夢の記憶、第三部

文字数 4,803文字

 第三十一話、終の棲家
  流離い

「流離い」
 この言葉の持つであろう重さは、多くの呪縛を僕にもたらしながら、ここまで付き纏い続け、そして、もう残り少ない時間の中で、今もまだ得体のしれぬ力で僕を苛む。
 だが、それを嫌うでもなく、待ち望むでもなく、僕は、現実と非現実の狭間を「流離い」続けるのである。

 夢の中、僕はいつも何かを追い、何かに追われ、そして迷い続けている。
 それは、ゆく宛もない旅であったり、知らない町やの山の風景の中であったりするのであるが、常に「哀愁」のようなものを漂わせながら、重い何かをその身の内に含ませ、急ぐでもなく、ただ悠然と、いや、時には追いかけられるが如く、何かを探し求めたりし続けているのである。
 確かに、見知らぬ場所で戸惑いながら、僕は何処かに行こうとしている。それだけが「心の何処か」に理解できぬ不安とともに在る……。

 老いぼれたこの身の何処かに、若し、「死」という意識みたいなものが存在するとすれば、それは、「終の棲家」を求めての「流離い」の旅の途中であるのかもしれない。
 が、僕は、その旅がそこで終焉を迎えるということを意識の内に感じたことはない。
 誰しも「死なない」ということはないのであるからして、僕もまた死というもの、つまり、「死に場所」というものを探しているのか、求めているのかして、終わることのない、永遠の時の中を「流離い」続けているのかもしれない……。

「流離い」の果てに、いつか、そう、そう遠くない未来に、僕は、死ぬであろう岸辺に流れ着く。
 穏やかな死であろうが、藻掻き苦しんでの死であろうが、そんなことは構いはしない、ただそこが、僕の「死に場所」であるだけ、それだけのことである。

             その三十一、終わり。
                     



夢の記憶、第三十二話
 2021、夏の夜の夢

 夏バテというのであろうか、身体が少し重く、気怠い。
 もう法師蝉も鳴きだした黄昏時、一日の疲れが、異様な倦怠感を伴って重く身体に覆いかぶさってくる。
 まぁ、老い耄れてきたせいもあるのではあろうが、コップ二、三杯のビールの晩酌の後、いつものPC遊びも負担に感じ、少し苦しい息の下、寝床に横になる。
 心の臓の薬のせいで、夜中に幾度か用を足しに起きるのであるが、夜明け前のころになると、なかなか寝付けない。
 そんな時によく夢を見る。
 穏やかに寝入れば、夢を見ることもないか、好い夢を見るのであろうが、どういうわけか、そうでないこと、つまり、「怖い夢」を見ることが往々にしてある。
 訳もわからず、ひたすら追いかけられて、ひたすら逃げまくる。
 夢のそんなシーンに理何ぞ存在するはずもないのではあろうが、ははは、寝覚めは非常によろしくない。そして、その記憶も、夢であるせいか希薄である。
 
 山遊びが好きということもあるのであろうが、怖い?夢の一番は、熊との遭遇、もしくは闘い、そしてひたすら逃げまくる……。
 その歯牙にかかって血を流すことも、死ぬこともない、いや、痛みすら覚えることもないのではあるが、多くの場合、ハッピーエンドとはいかないようで、怖い?まま夢から覚めるのであるからして、あまり「夢見」はよろしくない。
 そして、夢であるからして、追い詰められて木に登ろうが、急崖から飛び降りようが、どこまでも熊はしつこく私に追いすがる。
 だが、どこかで、「死にはしないさ、怪我もしないさ」という曖昧な「納得ずく?」感も確と存在するのであるからして、心底怖い夢だとは言い難いのかもしれない。
 
 頻繁に通っていた山遊びの中で、熊に遭遇するということは、怖さ半分、遭いたさ半分、という面も大いにあったのではあるが、ある日、会津の小さな渓流で岩魚を釣っているとき、すぐ後ろで枯れ木を踏みしだく重量感のある音がした。
 とっさに、「熊!」と直感したので、恐る恐る振り返ると、大きな熊が藪一つ向こう、数メートルのところで、地面を嗅ぎまわっているではないか。
「熊さん」が気付くのももはや時間の問題、いや、その時間なんてものはもうないほどの至近距離である……。
 藪越しに対峙した「熊さんと私」。
 その距離、恐らく五メートルは無い。
 私の存在を確かめようとしたのであろうか、のっそりと立ち上がった熊さんの大きさは、恐怖感も相まって、かなりの大きさに感じられた。
 絶体絶命なのであろうに、私の心は何故か静かであった。
 距離があれば逃げる余裕もあるのであろうが、こうなれば、何をしようが無駄なこと、成り行きに任せるしかないと、腹を括ったとは言い難いが、まぁ諦めるしかなかった。
 数分?いや数十秒なのかなぁ、微動だにせぬ睨み合いが続く……。
「!?」
 なんだ、この目の優しさは……。
 熊さんは、その黒い大きな目に哀愁みたいなものを漂わせ、神々しさに似たものさえ私に感じさせた。
 その熊さんの「優しい目」が、私の心を解したのであろうか。一瞬の感情のやわらぎみたいなものが私の心に生まれた。
 そして熊さんは、静かに目線を逸らすと、何事もなかったかのように、流れから離れるように藪をかき分けてゆく。
「ホッ」とした瞬間、熊さんが、突然猛スピードで山の斜面を駆け上って、一目散に逃げ去っていったのである。
 キョトン!
 とまぁ、そう表現した方が適切であろうか……。
 なにゆえに……。
 それからかなりの年月が経ったが、未だにその訳は解らない……。

 その経験が、夢に現れる熊さんに対し恐怖心を感じさせないのであろうか、逃げている最中も、どこかに安堵感が漂っているのである。
「畏怖感」若しくは「畏怖心」という表現が正しいのかどうか、よくは解せないが、そんなものの中に、この遭遇の意味するものが在るような気もするのである。
 人と人においても同じなのではあるまいか、互いの尊厳を認め合えば……。

 なんぞと、夢の中の熊さんの目に、あの時の熊さんの目を重ね見ながら、夏バテ気味の老い耄れは、今夜もまた、「こわい夢」を見るのであろうか……。

     2021、夏の夜の夢
                  おわり
*第一部に重なるような話がありますが、別物と見ていただければ幸いです。


夢の記憶  第三十三話
   峠……、悔いを背負いて

 遠いあの日、自分は、この峠を越えんと、要りもしない荷物まで詰めこんだ大きなリュックを背負い、ただただ我武者羅に越えようとしていたのではないのか……。
 老いて今、振り返るとき、その多くは、哀しいほどに虚しいことであったのではないかと悔やまれる……。
 いや、悔やまれるというのは正しい表現ではないのかもしれない。
 悔恨……。
 そう、一抹の不安のような……。
 そして、その不安は「言い知れぬ何かをひそめた夢」を齎す。
 それが嫌だとか、怖いとか、そういうことを意識することは余り無い。
 夢というものは、時として他愛のないものであるが、反面、己の心を奥底からかき混ぜ傷つけられる。
 遠い記憶の一部であったり、記憶すらないこと、いや、忘れてしまった筈のことであったりする……。
 ははは、本題とは少しずれてきたようで、あの日の夢に戻ると致しますか……。

 老い耄れた今も、その重きリュックの残した両肩の食い込みの痕の数々は、多少の差はあれ、確かに老い耄れの心を苛む。それが、「好き思い出」であろうことは、ほとんどないといえるのは、如何に自らの生き方が、自分らしくは無かったということなのであろう・・・。

   悔い多し 過ぎ去りし時 微かな痛み
 夢であれば、その身に背負いし荷を捨て去ること若しくは忘れ去ることはごく簡単なことではないのか。が、夢の僕は、それを捨てきれないまま、きつい坂道を上り詰め「峠」を目指す。
 その荷が一体何であるのか、そんなことは考えたこともないが、まぁ、二、三泊の縦走時のように重い荷なのであろうことは、記憶の何処かでしっかりと感じられるのである。
 縦走に備えた山歩きであれば、その荷は必要な物、恐らく、飯盒とかテントとかなのであろうが、夢の荷は、果たして何であるのであろうか。

   背負い来し荷の重ささえ今は知らずに
 ということなのであろうことは、夢なれば当然のことなのかもしれない……。
 人の生き方なんて、まぁ、「峠」を越えてゆくことの連続、そう思えば、極々当然のこと、生きんがための荷をその背に背負うているに違いない。
 それが何であろうと、その人にとっては大事なものであるのであろうが、僕の荷は、果たして何であるのであろうか……。
 ここまで生きるに、ここまで生きんがために、背負い込んだもの、それは、やはり「悔い」なのであろうか……。
 すれば、それは、「罪」
「悔い」と「罪」
 夢なれば、それは同列に存在しうるのではあろうが、内面のことであるから、他人に質されることは無い……。
 が、己の心の内ではそうはゆかない。かなりの重きを持って「断罪」されるのではないのか……。

 まぁ、己個人のことであるからして、忘れれば、もしくは忘れたふりをしていればそれでいいのである。が、もうその時の近い老い耄れにとっては、そうも出来ないこと共も幾つかは存在するのであろうこともまた確かなことなのである……。
「悔いを残して死ぬ」
 それほどの悔いでもないということが、夢の自分の心に引っかかるのは何故であろうか……。いや、今、現実のこの心にもそれは引っかかっているのである。

   *只今酔敲中……につき未完です。


その三十四
    コロナ禍、老い耄れの夢

 オミクロン株、コロナウイルスも遂にここまで来たかと想うのは誰しも同じなのかなぁ。
 老い耄れは、何を成すかの術を知らず、今のところ、ただただ傍観者である。
 いっそのこと、コロナに掛かってさっさと死ねればいいのになぁなんて、あらぬことを考え欲しているのであるからして、これはもう救いようも何も、如何ともし難い……。
 二千二十二年正月半ば、生きる糧も、ゆく当てもなく、老い耄れは、行くも戻るも出来ぬ時代の急瀬に孤立する。自暴自棄にはなれぬ性格のみが、唯一の救いか、が、かといって、自ら負の囲いの中から脱出しようかという気力も体力も、もう既に持ち合わせてはいない。いや、どこか確かとしたそれらに対する反発精神みたいなものを感ずることは感じるのであるが……。
 呆然と傍観者であることを、不可解な悔いをその心の内に抱きながら、ただひたすらに受け入れている。
 そうしなければ生きてはゆけないのだと、ここまで生きてきた老い耄れの浅はかな知恵が、抑制制御という便利な利己主義的作法を身に着けさせてくれたのではあろうか。
 
 さぁてどうする……。
 とまぁ、老い耄れにしても、脱出するべく、その手段を、やるやらないは別として、一応考察してみるのである……。が、少し以前、ひと月ほど続いた抗生物質の大量投与や、薬によるのであろうか、いまだ続く「軽い意識障害」は、それ以上の複雑な思考を拒否して、右前頭部を重く濁らせ、私を嘲笑う……。
 いや、それは肉体の手に入れた自己防衛の唯一の手段であるのかもしれない。

 これは幻想、夢というには語るに足らぬものか……。
 が、老い耄れは、何処か何か、己の見る夢が、これまでとは違うものに変化してきていることに、ぼんやりとではあるが気づき始めている……。
 何が違うのか、うーん、記憶の糸を辿ろうと試みるのではあるが、何せ「夢」のこと、それを確かと把握できる術を持たない。
「夢」という不可解なもの、「夢幻の如く」とか申しますが、目が覚めて、はっきりと筋道を終えることは稀、その多くは、正に「夢幻」、煙霧の彼方、老い耄れがいくら足搔こうとも、叶わぬことのように思われます。

         *22.01.15 只今「酔敲中……」
 
 
 
 

 






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