君の名は。

文字数 3,976文字

 「水着を買いに行きましょう」
「ぶっ!?」

 白咲の唐突な提案に、俺はサイダーを吹き出した。太陽の照りつけるアスファルトに、ぼとぼとと砂糖水の跡が出来上がる。涎のように顎をサイダーで濡らしながら、俺は道路の真ん中ではたと立ち止まった。白咲がジロリと俺を振り返った。

「もう! その服高かったんだから!」
「ごめんなさい……いや違う! み、水着!?」
「そうよ」
「だ……誰の?」
「『私』のに決まってるじゃない。ねえ、ワンピースとビキニ、どっちが似合うと思う?」

 何故か不敵な笑みを浮かべながら、白咲がくるりとその場で回って見せた。遠心力で宙に舞う髪が華やかなシャンプーの匂いを解き放ち、俺の鼻をくすぐった。俺は思わず、砂浜で透き通った白い肌を小麦色に焦がす、白咲の水着姿を妄想した。側にそびえる楠から、アブラゼミの鳴き声がシャワーのように止め処なく降り注いだ。


 季節はもう、夏になっていた。
 俺が女の子の体になってから、すでに三ヶ月以上が経過している。相変わらず俺の正体は掴めないまま、そして俺の家にいる謎の男の正体も分からないまま、時間だけが過ぎていった。
 白咲なんかには、『貴女さえいなければ世界は平穏に廻っている』とまで言われる始末だ。確かに黒田でもない、白咲でもない俺の存在だけが、この世界で浮いた存在だった。

 それでも俺は、特に焦ったりすることもなかった。考えてみれば、今の俺は冴えない男子高校生であることから解き放たれ、好きな子の家に転がりこんで悠々自適な生活を送っている。
 宿題や洗濯物干しなどあるものの、日頃のしがらみや重荷から解放され、まさに人生の夏休みをもらったような気分だった。体が女の子であることにも、大分慣れてきた……はずだった。

 俺はまだ高鳴る心臓の音を聞かれないように、妄想を追い払い精一杯取り繕った。

「そ……そうだよな、俺はてっきり……」
「じゃあ、行きましょ!」
「あ……おい! 待てって……」

 白咲が天真爛漫な笑顔で駆け出そうとした、その時だった。

「ねえ、そこのお姉ちゃん達」
「え?」

 突然、後ろから声をかけられる。振り返ってみると、如何にもヤンチャしてそうな若い男達が、ニヤニヤと薄っぺらい笑みを浮かべながらこちらに歩いてきた。全く知らない、顔も見たことがないような連中だ。首筋にタトゥーの入った男が、俺の目と鼻の先にまで顔を近づけていった。

「姉ちゃん達、ナニ暇してんの? なら俺らと遊ばねえ?」
「え……あ……」

 男は口からアルコールの匂いを振りまきながら白い歯をのぞかせた。俺はというと、あまりの突然の出来事に物の見事に固まって動けなくなってしまった。

 ナンパだ。
 『この体』で歩いていると、どうしても男達の好奇な目線に晒される。今までも何回か声をかけられたことはあったが、こうして四、五人で悪そうな奴らに囲まれたのは初めてだった。俺はタトゥーの男を見上げた。男の体の時には感じなかったが、今の俺とは体の大きさがやはり全然違う。この身長差が怖い。

「すみません。私達、急いでますので」

 すると俺の背後から、白咲が『外出用モード』の声を出しながら丁寧に頭を下げた。
 こういう時の彼女は普段とは全く違う顔を見せる。まるで『自分は清楚な生徒会長でお嬢様』とでも言いたげな……いや実際そうなのだが……そんな素振りで、俺や雅樹を扱き使う暴君としての顔は一切出てこない。いつか彼女の本性を全校生徒の前で発表したい、というのが最近の俺の密かな願いだった。

 とはいえ今は、そんな暴君に助けられているのも事実だ。きっと彼女は、こうした経験を何度もしているのだろう。俺が心の中でホッと胸を撫で下ろしていると、彼女は慣れたように素早く、俺と男の間にその体を割り込ませた。また別の男が今度は白咲に詰め寄った。

「いいじゃんかよ。五分だけ。俺らすぐそこでバーベキューやってんだよ」
「…………」

 ……本当かどうか分かったもんじゃない。白咲は何も言わず、俺の手を引いて踵を返した。

「おい! シカトしてんじゃねえぞ」
「!」

 白咲の態度を見て、男は急に豹変しドスの利いた声を上げた。哀しいかな、男の時ですら喧嘩などしたこともなかった俺はその声を聞いただけで震え上がった。白咲は臆することなく、俺の手をぎゅっと握り返した。一触即発の雰囲気に、空気がピリピリと揺れる。俺は恐る恐る後ろを振り返った。すると……。

「おい、やめとけ。よく見たらソイツ、『白咲財閥』のお嬢様だ」
「え?」

 仲間内の一人が、白咲に絡もうとした男の肩を掴んで制した。首をかしげたのは、俺も同じだった。

「厄介事に巻き込まれるのはこっちだ。下手したら消されんぞ」
「消さ……!?」

 意外にも、血気盛んだったタトゥーの男は、彼の言うことを素直に聞いて引き下がった。止めに入った男は、きっとリーダー格の男だったのだろう。俺は目を丸くして、横にいた白咲の顔を覗き込んだ。白咲は唇をぎゅっと一文字に結んだまま、じっと前を見据えていた。

「行こうぜ。触らぬ神に祟りなし、だ」
「…………!」

 リーダー格の男の号令で、俺達に一瞥をくれると、男達はそそくさと角の向こうへと消えていった。俺はまだ、白咲を見つめたままだった。先ほどの男の言葉が、まだ頭の中をぐるぐると泳いでいた。

「…………」
「……大丈夫? 『黒田』君」
 白咲は至って平静に俺を見つめ返した。
「……こ」
「こ?」
「怖かった……ァ!」

 俺は情けなくもその場に崩れ落ちた。いつの間にか、目から次々と涙が滲んできた。男の時ですら、あんな怖い連中に絡まれたことは一回もなかったのに。白咲が呆れた顔で屈みこんで俺の顔をハンカチで拭いてくれた。

「ほら! 泣かないの! 男の子でしょ!?」
「女です……!」
 俺はここぞとばかりにたわわな胸を強調した。
「全く……。都合のいい体なんだから」
誰かに聞かれたら勘違いされそうな台詞で、白咲は俺を詰りながらも引っ張りあげてくれた。

「なんだよあいつら……俺、囲まれた時一瞬変なことされちまうのかと……!」
「平気よ。『白咲家』の名が守ってくれるもの」
「…………」
 白咲は何故か皮肉を込めたような口調でそう呟いた。俺はもう一度首をかしげた。

「『白咲家』って……あいつらがさっき言ってたのって……」
「ああ。『財閥』のこと?」
「……本当なのか?」
「ええ」

 彼女はあっけらかんとそう答えた。だがその顔は、あまり嬉しそうではないように俺の目には映った。
「でも……お前の家普通の一軒家じゃん。こう言っちゃ何だけど、お父さんとお母さんだって普通だし……」
「あの二人とは、血が繋がっていないの。『財閥』って言うのは、本家の話。私は家を出たから……」
「!」

 俺は話が飲み込めず、その場に固まった。『財閥』とか『本家』とか、庶民には馴染みのない言葉ばかりが耳の中に飛び込んできて、正直全くイメージも湧かない。白咲が淡々と続けた。

「……それでも、私が白咲の名を受け継いでいるのは間違いない。その名のおかげで、友達にもお金にも、今も何一つ不自由していないわ。高校を卒業したら、決められた大学に進学。その後入る会社も役職も、数年単位で決められているの」
「そ……」

 俺は何かいいかけて、言葉を飲み込んだ。

「そうなんだ、よかったね」
「そりゃすごい」
「それって、一体誰が決めてるの?」
「それで、白咲は納得してるのか?」

 ……だが、最早彼女に何て言葉をかけていいのか、俺には分からなかった。白咲の表情は変わらなかった。だけどそれは『いつも』の白咲の表情ではない……外で、あるいは学校で見せる、『外出用モード』の時の白咲だった。

「…………」
「結婚する相手も……もうすでに決まってるわ」
「!!」

 アブラゼミのシャワーが、いつの間にか止まっていた。あんなに青かった空は少しづつ橙に染まり、南の方から季節外れの涼しげな風が吹き、俺達の隙間を撫でて行った。それでも白咲の表情は変わらなかった。

「……家を出たと言っても、【名前】を捨てることはできない。捨てたとことすら、ずっと憑いて廻るのよ。私が『私』である限りは……ね」

 そう言って彼女は目を伏せると、呆然とする俺の手をもう一度ぎゅっと握りしめた。






 「おい待てよ! 話が違うぞ!」
「動くな! 『こぼれる』ッ!」
「何が!?」

 更衣室で目隠しをされたまま、俺は背後から白咲に、豊かに膨らんだ胸部を押さえつけられた。

「お前の水着じゃないのかよ!」
「だから『私』のって言ってるでしょ。貴女の体は、『私』なんだから。大人しくなさい」
「……!」

 不意に耳元に息を吹きかけられ、俺はビクッと体を跳ねさせた。着替えが終わると、目隠しを外された俺の前に、何ともけしからん黒のビキニを纏った俺が鏡の中に立っていた。万が一俺の体が女じゃなかったら、ただのど変態だ。あまりに刺激的な姿に、俺は思わず目をそらした。

「や、やだよ! こんなん来て外出るなんて。は、恥ずかしい……!」
「今更何言ってんの。今日だってスカート、ノリノリで履いてたじゃない」
「露出度が違うって! 俺もう、海パンでいいわ。家にあったから、ちょっと俺に借りてくる」
「イヤよ! それじゃ私が露出狂の変態じゃない!」

 ……水着を買いにショップにたどり着いた頃には、彼女はいつもの調子を取り戻していた。嬉々として……俺の目にはそう映っている……俺をぶん殴る白咲を見て、俺は内心ホッと胸を撫で下ろした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み