0 斎藤栞の独白

文字数 3,598文字

 わたしはやっぱり先生のことが好きなのだろう。

 年が明けて間もない寒い冬の日、とある繁華街の小さな画廊で先生と出会った。
 元は喫茶店だったらしく、古めかしい格子状の木枠にガラスが嵌められた扉、通りに面した磨りガラスの窓、燻んだ濃茶のビニールの庇、こじんまりとして一目でそれと分からない。
 先生は悴む手を息で温めながら、入り口の扉のガラスをせっせと水拭きしていたのである。
 わたしに気づいた先生の顔、一瞬だけギョッとしたのは今でもよく覚えている。

 当時のわたしは地味ながらも少しマセた十七歳の高校生。
 自分で描くのも好きだが「大人の絵」を観るのも好きで、美術展や画廊を見つけては学校の帰りによく冷やかしをしていた。
 要するに自分の手が届く範囲で少しばかり背伸びをしていたのである。
 ちなみに大人の絵というのは漫画以上という意味でそっちの意味ではない……はず。

「あの、お邪魔して大丈夫、ですか?」
「あっ、……… ああ、えーっと、ごゆっくり、どうぞ」

 たどたどしい言葉の後、僅かに照れ笑いを浮かべながらわたしを通した。
 先生は水拭きに戻ると、バケツの水で雑巾を濯ぎ、薄っすら赤く染まった手で硬く絞る。
 バケツの中身は間違いなく冷水。はあっと白い息、ぐすぐすと鼻を啜る音。
 間違いなくわたしより歳上だが、やや幼さを残す横顔は同年代の男性に思えた。
 そして、特に印象的だったのが男性にしては細く長い指。

 拭き掃除は元々予定になかったのだろう、分厚いトレーナーのプリントには卸し立てと思しき艶があり、汚していい格好には見えない。強引に腕捲りをして冷水に手を突っ込んでいる。
 後で聞いた話だが、その日は個展二日目で平日のため訪問客が少なく、独り暇を持て余した先生はつい扉の薄汚れが気になって拭き掃除を始めてしまったそうだ。
 ガス給湯器は後で元栓の始末が気になるからと使う気になれなかったとのこと。
 変なところが細やかなのが実に先生らしい。

 先生がギョッとした理由は画廊に入ってすぐ分かった。
 飾られていた作品の中で一際目立つ作品が「裸婦像」だったからである。
 分類は日本画で寸法はF六〇号。題は「エケベリア・ラウィ」。

 アロエ・フェロックスやタマツヅリなど多肉植物に囲まれ、幾何学的パターンの美しいロゼットを描く巨大なエケベリア・ラウィ。
 白い粉に包まれ、柔組織にたっぷり水分を含んだ幅広肉厚の葉を持つ、まるで花のような外観の多肉植物。本来は手のひらサイズの小柄な品種だ。
 そのエケベリア・ラウィの前に佇むのは三様の一糸纏わぬ女達である。
 脚を横に流した坐りポーズがセンター、立て膝と立ちポーズが後ろ左右に並び、春の麗らかな陽気のような白と淡い薄緑の階調で描かれている。
 その姿はまるでエケベリア・ラウィから産まれた妖精のよう。
 驚いたのは、その裸婦が何の省略もなく全てを描き込まれていたことだ。おかげで幻想的な絵面の中に「人間」という生き物のある種の生々しさが密やかに織り込まれている。

「全てを描く」ということは全てをなぞって全てを込めるということである。
 スーパーリアリズムと呼ばれる絵画ほど緻密に描かれたものではないが、それでも膨大な時間が掛けられたものだと分かる。
 絵というものは画家が絵の主題と向き合った時間をも作品に含まれるのだ。


 その時、わたしは「エケベリア・ラウィ」に強い衝撃を受けた。
 言い様のない、得体の知れない複雑な感情。
 擦られた燐寸がポッと焔をあげる瞬間のように、瞬く間にわたしの中を駆け巡った。

「そこにあるノート、記帳してくれると、嬉しいな」

 水拭きを終えた先生が声を掛ける。わたしは我に返った。

「どうか、した?」
「あ………」

 訝しげに先生がもう一度声を掛ける。
 わたしはまだ茫然とした状態から抜け出せず、中々言葉を返せない。

「あ、あの、えっとこの絵……」
「ああ、これ? 僕の一番の絵。賞とか取れなかったんだけどね」

 その言葉を聞いて、初めてこの個展が誰のものか理解した。
 先生の方に向くと、わたしには一目もくれず絵の方を見ている。
 恐らくその態度はわたしが高校生で女だからだろう。

「僕がその、画業を本気で目指す気になった、最初の絵。売り物じゃないんだけどね。えっとその……ぬ、ヌ……」

 先生は照れながら言う。その口調から必死に言葉を選んでいるのが分かる。
 まだわたしとは視線を合わさない。
 目尻に皺を寄せたその横顔は決して端正と呼べるほど整っていないが、どこか無邪気な子どものようで、なんと言うかその……可愛いい。

「ヌード?」
「うん、それ。初めてモデルを頼んで……って、あ、ちょっとごめん」

 先生はそこまで言って、手にバケツと雑巾を持ったままなことに気がついた。
 わたしの視線は、まだ赤みが治らない先生の繊細な五指に移る。
 何故か高鳴る胸。どどどどうした、わたし。

「まあ、ゆっくりしていってよ」

 先生は足早に画廊奥の給湯室らしき部屋に向かう。
 わたしはその後ろ姿を目で追い、「ふうっ」と小さく息を吐いた。

 モデルを頼む——— つまり、先生は一人の女性と長い時間を掛けて向き合い、子細を観察し、頭の中で咀嚼して描いたということだ。
 その嫋やかな指を女の全てに這わせるかのように。

 すらりと伸びる長い四肢にぎゅっと絞り込まれた胴周り。
 何より美しいのは椀のように見事なアールを描く豊かな乳房。
 下腹部の奥で静かに主張する性の記号。
 明らかに成熟した大人のそれだが、官能とはやや趣きが異なる。

 得体の知れない感情。それは羨望、そして嫉妬。
 三人の妖精の幽玄な魅力に対する羨望は分かる。何故に嫉妬なのかが分からない。
 わたしにはなんとなく始まった彼氏も居て恋愛経験がなかった訳ではない。だが、二十七歳の今のわたしでもよく分からないのに、十七歳の小娘に分かるはずもなく……
 混乱がピークに達した頃、背後で画廊の扉が開く音がする。

「ちぃーすっ、国見居るかぁ? 差し入れ買ってきたぞーっ」
「国見くんの好きな焼き芋だよーっ、なんとバターも買ってきたっ」

 どうやら先生のお友達らしい。給湯室の中から先生の呆れ声が聞こえる。

「ちょっとお前ら、自分達で食いたいだけだろう?」

 どうにも混乱が収まらず焦るわたしは、新たな客の訪問に乗じてこの場を逃げ出すことにした。記帳はもちろんしない。
 結局、先生がわたしの顔をまともに見たのは最初にわたしに気づいた時だけである。
 いくら何でもシャイ過ぎないか先生。

 画廊に踏み入れた時には気がつかなかったが、扉の横にひっそりと大型の鉢植えがあった。
 鮮烈なオレンジと濃い青の南国の鳥のような花が特徴の観葉植物「ストレリチア」。
 越冬のため屋内に入れられていたのだろう、花は咲いていない。
 ストレリチアの花言葉は「気取った恋」「恋する伊達者」とアクティブな恋に関するものばかりだが、あいにく冬の間は閉店休業である。


 思えば、冬のストレリチアはわたしそのものと言えたかも知れない。
 なにしろ、それと確信が持てないまま十年が過ぎたのだから。



・・・



 その後わたしは無謀にも美大を目指すことを決め、春から週末に美大受験専門のコースを擁する予備校へ通うことになった。その予備校で偶然にも講師を請け負っていた先生と再会する。
 わたしが先生をずっと「先生」と呼ぶのはこの時からだ。
 美大受験を決めた直後に彼氏と別れて大幅イメチェンを敢行、セミロングからショートボブになったわたしを見て先生は「個展に立ち寄ったわたし」と気づかなかった。
 以来、わたしは煮え切らない想いを抱えたまま、薄く長い付き合いを先生と続けることになる。


 はあ。


 今年の春、とうとう地元に帰る決断をした先生に無理を言ってわたしを描いて貰った。時間がない中で簡易なスケッチに留まったが、あの白い妖精達と同じフルヌードだ。
 今さら大袈裟に裸を恥ずかしがる歳でもないが、それでもわたしは頑張った。

 だが、これで終わりのはずだったのに、日に日に先生への想いが強くなっていく。

 先生こと「国見俊彦」。わたしより八つ歳上の三十五歳。十年前なら二十五歳だ。
 やんわりとわたしを子ども扱いする先生、ムキになって背伸びするわたし。
 わたしは決して待つだけの女ではないし、チャンスがなかったと言えば嘘になる。婚約破棄されて傷付いた先生に付け入ることも、女の武器で既成事実を作ることもできたはずだ。
 その都度で踏みとどまったのは偏に巡り合わせの所為にしてしまいたいが、わたしの思い切りの悪さも脚を引っ張ったように思う。

 ストレリチアの英語の花言葉は「magnificence(壮麗)」「faithfulness(誠実)」。
 わたしは壮麗という言葉が相応しいほど綺麗に生きている女ではない。

 ただ、いつだって先生とは誠実でありたかったのだ。
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