大森貝塚

文字数 6,116文字

―大森貝塚―

2021/03/02 12:05
2021/03/02 12:16

 太田神社への参拝を終えて、郷土の神仏に対する挨拶を一通り済ませた私達は、いよいよ埼玉方面の列車に乗るため、縄紋時代の大森貝塚で有名な大森駅に向かいました。その道中で、小中学校の同級生であり、私立高校の地学部長を務めた「あっちゃん」こと亜紀(あき)ちゃんなど、何人かの友達とも会う事ができました。でも…。

2021/03/02 12:18
「はぁ…こんなに登り坂が長いと、さすがの私でも疲れるわね…」
2021/03/02 12:18

「どうして大森駅って、こんな崖みたいな所にあるんだろう? 駅の中も、高低差のせいで階段が多いよね」

2021/03/02 12:19

「当時は現在よりも海面上昇していたから、人が住んで貝塚集落を築くには、これ(くらい)の高度が必要だったんだよ。それに、この辺りの地形は…」

2021/03/02 12:21
「やはりこういう時は、空飛ぶ(ほうき)に乗るのが一番ですね~」
2021/03/02 12:21
 列車に乗るまでの間、大森貝塚の事を少し勉強しようと思います。大森貝塚を学ぶ教科書としては、品川歴史館などが発行している展示図録が役に立ちますよ…と、あっくんあっちゃんが教えてくれました。名前が似ていて少しややこしいですが、顯君が「あっくん」で亜紀ちゃんが「あっちゃん」です。
2021/03/02 12:22
2021/03/02 12:23

 平城京に遷都して奈良時代を開いた元明(げんめい)女皇が、713(和銅六)年に編纂を命じた『風土記』は、貝塚の存在を記録した世界最古の文献と言われ、貝塚の成因に関して、当時は巨人伝説が語られていました。それから時は過ぎ1877(明治十)年、米国から東京大学に招かれていた動物学者エドワード(Edward) モース(Morse)が、車窓から見付けた大森貝塚を発掘し、ここから我が国の考古学が始まります。この列車は1872(明治五)年に開通した、日本最初の鉄道である東海道本線(新橋~横浜)です。まさに、我が国の近代化を象徴する出来事でした。

2021/03/02 12:26

「そして今、当時と同じルートを走行しているのが、私達が乗ろうとしている京浜東北線よ。今でも大森駅の少し北から西の車窓を覗くと、百五十年前のモース博士と同じように、大森貝塚を『発見』できるわ…先達の追体験ね」

2021/03/02 12:28
 大森貝塚は約3000年前、縄紋時代後期・晩期の遺跡で、モース博士は主に後期の地層を発掘しました。出土した遺物は、日本史上最後の太政大臣である三条(さんじょう)実美(さねとみ)への申請を経て、明治天皇も御覧になられましたが、その際に「考古学」という日本語が初めて用いられました。1879(明治十二)年、日本初の大学紀要・発掘調査報告書である『大森介墟古物編』が刊行され、ここで「縄紋」という用語が生まれます。この文化を遺した人種民族(原日本人)に関して、多くの来日学者はアイヌ人だと考えましたが、モースはアイヌ以前の先住民族「プレアイヌ」説を唱えていました。1885(明治十八)年には、生態民俗学の巨星として名を残す南方(みなかた)熊楠(くまぐす)も資料採集に訪れました。更に1908(明治四十一)年には、品川に住んでいた作家の江見(えみ) 水蔭(すいいん) 忠功(ただかつ)が発掘し、冒険小説に考古学を取り入れた「考古小説」を著しました。江見水蔭はほかにも、豊島区池袋の「氷川神社裏貝塚」(大森貝塚と同じ縄紋後晩期)などを調査していますが、東京北方に数多く存在する氷川神社に関しては、私達も埼玉で学ぶ事になります。
2021/03/02 12:35

「さっき言い忘れたけど、列車から大森貝塚を視認する時は、史跡の記念碑が二つ建っているから、どちらも見逃さないようにね」

2021/03/02 12:36

 あっちゃんの言うように、大森貝塚は史跡・記念碑が2箇所に分裂している事でも有名です。大森貝塚は二つあり、ここで仮に名前を付けると、大森町新井宿村の「」(南貝塚)と、品川区大井町の「」とに分けられます。南の貝塚と推定される大森貝墟は、モースが訪れた時には既に畑の耕作で壊れており、遺物の出土を伴う発掘調査は、北の大井貝塚で行われて来ました。モース没後の1941(昭和十六)年には、慶応大学による発掘調査が行われましたが、そこで出土した「骨」が、とある論争に関わっています。それは…。

2021/03/02 12:40
 「大森貝塚は大田区か、品川区か?」を争う「領土紛争」「百年戦争」が繰り広げられたらしい。
2021/03/02 12:42
2021/03/02 12:43

「そうそう…大森貝塚から出土した遺物に関して、面白い話があるのよ! そもそも『貝塚』って、どんな場所だと習ったかしら?」

2021/03/02 12:44
「えっと…食べ終わった物とか道具を捨てる場所、だよね?」
2021/03/02 12:45

「ええ、そうよね。貝類を食べて貝殻を捨てたから、貝塚よね。魚類を食べたら魚の骨を、鳥類を食べれば鳥の骨を、哺乳類を食べれば獣の骨を捨てるわよね。要らなくなった土器・石器・骨角器などを捨てる事もあるわね。じゃあ、貝塚から犬の骨が出土するのは何故?」

2021/03/02 12:46
「太古の人達、縄文人・原日本人は、犬さんも食べていたのかな…?」
2021/03/02 12:46
「そうかも知れないわね…じゃあ、ここに人骨が埋まっていたら?」
2021/03/02 12:48
「私達の祖先は、人間を食べt…え、あれ…!?」
2021/03/02 12:48

「ふふっ…これ、実話よ。大森貝塚を発掘したら、破砕された人骨が見付かったの。だからモース博士は、報告書出版前の東京生物学会で、縄紋時代には食人の文化があった…と発表したのよ。でも安心しなさい、この話には続きがあるわ」

2021/03/02 12:49
 モースが発掘した人骨は、何らかの理由で砕けてしまっていたので、これを見た博士は、人が人を食べていたのではないか…と考えたようです。しかしその後、慶応大学が発掘した人骨や犬の骨は、大切に埋葬されている事が分かりました。つまり…大森貝塚は単なる廃棄物処分場ではなく、墓地としての性格もあったという事です。犬も食用ではなく、縄文人に協力してくれる猟犬であったと推定され、だからこそ人間の仲間として、人の遺骨と同じく丁寧に葬られていたんですね。そう考えると、食糧や道具に対しても、より豊かな見方を想像できます。
2021/03/02 12:50

「食べ終わった食糧や、使い終わった道具を『御馳走様でした、ありがとう』と感謝して、貝塚に埋める。亡くなった村人や、お世話になった猟犬を、お墓に葬る…つまり貝塚とは、万物に生命の尊厳を見出し、現世での勤めを終えた存在を、神の世界に送り、復活を祈る、宗教的な葬送儀礼の場でもあった…と考える事ができますね」

2021/03/02 12:51
 モース博士は(生物の創造と死後の救済を説く)キリスト教に反発し、動物学教授として進化論の普及に努めた科学者でしたが、博士によって日本考古学が創始された結果、縄紋時代の人々は私達に劣らない、恵みに感謝する豊かな信仰文化を持っていた事が明らかになりつつあります。メソポタミアのネアンデルタール人が障碍者と共生し、来世を信じて死者を手厚く葬った「シャニダールの献花」を思い出しますね。この数百万・数十万年で人類は、身体的には進化したのかも知れませんが、果たして精神的にどこまで進歩したのか…後世の審判が気になりますね。
2021/03/02 12:53
2021/03/02 12:53
 そんな事を考えさせる大森貝塚は、こうした生活に関する遺物が多く、台地上の集落に築かれた「村貝塚」に分類されます。より海に近い低地では、生活遺物をほとんど残さず、貝を交易品として加工に専念する「浜貝塚」が形成されるそうです。1984(昭和五十九)年、今度は品川区が大井貝塚を発掘調査し、モースが発見した後期の地層だけでなく、晩期の製塩土器や、更に早期・前期・中期の土器が見付かり、黒曜石鏃(流紋岩などの石英ガラスを先端に用いた矢)も出土しました。八幡大菩薩を崇敬した那須氏に象徴される、弓術を中心とする武士道も、その起源は縄紋時代にまで遡るようです。
2021/03/02 12:56
2021/03/02 12:59
 モースが我が国に及ぼした影響として、彼が日本に「布教」した生物進化説があります。進化論とキリスト教の世界観が対立したのは有名ですが、これを生物から社会へと適用した事例として、社会進化主義(ダーウィニズム)天賦人権論の問題を挙げる事ができます。要約すると「優勝劣敗・適者生存こそが人を含む生物の法則であり、環境とその変化に適応できない者は淘汰される」と考えるのが進化主義で、それに対して「全ての人間(あるいは動植物などの生命)は自由・平等・幸福に生きる権利を(神によって)与えられている」と信ずるのが自然法・人権思想であり、両者はしばしば摩擦します。東京大学の加藤弘之総長は、もともと天賦人権説を主唱していましたが、東大に招いたモース教授の活躍を絶讃した後、社会進化論に転向したのは象徴的な出来事で、明治中期以降、社会進化論が普及しました。極端な社会進化主義は優生学などと呼ばれ、人種・民族・階級・思想、あるいは障碍の有無で人間を選別する政治運動も発生しました。現代社会では、そうした差別は基本的に禁じられていますが、親の財産や本人の実力に由来する不平等・経済格差を、どこまで「是正」すべきかは意見が分かれますね。
2021/03/02 13:01

「例えば…米国の保守右翼である福音主義派プロテスタント教会は、進化論や人工妊娠中絶に反対する一方で、政治・経済的には弱肉強食を望む傾向があり、富国強兵を掲げる『強い大統領』を支持して来ました。それが近年の選挙などでも見られた、米国の社会現象ですね」

2021/03/02 13:03
 進化と人権を巡る議論は、科学と宗教だけでなく、自由と平等、生存競争と相互扶助、小さな政府と大きな政府、自己責任と社会福祉、多様性と普遍性、そして自助と公助など、色々な事を考えさせられます。そのバランスをどう均衡させるかは、今後も政治世論で摸索され続けるでしょう。あなたは、どんな社会が幸せだと思う?
2021/03/02 13:04
「聖さん、そろそろ時間ですよ」
2021/03/02 13:04
「あら、そうですね。では皆様、参りましょうか」
2021/03/02 13:05
 情報科の学生である無敎(むきょう)様に促され、私達は崖下の駅に降りました。大森貝塚を研究した科学者としては、ほかにドイツの考古学者ハインリッヒ(Heinrich) シーボルト(Siebold)、地質学者エドムンド(Edmund) ナウマン(Naumann)イングランドの地震学者ジョン(John) ミルン(Milne)がおり、いずれも縄文人アイヌ説を唱えました。モース博士は陶器を始めとする我が国の美術・民俗文化を愛し、米国の哲学者フェノロサ(Fenollosa)の来日を実現させるなど、日本学者としても活躍されました。
2021/03/02 13:10
2021/03/02 13:35

「さて…仁さんも気にしているようだし、そろそろ大森の地形を説明しておこうか。そもそも、関東平野は…」

2021/03/02 13:13
 ナウマンが「江戸平原」と呼んだ関東平野は、我が国で最も広い平野ですが、同じ平野の中にも地形の凹凸があり、更新世氷河から作用を受けた洪積台地と、完新世河川によって堆積した沖積低地とに分けられます。洪積台地は「ノアの洪水で積もった」という意味で、それだけ多くの大陸氷床が凝固・融解を繰り返していた大氷河時代を想像させます。そして、江戸東京で「山手」とも呼ばれている台地が武蔵野台地です。武蔵野台地はその名の通り、かつて「武蔵国」と呼ばれた東京・埼玉・神奈川に広がり、入間川荒川多摩川東京湾に囲まれています。千葉時代の後、古東京湾が縮退した更新世後期に形成された武蔵野台地は、造られた年代に応じて、幾つかの「面」や「台」に分類され、古いほうから順に下末吉面武蔵野面立川面などと呼ばれます。
2021/03/02 13:14
2021/03/02 13:15
 この年表を見ると、私達が今いる大森は、武蔵野の中でも古い時期の、約12万年前頃に出来た「下末吉面」の「荏原台」という台地である事が分かります。荏原台地は、世田谷の西部から南目黒を通って大森・池上まで続いています。かつては新宿・渋谷・北沢などの「淀橋台」と繋がった海底であり、形成年代が古いので、多くの火山灰が堆積し、また長期間の浸蝕作用で削られたので、起伏・坂道が多いという特徴があります。
2021/03/02 13:16
2021/03/02 13:20
 一方、呑川より南西の久が原は「武蔵野面」に、その西隣の田園調布は下末吉面に分類されます。東京の沖積低地は、山手台地に対して「下町低地」と呼ばれます。こうした地形から、郷土の自然環境を学ぶ事ができます。
2021/03/02 13:22
2021/03/02 13:22
 これは、郷土史と自分史を組み合わせた年表です。縄紋時代は今よりも地球温暖化が進んでおり、大陸氷床が液体の水に状態変化して海洋に流れ込み、海水自体も温度が上がると熱膨張するので、海水面が上昇し、呑川流域の下町低地は「奥東京湾」という海に水没していました。そこで当時の人々・原日本人は、高くて安全な荏原台地の上に集落を築き、貝塚文化を発展させました。大森貝塚は、荏原台地の中でも特に高低差が大きい「崖線」であり、池上本門寺は、荏原台の南端に当たります。更に、日本列島の南方には日本海流・黒潮暖流が流れているので、大気だけでなく海洋からも、熱が運ばれ続けます。その結果、黒潮が流入する奥東京湾に面した関東平野の台地では、温暖な気候環境に適応した、常緑広葉樹を中心とする照葉樹林が生い茂る事になったのです。
2021/03/02 13:25

「池上本門寺などに常緑樹が遺されているのも、大森貝塚が崖の上にあるのも、その地下に火山灰層が見られたのも…全ては郷土の台地に眠っている、自然の歴史に答えがあったんだね^^」

2021/03/02 13:25
 本章で私達は、都道421号線「池上通り」周辺の池上本門寺・堤方権現台古墳・太田神社・大森貝塚などを散策し、身近な地域の自然・文化・社会を学び、それが世界的な課題とも関わって来た事を考える、簡易的な郷土研究を試みました。もちろん、事例はほかにもたくさんあります。あなたが好きな地域の事も、私に教えてね。
2021/03/02 13:26

「郷土と言われても『いや、うちの地元には何も無いよ』と思われるかも知れませんが、例えば水俣病の被害を受難した不知火海では、人々の精神的復興を摸索する中で、それまで『何も無い』と思っていた郷土にあるものを認識する『地元学』が唱えられ、照葉樹林に覆われた神社、キリシタンと浄土真宗が共生する風土を再発見し、地域の絆を結い直す『持続可能な発展』が探究されています」

2021/03/02 13:27
 思ったよりも(かなり)長くなりましたが、これにて第二章は一区切りです。この後は、列車の車窓から関東平野を眺めながら、埼玉見沼の舞台である川口・浦和・大宮に向かおうと思います。
2021/03/02 13:27
2021/03/02 13:37
2021/03/02 13:28
 以前、地理学科の合宿で東海道の尾張瀬戸を巡検し、生物地理学などの自然誌を研究した。宿泊した旅館は、瀬戸川北岸に鎮座する深川神社の境内に立地し、奈良時代771(宝亀二)年に創建された当社は、天照大御神の御子であられる八神(五男三女)を産土神に祀っている。尾張瀬戸の大部分を構成する、花崗岩が風化・堆積した瀬戸層群は、陶磁器の生産に用いる素材が豊富に含まれ、その地質が瀬戸焼(瀬戸物)の文化を育み、考古学により発掘調査されている。猿投山(さなげやま)南西・矢田川(やだがわ)流域の丘陵では、地質が土壌・植生に影響を与え、元来は照葉樹林に分類されるが、陶土を焼くための薪炭として伐採・植栽された結果、落葉広葉樹が勢力を維持し、里山の多様な生態系の保全が試みられている。生物の分布・動態は、地形・土壌・水文・気候など景観と関わる。
2021/03/02 13:32
 瀬戸市は愛知県北西に位置し、南東に豊田市がある。法政大学「現地研究 自然」(文学部地理学科2015/01/28~30)
2021/03/03 21:46
2021/03/03 21:49
2021/03/02 13:34
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登場人物紹介

【神霊矢口】とさみや じゅのうじょうだい アキラ

十三宮 寿能城代 顯

関東州 東京府 東京市 蒲田区


蠍座♏11月1日トパーズ

・一人称「私」

・二人称「あなた様

・地位 中級生?

・専攻 地理学(共生科学士)

・属性 

・武技 レーザー剣・自動小銃

・愛機 ステルス攻撃機ナイトホーク(誘導爆弾)


 十三宮聖の義弟、また星川初の養子。本名は「富田巌千代」で、宗教信仰者としての法号(生前戒名)が「アキラ」。東京の大森・蒲田で生まれ育ち、地理学などの探究に基づき文芸作品を創る「地球学(地理学文芸)作家」を称す。同人サークル「スライダーの会」を結成した会長であり、一心同体の校長(マネージャー)である春原あきらと共にサークルを運営。


「天主と神仏に感謝を、あなた様に幸福を…合掌」

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