6話 お喋りの記憶

文字数 1,344文字

 保育園では私は(しゃべ)った記憶がない。
 記憶がないだけで、(しゃべ)った事があるかもしれないが、記憶する限り首ふりで答えていた。

 例外は、 ほっちゃん(上の妹)だけだった。
 とはいえ、ほっちゃんとは年が違う。もちろん、クラスも違う。
 話したといっても、『姉妹仲良く話し合った』というようなものでもない。
 「何しているの?」と私が聞いて、「別に」と妹が答えるくらいだ。
 それ以上何かを話すことはないし、私も妹の答えが分かっていて聞く。
 仲が悪いわけでもないけれど、何となく保育園では関わってはいけないものだと思っていた。


 保育園には、同い年のスズメちゃん(父方の従姉妹)もいた。
 スズメちゃんとも保育園では話さなかった。
 けれど、家ではスズメちゃんとも話していた。話していたといってもこれも、『妹たちに話すように』ではない。
 もっとよそよそしい感じで、決して「親しい」と言えるようなものではなかった。
 父が「ほら、お前らだけで遊べ」と言うから遊んでいたけれど、何とも言えない距離が私とすずめちゃんの間にはあった。
 お互いに小さいころから知っている。
 けれど、お互いにお互いの事をよく知らない。
 人見知りなんて無縁なすずめちゃんと、人見知りの私が『親しく』なれる要素がなかった。


 私と同じように(しゃべ)らない子が、もう一人保育園にいた。
 その子は私と違って、常にお友達と一緒に居た。
 お友達がその子の話を聞いて、皆に伝えていた。
 だから、正確には『お友達一人としか話さない子』なのかもしれない。

 その子が居たから、私は自分を『(しゃべ)らない子供』だとは思わなかった。
 あの子と同じように私も(しゃべ)らないだけ。
 家族とは何の不自由もなく話せるから、自分は普通だと思っていた。
 邪魔にならない場所、目立たない場所でじっとしていれば、話すことはない。
 そうやって日々をやり過ごしていた。


 ある時、保育園から老人ホームへ訪問に行った。
 当時の私はそこがどんな場所で、なぜ来たのか分かっていなかった。
 老人が多くいる場所に連れてこられて、いつもと違うことにとても困っていた。
「はーい。みなさん、おじいちゃんおばあちゃんに、これを渡してね」
 と先生が言った。
 恐らく、手紙かなにかだったのだろうと思う。
 私は見知らぬおばあさんを目の前にして、固まった。
 皆は「どうぞ」なんて言いながら、どんどん手渡している。
 「どうぞ」が言えない。かと言って、無言で手紙を差し出していいのか分からない。
 立ち尽くしている私に、目の前のお婆さんが言った。

「この子、何にも言わんぜ」

 私にはその言葉が自分を責めているように聞こえた。
 お婆さんは思った事を言っただけかもしれない。
 けれども、そう言われたことで私はますます、自分がどうしたらいいのか分からなくなった。
 沈黙が重くのしかかってきて、泣きたくなった。

 そこに先生がやってきた。
「マルちゃん、ほら渡して」
 そう言われて、手紙を差し出す。
 お婆さんは仕方なさそうにそれを受け取った。

この子、なぁんにも言わんがい。(この子は、何も言わなかった)

 ぽつりとお婆さんがそう言った。
 でも、私には何も言えなかった。
 先生は私が手紙を渡したのをみて、他の子の様子を見に行った。


 知らないおばあちゃんがとても怖くて、早くここから立ち去りたかった事を覚えている。
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