第5話
文字数 3,992文字
「ただいまぁ〜」
……と言いながらドアを開ければ、あたかも同居家族がいるかのように、見える。
松乃美咲 はいつものように室内へ身を滑りこませ、素早く玄関のドアを閉め、鍵をした。そして部屋の電気をつけたあと、電車のホームで安全確認をする駅員のごとく、「よし!」と施錠 を指さし確認。都会でひとり暮らしをする女性の鉄則だ。
都会といっても、ここは二十三区から遠く離れた国分寺市。大学在学中から暮らしている女性専用賃貸ワンルームマンションだから両隣もお馴染みさんで、危険な目に遭ったことはない。でも油断は禁物。
「無言で家の中に入ったら、ひとり暮らしってバレバレだもんね」
わざと言い訳を口にしながらパンプスを脱ぎ、スリッパに履き替えれば、そこはもう寝室兼リビング兼キッチン件クローゼットだ。あと、ユニットバスも。
自分で言うのも悲しいけれど、狭い。あまりにも狭い。スリッパを履く意味がない。部屋のサイズについては司会派遣会社スピカのオフィスのほうが若干広いのが、ちょっと悔しい。
手洗いとうがいを済ませ、ベッドにバフンと腰を下ろした。そして美咲はクセになっている流れで、枕元に座らせてあるふわふわのネコのぬいぐるみに手を伸ばし、「ただいま、マリアさん」と呼びかけた。
おなかに顔を埋めたいけれど、ファンデーションで汚してしまう。だからいまは胸にそっと抱きしめるだけ。
この猫・マリアとの出会いは、彼と別れた三日後だった。
彼と住むはずだった目黒のマンションは、彼が解約手続きを済ませることになった。この部屋を引き払う予定だった美咲は、大家さんに賃貸契約を継続したい旨を電話で伝えたのだが、破談になったの? と心配されてしまって……答えられないまま通話を切ったのだった。
たったひとりで部屋にいるのが急に寂しくなってしまい、誰でもいいから会いたくて、でも本当は誰でもいいわけじゃなくて、なにかを思いきり抱きしめたくて、だけどそんなことできる相手なんて……もういなくて。
国分寺駅の北口ビル。一階はスーパー、二階から四階はショップの、こじんまりしたテナントビルだ。
あてもなくエスカレーターに乗り、閉店時刻十分前に、この雑貨店にたどりついた。
なにやら見られているような視線を感じて上空の棚を仰 いだとき、「目が合った」と確信した。「ニギャア」と、太くてガラガラの鳴き声まで聞こえた気がした。
どう見ても太りすぎの、リアルな三毛 猫のぬいぐるみ。その首に提 げられたネームプレートには「マリア ♀ 十二歳」と書かれていて……笑ってしまった。だって、どこから見てもマリアって顔じゃないでしょあなた、と、百人いたら九十九人が突っこみそうなほど不貞不貞 しい。
「あなた、ミケとかタマ顔だよね。もしくはウメさんとかキクさんとかトメさんとか」
思いつくかぎりのお婆さん感を並べたら、妙に愛着が湧いてしまい、引き寄せられるように両手を伸ばして触れていた。
直後、目の奥が熱くなった。戸惑うほどにふわふわで、意味もなくうろたえるほどふっくらしていて、店の商品と知りながら、気づいたときには両手でしっかり抱きしめていた。
その瞬間、ポロポロッと涙が零れて……マリアの後頭部を濡らしてしまったから、だから弁償しなきゃいけないと思って…………じゃなくて。
美咲は泣きながら店員さんにお願いした。いま、お金を持たずに部屋を出てきちゃったんです。でも、どうしてもマリアさんを家族に迎えたいんです。取り置きしてください。明日必ず、お金を持ってきますから。だから、どうか、お願いします──────。
最初こそ戸惑っていた店員さんは、やがて目尻を下げ、頷いてくれた。
マリアさん、とっても静かに人間の話に耳を傾けてくれる優しい子なんですよ……って。
無愛想な顔をしていますけど、人に寄り添ってくれるんですよ……って。
そして、こうも言ってくれたのだ。いますぐにマリアさんをお迎えしたいですよね? と。
抱きしめたまま、一向に棚に戻す兆しのない美咲を訝しむでもなく、その店員さんは……名札によると川島 さんは、その場で自分のサイフからお金を取りだし、レジで精算して、マリアさんを不織布でラッピングして、美咲に渡してくれたのだ。
お金は明日にでも返してくれればいいですから、と。
あのときの店員さん・川島さんとは、いまではすっかり顔なじみだ。
ときどき店へレターセットを買いにいったり、マリアさんの「その後」を報告したりしている。
じつはさっきも就職報告に寄ったばかりだった。「クビになった直後に、救いの神が拾ってくれました」と顛末を説明したら、川島さんはいつものように目尻を下げ、店の看板ぬいぐるみ・黒猫の甚五郎さんを前向きに抱っこして、「おめでとう!」と美咲とハイタッチしてくれたのだ。肉球で。
「応援してくれる人がいるんだから、頑張らなきゃ」
三毛猫のマリアさんを抱えたまま、美咲はベッドに身を起こし、テレビをつけた。
「見たい番組があるわけじゃなくてね、これもトークのレッスンなのよ、マリアさん」
マリアに事情を説明しながら、美咲はチャンネルをNHKに合わせた。ちょうど夕方のニュースが始まるところだ。
先輩司会者・在原泉 さんに言われたのだ。アナウンサーの話し方を研究しなさい、と。
受講料を払うばかりがレッスンじゃない。今日、たったいまから自宅でもできるトレーニングがある、それがテレビの有効活用だと、なんともありがたいアドバイスをくれたのだった。
明日から頑張りますと言った美咲に、在原さんとマネージャーのチカさんが「今日からでしょ!」と目を剥 いたのは、こういうことだったのだ。
例えば、『令和は、昭和の発音じゃなくて、明治』ということ。元号が切り替わったとき、民放アナウンサーの多くは昭和の発音で新元号を発表していた。でも首相が明治の発音だったことで、その後統一されたという。
発表の直後、スピカのオフィスには司会者たちから、「どっちの発音ですか?」と、次々にメールが入ったらしい。「世間が落ちつくまで待てぃ!」と、チカさんが一蹴 したそうだけれど。
結果は、ドレミファソラシドの音階で表現すれば、レドドのメイジ。レレレのショウワ、ではない。
そういう細かな……でも、話す職業の人間にとっては非常に重要なことをテレビからいくらでも学べる。
『……────で、母の日に先駆けて、赤いカーネーションが出荷されました』
「……あ」
いま、赤いカーネーションが出荷、とアナウンサーが言った。
「赤い」は「ドレレ」。「ドレド」ではない。「赤いカーネーション」を続けて言うと、「ドレレ、レーレドドド」となる。これは今日、美咲が「赤い色」を「ドレドドド」と発音してしまい、在原さんに指摘されたばかりだった。
『赤い、は、いで下がらないの。ドレレよ。思い込みや馴れで、誤った発音が身についているかもしれないから、まずはひとつひとつの単語や形容詞を、アクセント辞典で調べなさい』
……とチェック方法を教わったから、早速アクセントの辞書アプリをダウンロードした。これからは気になる単語を自分でチェックできる。毎日十個の発音を修正すれば、十日で百個だ。
『アナウンサーの話し方を聞くのは当然。あと、よく観察しなさい。どのくらい口を開いている?』
「ごく普通です、在原先輩」
『でしょ? 松乃さんはね、きちんと話そうとするあまり、無理して口を大きく開けているかも。でもね、その話し方は不自然よ。それと、そんなにバタバタ口を開けたり閉じたりしていたら、スムーズに話せないし、なにより顔の筋肉が疲れるでしょ? 長続きしないわ』
「おっしゃるとおりです、在原先輩」
すでに頬の筋肉が疲労困憊です……と呟いて、美咲はふふっと笑みを漏らした。いまここに在原泉先輩がいたら、『ほら、ごらんなさい』と呆れられてしまいそうだ。
フローラルの司会育成講座では、いつもサオリ先生に言われていた。もっと明るく、もっと華やかに、と。だから笑顔も「作った」し、身振り手振りも「付けよう」とした。華やかに「見える」ように。
でも、違和感はあったのだ。言うなれば……お芝居しているみたいな。
素顔じゃなくて、メイクしたみたいな。
心から湧いてくる言葉ではなく、見栄えや聴き映 えのいい形容詞を並べて、ほら綺麗でしょ、と自慢しているみたいな。
もちろん美しさや華やかさは必要だと思うけれど、無理は違うと思う。
どんなことでもそうだけれど、無理は続かない。いつか必ずつらくなるし、見抜かれる。
無理しなきゃよかった……って、後悔する羽目になる。
『無理して飾っても、バレるって。美咲ちゃんは美咲ちゃんの良さがあるんだから、そこを伸ばしなさいっつってるわけよ、マネージャーとしては』
「はい、チカさん。そうします」
いまこの部屋にいないふたりとエア・トークを続けながら、美咲はマリアの脇の下に手を差し入れ、高く抱きあげた。
天井の白熱灯が背景になって、マリアに後光が差して見える。それだけのことが、なんだか嬉しい。努力すれば、いまよりきっと前進できるし、輝ける。そんな気がする。
「私、頑張るね。だから応援してね、マリアさん」
ニギャア、と鳴いてはくれないけれど、美咲の心にはちゃんと響くし、ちゃんと見える。
応援してくれる存在の、優しい声や笑顔たちが。
第6話に続く→→→
……と言いながらドアを開ければ、あたかも同居家族がいるかのように、見える。
都会といっても、ここは二十三区から遠く離れた国分寺市。大学在学中から暮らしている女性専用賃貸ワンルームマンションだから両隣もお馴染みさんで、危険な目に遭ったことはない。でも油断は禁物。
「無言で家の中に入ったら、ひとり暮らしってバレバレだもんね」
わざと言い訳を口にしながらパンプスを脱ぎ、スリッパに履き替えれば、そこはもう寝室兼リビング兼キッチン件クローゼットだ。あと、ユニットバスも。
自分で言うのも悲しいけれど、狭い。あまりにも狭い。スリッパを履く意味がない。部屋のサイズについては司会派遣会社スピカのオフィスのほうが若干広いのが、ちょっと悔しい。
手洗いとうがいを済ませ、ベッドにバフンと腰を下ろした。そして美咲はクセになっている流れで、枕元に座らせてあるふわふわのネコのぬいぐるみに手を伸ばし、「ただいま、マリアさん」と呼びかけた。
おなかに顔を埋めたいけれど、ファンデーションで汚してしまう。だからいまは胸にそっと抱きしめるだけ。
この猫・マリアとの出会いは、彼と別れた三日後だった。
彼と住むはずだった目黒のマンションは、彼が解約手続きを済ませることになった。この部屋を引き払う予定だった美咲は、大家さんに賃貸契約を継続したい旨を電話で伝えたのだが、破談になったの? と心配されてしまって……答えられないまま通話を切ったのだった。
たったひとりで部屋にいるのが急に寂しくなってしまい、誰でもいいから会いたくて、でも本当は誰でもいいわけじゃなくて、なにかを思いきり抱きしめたくて、だけどそんなことできる相手なんて……もういなくて。
国分寺駅の北口ビル。一階はスーパー、二階から四階はショップの、こじんまりしたテナントビルだ。
あてもなくエスカレーターに乗り、閉店時刻十分前に、この雑貨店にたどりついた。
なにやら見られているような視線を感じて上空の棚を
どう見ても太りすぎの、リアルな
「あなた、ミケとかタマ顔だよね。もしくはウメさんとかキクさんとかトメさんとか」
思いつくかぎりのお婆さん感を並べたら、妙に愛着が湧いてしまい、引き寄せられるように両手を伸ばして触れていた。
直後、目の奥が熱くなった。戸惑うほどにふわふわで、意味もなくうろたえるほどふっくらしていて、店の商品と知りながら、気づいたときには両手でしっかり抱きしめていた。
その瞬間、ポロポロッと涙が零れて……マリアの後頭部を濡らしてしまったから、だから弁償しなきゃいけないと思って…………じゃなくて。
美咲は泣きながら店員さんにお願いした。いま、お金を持たずに部屋を出てきちゃったんです。でも、どうしてもマリアさんを家族に迎えたいんです。取り置きしてください。明日必ず、お金を持ってきますから。だから、どうか、お願いします──────。
最初こそ戸惑っていた店員さんは、やがて目尻を下げ、頷いてくれた。
マリアさん、とっても静かに人間の話に耳を傾けてくれる優しい子なんですよ……って。
無愛想な顔をしていますけど、人に寄り添ってくれるんですよ……って。
そして、こうも言ってくれたのだ。いますぐにマリアさんをお迎えしたいですよね? と。
抱きしめたまま、一向に棚に戻す兆しのない美咲を訝しむでもなく、その店員さんは……名札によると
お金は明日にでも返してくれればいいですから、と。
あのときの店員さん・川島さんとは、いまではすっかり顔なじみだ。
ときどき店へレターセットを買いにいったり、マリアさんの「その後」を報告したりしている。
じつはさっきも就職報告に寄ったばかりだった。「クビになった直後に、救いの神が拾ってくれました」と顛末を説明したら、川島さんはいつものように目尻を下げ、店の看板ぬいぐるみ・黒猫の甚五郎さんを前向きに抱っこして、「おめでとう!」と美咲とハイタッチしてくれたのだ。肉球で。
「応援してくれる人がいるんだから、頑張らなきゃ」
三毛猫のマリアさんを抱えたまま、美咲はベッドに身を起こし、テレビをつけた。
「見たい番組があるわけじゃなくてね、これもトークのレッスンなのよ、マリアさん」
マリアに事情を説明しながら、美咲はチャンネルをNHKに合わせた。ちょうど夕方のニュースが始まるところだ。
先輩司会者・
受講料を払うばかりがレッスンじゃない。今日、たったいまから自宅でもできるトレーニングがある、それがテレビの有効活用だと、なんともありがたいアドバイスをくれたのだった。
明日から頑張りますと言った美咲に、在原さんとマネージャーのチカさんが「今日からでしょ!」と目を
例えば、『令和は、昭和の発音じゃなくて、明治』ということ。元号が切り替わったとき、民放アナウンサーの多くは昭和の発音で新元号を発表していた。でも首相が明治の発音だったことで、その後統一されたという。
発表の直後、スピカのオフィスには司会者たちから、「どっちの発音ですか?」と、次々にメールが入ったらしい。「世間が落ちつくまで待てぃ!」と、チカさんが
結果は、ドレミファソラシドの音階で表現すれば、レドドのメイジ。レレレのショウワ、ではない。
そういう細かな……でも、話す職業の人間にとっては非常に重要なことをテレビからいくらでも学べる。
『……────で、母の日に先駆けて、赤いカーネーションが出荷されました』
「……あ」
いま、赤いカーネーションが出荷、とアナウンサーが言った。
「赤い」は「ドレレ」。「ドレド」ではない。「赤いカーネーション」を続けて言うと、「ドレレ、レーレドドド」となる。これは今日、美咲が「赤い色」を「ドレドドド」と発音してしまい、在原さんに指摘されたばかりだった。
『赤い、は、いで下がらないの。ドレレよ。思い込みや馴れで、誤った発音が身についているかもしれないから、まずはひとつひとつの単語や形容詞を、アクセント辞典で調べなさい』
……とチェック方法を教わったから、早速アクセントの辞書アプリをダウンロードした。これからは気になる単語を自分でチェックできる。毎日十個の発音を修正すれば、十日で百個だ。
『アナウンサーの話し方を聞くのは当然。あと、よく観察しなさい。どのくらい口を開いている?』
「ごく普通です、在原先輩」
『でしょ? 松乃さんはね、きちんと話そうとするあまり、無理して口を大きく開けているかも。でもね、その話し方は不自然よ。それと、そんなにバタバタ口を開けたり閉じたりしていたら、スムーズに話せないし、なにより顔の筋肉が疲れるでしょ? 長続きしないわ』
「おっしゃるとおりです、在原先輩」
すでに頬の筋肉が疲労困憊です……と呟いて、美咲はふふっと笑みを漏らした。いまここに在原泉先輩がいたら、『ほら、ごらんなさい』と呆れられてしまいそうだ。
フローラルの司会育成講座では、いつもサオリ先生に言われていた。もっと明るく、もっと華やかに、と。だから笑顔も「作った」し、身振り手振りも「付けよう」とした。華やかに「見える」ように。
でも、違和感はあったのだ。言うなれば……お芝居しているみたいな。
素顔じゃなくて、メイクしたみたいな。
心から湧いてくる言葉ではなく、見栄えや聴き
もちろん美しさや華やかさは必要だと思うけれど、無理は違うと思う。
どんなことでもそうだけれど、無理は続かない。いつか必ずつらくなるし、見抜かれる。
無理しなきゃよかった……って、後悔する羽目になる。
『無理して飾っても、バレるって。美咲ちゃんは美咲ちゃんの良さがあるんだから、そこを伸ばしなさいっつってるわけよ、マネージャーとしては』
「はい、チカさん。そうします」
いまこの部屋にいないふたりとエア・トークを続けながら、美咲はマリアの脇の下に手を差し入れ、高く抱きあげた。
天井の白熱灯が背景になって、マリアに後光が差して見える。それだけのことが、なんだか嬉しい。努力すれば、いまよりきっと前進できるし、輝ける。そんな気がする。
「私、頑張るね。だから応援してね、マリアさん」
ニギャア、と鳴いてはくれないけれど、美咲の心にはちゃんと響くし、ちゃんと見える。
応援してくれる存在の、優しい声や笑顔たちが。
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