前からやりとりをしてきた、見知らぬ女の子だ。

「フミくんに会ってみたい。学校の人たち、映画とか全然見ないから」

文一はプロフィール写真を拡大する。多少は加工されているだろうが、隠された口元の上で大きな瞳が光る。年齢は近いはずだが、文一は彼女に、級友には感じたことのない魅力を見いだした。

16歳。バイクの免許を取ったばかりだ。彼の世界は、これから広がってゆく。「そうだね」と、文一は返信した。

窓の外で、イズミがまたきゅう、と鳴いた。文一は無視する。いま必要なのは、くたびれた犬ではない。その隣に停めてある、親がほとんど使わない原付バイクだ。



両親が寝静まってから、ベッドを抜け出した。女の子と会うのだ。昼間の方が気安くはあるが、男女の逢い引きは夜に限ると、ロマンチストの文一のなかで相場が決まっている。

階段を降り、玄関のキーケースから原付の鍵を取り出す。庭に出る。目の前で静かにたたずむ原付バイクが、有能な執事のように見えた。ところがーー

「わん」

その隣で、イズミが吠えはじめた。文一は身をすくませる。飼い主も分からないか、このバカ。内心で罵りながら、「しっ」となだめた。

「わん、わん」

イズミは吠えやまない。闇にこだまする。両親が起きたら一巻の終わりだ。文一は焦る。背中から汗が吹き出る。シャワーを入念に浴びたのに。

「静かにしろって。たのむから」

祈り、同時に考えを巡らせる。これ以上、この犬を吠えさせておくわけにはいかない。



ぶおお。

風を切って原付バイクが夜の県道を走る。海の向こうに、月は明るい。ハンドルを握る文一は、「盗んだバイクで走り出す」と口ずさむ。昔の曲だ。

バイクの前かごに、小さな犬がいる。イズミだ。白くなったひげを風にそよがせて、ご満悦なのか、もう鳴き声ひとつたてない。慌てて載せてきてしまった。はて。格好がつかない。

文一は、隣の市の駅前ロータリーにバイクを停めた。待ち合わせの時間ギリギリ。ヘルメットをとり、乱れた髪型を直す。イズミは、嘘みたいに静かにしている。

女の子は来るのだろうか。文一はふと思った。

日付も変わりそうだ。このあたりは比較的明るいとはいえ、女の子が一人で出歩くのは少々危ない。見知らぬ自分と会うことを躊躇しても不思議はない。

文一は、コンビニに近寄る。相手を怖がらせるのは避けたかった。

16歳の少年少女には、夜はまだ神秘だ。大手を振っては出歩けない。ただ虫のように、こそこそ明かりを目指す。近づき、あと一歩のところで息を詰めて、ひとにぎりの「夜」を堪能する。



春の夜は暖かい。いくらでも待てる気がするが、実際にいくらでも待てるわけではない。文一が「ついたよ」とメッセージを送る。

近くでスマートフォンの通知音が聞こえた。文一が振り向くと、早足で立ち去ろうとする小柄なパーカー姿があった。

「まって」

言おうとするが、声が出ない。人違いかもしれない。そのとき文一は、初対面の女の子に語るべき言葉を、なにも持っていないことに気づいた。

足音が遠退く。揺れるシルエットが、暗がりへと溶けてゆく。

「わん」

場違いな声がした。イズミだ。この大事なときに。文一は舌打ちしたい気持ちをこらえ、原付のほうに駆け寄る。

「おい、静かにーー」

「わん、わん」

前かごから出して、小さな体を抱きかかえる。あぁ。文一はもう、逢い引きは諦めていた。俺はバカだったんだな。イズミもバカだが、こんな夜に女の子を呼び出すなんて、俺もバカだったんだな。仕方ないーー。

「犬……?」

背中ごしに女の声がした。びっくりして振り返ると、小柄なパーカー姿が目の前にいた。

「わんちゃん、連れてきたの」

彼女はパーカーのフードを下ろす。写真と同じ、大きな瞳。加工なんかじゃなかった。街灯の明かりをスポットライトみたいに浴びて、彼女は続ける。

「かわいいね。怖がって損したわ」

わん、とイズミが吠える。文一は初対面の少女に、何と返事をすればよいのか分からない。
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